ロシア学事始

ロシア帝国

国号

 ロシア帝国 Российская империя (Rossiyskaya imperiya)。
 ロシアでは、«ロシア帝国» と言った場合、ピョートル大帝が皇帝を名乗った1721年以降を指す。国号の項でも触れたが、そもそも «ロシア» という言葉自体、一般化するのはこれ以降である(それ以前は «ルーシ»)。

成立

 1721年10月20日/10月31日 or 10月11日/10月22日。この日、元老院がピョートル1世に «全ロシアの皇帝» という称号を奉った。この日をもって新しい国家が誕生したというわけではなく、ただ単に君主の称号が «皇帝» になったから国号が «帝国» になった、というにすぎない。

 以下、これ以外の日付を挙げてみる。

 1547年01月16日 or 01月07日。この日、イヴァン4世(雷帝)がツァーリとして即位。これをもって歴史書では国号を «モスクワ大公国» から «ロシア・ツァーリ国» に替える。«ツァーリ» という称号を «皇帝» と同一視するならば、この時 «ロシア帝国» が誕生したと言っていい。
 1480年10月。ウグラ河畔においてモスクワ軍と対峙を続けていたキプチャク・ハーン軍が撤退。これをもって «タタールのくびき» は終了し、モスクワ大公国はキプチャク・ハーン国への従属から最終的に解放された。«独立国家» の誕生ということで言えば、これがロシア成立の日付と言える。
 1263年。アレクサンドル・ネフスキイの死で、四男ダニイール・アレクサンドロヴィチがモスクワを領地として相続。モスクワ公国の誕生。
 862年。リューリクがノーヴゴロド公国を建国。ロシア最初の国家。

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消滅

 1917年03月02日/03月15日。この日、最後の皇帝ニコライ2世が退位宣言書に署名。
 ただしニコライ2世が署名したのはあくまで本人の «退位» に関する勅令であり、弟ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公に譲位するものとしていた。しかしミハイール・アレクサンドロヴィチ大公も翌03月03日/03月16日、即位を保留。これにより事実上帝政は崩壊した。
 さらに言うと、ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公は即位を拒否したわけではない。憲法制定会議が招集されて国民自身が国家体制を決定し、その上で帝政を選択するならば即位するという含みがあった。

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王朝

 ロマーノフ家。ただし、歴史家の中にはピョートル3世以降を «ロマーノフ・ホルシュタイン=ゴットルプ家» などと呼んでそれ以前と区別する者もある。

 歴代皇帝は以下のとおり。

在位名前
11721-25ピョートル1世
21725-27エカテリーナ1世
31727-30ピョートル2世
41730-40アンナ・イヴァーノヴナ
51740-41イヴァン6世
61741-61エリザヴェータ・ペトローヴナ
71761-62ピョートル3世
81762-96エカテリーナ2世
91796-1801パーヴェル・ペトローヴィチ
101801-25アレクサンドル1世
111825-55ニコライ1世
121855-81アレクサンドル2世
131881-94アレクサンドル3世
141894-1917ニコライ2世

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シンボル

国歌

 『神よツァーリを護りたまえ』。1833年に制定された。作詞:ヴァシーリイ・ジュコーフスキイ、作曲:アレクセイ・リヴォーフ。

 しばしば『ロシア人の祈り』が最初の国歌とされるが、法的に «国歌として» 制定されたわけではない。さらにそれ以前にも国歌があったかのような記述も見られるが、それらはすべて «後知恵»。こんにちから振り返って、「国歌としての役割を果たしていた」というだけのことである。

国旗

 三色旗。
 1858年に制定された最初の国旗は、黒黄白。しかし1883年、替わって白青赤の三色旗が国旗とされた。

黒黄白の三色旗 白青赤の三色旗

 ピョートル大帝以降、ロシア海軍の軍艦は «聖アンドレイ旗» を掲げており、このため諸外国からはこれがロシアの国旗と認識されたこともあった。

聖アンドレイ旗

紋章

 双頭の鷲。1667年、勅令により制定。

双頭の鷲

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首都

 サンクト=ペテルブルグ。ただし1728年から32年まではモスクワ。

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最終更新日 10 07 2011

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