ロシア学事始ロシア史概観

ロシア史概観

古代ルーシ

 厳密な定義があるのかないのか知らないが、通常 «古代ルーシ» と言った場合、ロシアでは、キエフ・ルーシの時代を指す。とりあえずここでは便宜上、それ以前と以後を含んでおく。

歴史以前

 «ロシアの歴史» とは、こんにちのロシア連邦が領土とする土地の歴史なのか、それともいわゆるロシア人の歴史なのか。かつて古代アルメニアから記述を始めていたロシア史の本があった。確かに当時ソ連の領土の中で、もっとも古い歴史を有したのがアルメニアであるからそれもおかしくないと言えば言えるが、それでも違和感は拭えない。
 こんにちのロシア連邦の領土では、南ロシアからウクライナにかけての地域で古来キンメリア人、スキタイ人、サルマティア人などが活躍していた。一方スラヴ人は、おそらくポーランドからベラルーシにかけての地域で農業を営んでいたものと想像される(これについては異論も多い)。やがて民族大移動によってゲルマン人の去った地域にスラヴ人が拡散。とはいえ、ヨーロッパ・ロシアについてはその中西部だけがスラヴ人の土地であり、それ以外は北部がウラル系の諸民族、南部が遊牧民族の土地に長くとどまっていた。

キエフ・ルーシ

 9世紀に東スラヴ系の諸部族が政治経済的共同体を形成したのが、ロシア史の開幕である。年代記的には、862年にリューリクが建てたノーヴゴロド公国が、ロシア最初の国家ということになる。
 その後を継いだオレーグがキエフに遷都し、続くイーゴリ、スヴャトスラーフ、ヴラディーミルが東スラヴ系の諸部族を平定し、ヴラディーミルとその子ヤロスラーフ賢公によってこの勢力圏はキエフ・ルーシという国家として確立した。

 しかしリューリクの末裔(リューリコヴィチ)は領土の分割相続を繰り返し、キエフ・ルーシは無数の公国に細分化されていく。
 初期にはそれでもキエフ大公がキエフ・ルーシ全体の宗主権を握っていたが、12世紀半ば以降はその権威・権力も有名無実化し、北東で自ら大公を名乗ったヴラディーミル大公国、南西のガーリチ=ヴォルィニ公国、北でキエフ大公の権威を認めないどころか自前の公すらも気に入らなければ追い出して貴族による寡頭制共和政治を打ち立てたノーヴゴロド共和国を筆頭に、ポーロツク公国、チェルニーゴフ公国、スモレンスク公国などに分裂した。

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タタールのくびき

 キエフ・ルーシに最後のとどめを刺したのは、13世紀半ばのモンゴルの襲来である。さらにその後100年をかけてリトアニアがベラルーシとウクライナを征服。これによりキエフ・ルーシは、リトアニア領(一部ポーランド領)となった現ベラルーシ・ウクライナと、キプチャク・ハーンの宗主権下に置かれた東ルーシ・北東ルーシ、そして独立を維持したノーヴゴロドの3つの地域に分裂した。
 キプチャク・ハーンによる北東・東ルーシ支配を、ロシアでは «タタールのくびき» と呼ぶ。

 北東ルーシのヴラディーミル大公国では、大公の地位を巡ってトヴェーリ公とモスクワ公とが激しく争うが、14世紀半ばにはモスクワ公が勝利(以後、モスクワ大公と呼ぶ)。
 モスクワ大公は当初はキプチャク・ハーンに従順だったが、北東ルーシの覇権を握った頃から敵対しはじめ、1380年にはクリコーヴォの戦いでキプチャク・ハーン軍を破っている。1480年、モスクワ大公イヴァン3世がキプチャク・ハーンの宗主権を否認し、«タタールのくびき» は終わりを告げた。

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モスクワ・ロシア

 ロシア語ではモスクワ・ロシアではなくモスクワ・ルーシ。

モスクワ・ロシア

 キプチャク・ハーンとの闘争と並行して、モスクワ大公は周辺ルーシ諸公の制圧に乗り出した。特に1478年にはノーヴゴロド共和国を、1485年にはトヴェーリ大公国を併合。1521年頃、最後に残ったリャザニ大公国をも併合し、キプチャク・ハーン、ポーランド=リトアニアの支配を受けていない旧ルーシ諸公国をほぼ統一した。
 さらにモスクワ大公イヴァン3世はポーランド=リトアニアとの戦争を通じて、その支配下に入っている旧ルーシ諸公国の奪還をも目指す。
 こうして国際的な威信を高めたイヴァン3世は、それまでビザンティン皇帝やキプチャク・ハーンにのみ使っていた «ツァーリ» という称号を自ら名乗り、双頭の鷲を自らのシンボルとして使いはじめる。

 孫のイヴァン雷帝は、リヴォニア戦争を通じてスウェーデンやポーランド=リトアニアとバルト海沿岸部を激しく争う。また1552年にはカザン・ハーン国を、1556年にはアストラハン・ハーン国を征服した(それぞれキプチャク・ハーン国が分裂崩壊してできた国)。さらに1582年にはシビル・ハーン国を滅ぼし、シベリアへの道が開かれた。
 イギリスとの通商が始まったのもこの時代である。
 イヴァン雷帝はさらにこれまでの大貴族の力を削減し、宮廷貴族を登用。

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スムータ

 イヴァン雷帝の死後、遺児フョードル1世の下で実権を握ったボリース・ゴドゥノーフは、フョードル1世の死後自らツァーリに。しかしその西欧化政策は保守的な正教会の反発を呼び、権力の獲得・維持に際して大貴族たちと対立し、晩年は偽ドミートリーの出現でロシアは混乱状態に陥った。この混乱の時代を «スムータ»、あるいは «スムータの時代» と呼ぶ。
 ボリース・ゴドゥノーフの死後、偽ドミートリイがツァーリとなり、かれが殺されてヴァシーリイ・シュイスキイがツァーリとなったが、これまた大貴族たちにより廃位され、実権を掌握した7人の大貴族(«セミボヤールシチナ»)はポーランドの王子をツァーリとして招き、あまつさえポーランド軍をモスクワに呼び入れた。モスクワは事実上ポーランドの軍政下に置かれ、さらに北西部はスウェーデンに占領されて、ロシアは崩壊の瀬戸際に立たされた。

 この時義勇軍を率いて立ち上がったのが、ニージュニイ・ノーヴゴロドの商人クジマー・ミーニンと、由緒正しくも落剥した貴族ドミートリイ・ポジャールスキイ公である。
 かれらの活躍でポーランド軍は撃退され、モスクワに集まった諸侯や市民はミハイール・ロマーノフを新たなツァーリに選出。ちなみにこの時、ミハイール・ロマーノフを狙ったポーランド軍を道案内すると偽って惑わし、ミハイールの命を救ったイヴァン・スサーニンの話はグリンカのオペラになってロシア人なら誰でも知っている。
 こうしてスムータの時代は終わった。

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ロマーノフ朝の登場

 ミハイールとその子アレクセイ、さらにその子フョードル3世の治世は、スムータ時代の清算とツァーリ権威の確立、スウェーデン・ポーランドからの領土奪回に明け暮れた60年であったと言っていいだろう。
 この間、スウェーデンは北ドイツに関心を移し、他方でポーランドは弱体化してロシアとの力関係を逆転させ、ロシアにとっては有利な環境にあった。特に1648年に始まったウクライナ・コサックの反ポーランド蜂起は、ロシアにとってはウクライナ征服の格好の口実となった。
 他方、これによってロシアは新たに黒海沿岸を根城とするクリム・ハーン国、そしてその背後に控えるオスマン帝国とぶつかることになる。

 フョードル3世死後、権力闘争の結果その姉ソフィヤが実権を握る。しかしソフィヤの治世は失敗で、結局権力の座を追われて異母弟ピョートル大帝が実権を掌握した。

 この時代はまた、ボリース・ゴドゥノーフの路線を継承して西欧化(具体的にはポーランド化)が徐々にではあれ進められた時期でもあった。«タタールのくびき» で西欧のルネサンスとも宗教改革とも大航海時代とも無縁に過ごし、その後も長く孤立していたロシアが、ようやく西欧文明を受け入れはじめた時期である。

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ロシア帝国

ロシア帝国の成立

 ピョートル大帝はロシアの歴史を大きく変えた人物である。
 海軍を創設し、バルト海帝国を築いていたスウェーデンを北方戦争で破ってサンクト・ペテルブルグを建設し、自らバルト海に乗り出し、さらにアゾーフ海を制圧して黒海にも乗り出した。
 スウェーデンを破り、ウクライナ・コサックを制圧し、クリム・ハーン国やオスマン帝国とも戦って領土を大きく拡大。
 自らオランダ・イギリスに視察旅行に赴き、その最先端の文化を導入。臣下の髭を自ら切り落とし、ロシア宮廷をヨーロッパ化させた(天地創造を元年としていた紀年法から西暦に替え、9月1日を元旦としていた暦を変更して1月1日を元旦としたのもピョートル大帝)。
 新都サンクト・ペテルブルグに、ロシア風の木造建築ではなく石造宮殿を建築し、肖像画、彫刻、銅像などのヨーロッパ文化を輸入した。
 息子や姪をドイツ諸侯の子女と結婚させ、ロマーノフ家をヨーロッパの王家の一員とした。
 最後に、1721年に自ら «全ロシアの皇帝» を名乗る。ロシアで «ロシア帝国» と言えば、この1721年以降のことを指す。それはまさに、ロシアがヨーロッパの大国のひとつとなった時でもあった。

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女帝の時代

 ピョートル大帝は君主権力の絶対性を追及した皇帝でもあり、その極めつけは皇位継承者を皇帝自身が指名する、という継承法であろう。ところがこのような継承法が機能するはずもなく、以後エカテリーナ1世、ピョートル2世、アンナ・イヴァーノヴナ、イヴァン6世、エリザヴェータ・ペトローヴナ、ピョートル3世、エカテリーナ2世、パーヴェルと続く歴代皇帝のうち、先代皇帝の遺言通りに皇帝となったのは半数でしかない。
 この時代はまた、絶対的な皇帝権力と旧来の大貴族の権力とがしのぎを削った時代でもある。と同時に、ピョートル大帝以来急増した外国人の活躍が特に目立った時代でもあった。
 しかし様々な紆余曲折はあったが、ピョートルの始めた改革は徐々に根付いていく(首都も一旦はモスクワに戻されたが、1731年以降はサンクト・ペテルブルグに定着した)。そしてそれが花開いたのが、エリザヴェータとエカテリーナ2世のふたりの女帝の時代である。この50年で、マニュファクチャーは発展してロシアは経済的にも大きく発展。ピョートル時代にも増してサンクト・ペテルブルグやその周辺に幾多の宮殿が建設され、宮廷を中心とした社交界が成立。対外的にもベルリンを占領し、3度にわたるポーランド分割とクリム・ハーン国征服により領土を拡大し、ロシアは押しも押されぬ大国としての地位を確立した。

 農奴制が確立したのもこの時代であった。
 もともと地主と小作農民との力関係などどこでも一緒で、ロシアだけ特別というほどではなかった。しかし少しづつ農民の移動の自由が制限され、その権利が奪われていく。特に安定した兵力・労働力供給を確保するため、ピョートル大帝によって農民の権利は著しく削減された。そしてエカテリーナ2世によって、農奴制は完成したとされる。

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革命と反動の時代

 パーヴェルとアレクサンドル1世の治世は、フランス革命とナポレオン戦争への対応、ピョートル以来の改革の修正とそれへの反動により、ロシアが大きく揺れ動いた時代である。特に農奴制の廃止はすでにこの時代には大きな課題となっていた。
 他方でナポレオンのロシア遠征を撃退しパリを占領したロシアの軍事力は大きな意味を持ち、イギリス、プロイセン、オーストリア、フランスと並ぶ五大国のひとつとしてヨーロッパ情勢を動かした。
 特にニコライ1世は «ヨーロッパの憲兵» と呼ばれ、1848年の三月革命ではハンガリーに出兵してその動乱を鎮圧。国際的な威信を高めた。しかし晩年にはオスマン帝国治下のキリスト教徒の庇護問題でクリミア戦争を起こし、ロシアは敗戦(敗戦前にニコライ1世は死んでいた)。

 クリミア戦争の敗戦は、続くアレクサンドル2世に改革の必要性と緊急性を痛感させることになった。農奴解放、海軍改革、司法改革などがその業績となり、露土戦争(1877-78)でバルカンのスラヴ人の盟主としての地位を列強に確認させるなど失われた国際的威信の回復にも努めた。
 しかし続くアレクサンドル3世は、父の改革路線を一転させた。特にその «ロシア化政策» は少数民族の反発を買った。

 ナポレオン戦争がヨーロッパにもたらしたもののひとつに、ナショナリズムがある。これによって19世紀ヨーロッパはネーション=ステート(民族国家)の建設(つまりは独立)を目指す各地の民族運動の大きなうねりによって覆われることになった。
 ところがロシア帝国は多民族国家であったのみならず、多数民族であるロシア人自身、«ロシア人とは何か?» が明確になっていなかった。このため、«ロシアはヨーロッパかアジアか» といった議論ともからんで、«ロシア人とは?»、«ロシアのあるべき姿は?» という問題が19世紀ロシアを揺るがした。

 19世紀ヨーロッパを覆ったもうひとつのうねりが、共産主義である。
 ロシアでは遅々として進まない改革、あるいは改革が行われても不十分であることに業を煮やした青年たちが共産主義に共感し、過激主義に走るようになる。1870年代の «人民の中へ»(ナロードニキ)運動、1880年代以降のテロリズム、学生運動、労働者運動など、19世紀後半のロシアは騒然とした状況にあった。アレクサンドル3世が反動政治に走ったのも、ひとつには「アレクサンドル2世の改革はテロや革命運動を助長しただけだ」という認識があったためである。

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ロシア革命

 1905年、日露戦争の最中、皇帝ニコライ2世への嘆願書を携えた人民の群れに軍が発砲するという事件が起こった。«血の日曜日» 事件である。«人民の父» であるはずの皇帝が人民を殺したこの事件は、人民の皇帝に対する盲目的な信仰・崇拝を打ち砕いた大事件であった。
 そして起こったロシア第一革命は、ニコライ2世が十月勅令を発布して、ドゥーマ(国会)を開設して形式的な人民代議員制を導入することで終息した。
 続く数年間は、首相ストルィピンの下で反動政治とそれに対するテロとが横行した。

 そして勃発した第一次世界大戦。すでにラスプーティンの問題などで人民や貴族からも孤立していたニコライ2世は国内情勢から遊離し、結局パンを求めるデモから拡大した二月革命で帝政が崩壊する。

 権力の空白を埋めるために臨時的に実権を握った政府(臨時政府)は、戦争の継続を主張したため国民の反感を買う。特に労働者は独自にソヴィエト(代議制の会議)を創設し、権力は臨時政府とペトログラード・ソヴィエトによって二分される状態となった。
 ここに登場したのが、レーニン率いるボリシェヴィキーである。10月25日(新暦で11月7日)、臨時政府のある冬宮を襲撃し、翌10月26日にペトログラード・ソヴィエトを開催して権力の奪取を宣言したボリシェヴィキーは、暫時臨時政府側に立つ抵抗勢力を排除していく。しかし反ボリシェヴィキー勢力が武装蜂起。ボリシェヴィキーは労働者を武装させて赤軍を創設。反ボリシェヴィキー勢力の白衛軍と赤軍との内戦が勃発する。

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ソヴィエト・ロシア

ソヴィエト・ロシアの建国

 内戦は1920年まで続いた。しかもこれにはポーランドやフィンランド、ウクライナなどの独立運動もからみ、第一次世界大戦が継続中であったことからドイツとの戦争や、ボリシェヴィキー政権打倒のために内政干渉した日本、アメリカなど外国軍との戦争もからんで、複雑な様相を呈した。
 結局1920年までに、外国の干渉軍は日本を除いて撤退。国内の白衛軍も一部の残党を除いて外国に亡命。少数民族も独立させるべきは独立させて、何とか6年ぶりの平和が訪れた。

 ロシア革命(十月革命)はプロレタリア革命であり、プロレタリア革命は必然的に世界革命である、との信念から、ボリシェヴィキーはポーランドやフィンランド、ウクライナなど新たに独立した国々にもボリシェヴィキー政権を樹立しようとし、ある国では成功、ある国では失敗した。成功した国々は1922年にロシアとまとめてソヴィエト社会主義共和国連邦を結成。
 ちなみに、これに呼応してドイツやハンガリーでも «ソヴィエト共和国» が樹立されたが、反革命勢力によって1年足らずのうちにつぶされた。

 内戦遂行の必要性もあって «戦時共産主義» と呼ばれる統制経済を敷いていたボリシェヴィキーだったが、内戦の終結と国民の不満の高まりから、路線を転換。«新経済政策»(ネップと略称)によって一部資本主義を復活させ、ロシア経済は立て直された。

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スターリン独裁

 路線対立と権力闘争はすでに革命前からボリシェヴィキー内部にあったが、1922年にレーニンが麻痺して以来その後継者の地位を巡って激化した。最有力候補トロツキーを左派ジノーヴィエフ、カーメネフと結んで倒したスターリンは、今度は一転して右派ルィコフ、ブハーリンと結んでジノーヴィエフ、カーメネフを失脚させる。さらに続いてモーロトフやカガノーヴィチなどの若手、ヴァレイキスやハタエーヴィチなどの地方幹部の支持を得て右派を打倒。1928年にはネップを終了させ、第一次五ヶ年計画を開始。同時に最大の少数民族ウクライナに的をしぼったかのような農業集団化を強行し、ウクライナに大飢饉をもたらした。

 世界革命の路線はスターリンが個人独裁を完成させていく過程で «一国社会主義»(社会主義は一国でも完成できる)とする理論に取って代わられた。とはいえ世界革命は放棄されたわけではなく、資本主義諸国との対立は根強く続いた。1924年のイギリス以降、ソ連を国家として承認し外交関係を樹立する国も増えていったが、それでも国際的な孤立状態は続き、同じく孤立させられていたドイツとソ連は関係を強化していくことになる。
 しかし1933年にナチスが政権を取ると、ソ連は外交路線を転換。それまで敵としていた社会民主党との連携を各国共産党に指示し、広汎な反ファシズム戦線を組織する «人民戦線» 路線を採る。スペイン内戦は、まさにファシズム陣営と人民戦線との戦争となった。国際的にもソ連は国際連盟に加盟して集団安全保障を模索していく。

 スターリンの個人独裁への道の総仕上げは、1936年から38年までの «大粛清»(ロシア語ではエジョーフシチナ)である。ジノーヴィエフ、カーメネフ、ルィコフ、ブハーリンなどのかつての大幹部、トゥハチェフスキーやエゴーロフなどの軍幹部、オラヘラシュヴィリやコシオールなどの民族幹部などを手当たり次第に公開裁判にかけ、処刑していった一方で、無数の一般庶民を逮捕、投獄、流刑、処刑。ポーストィシェフやオルジョニキーゼなどスターリン派までも犠牲にした大粛清は、最後にはエジョーフやフリノフスキーなど粛清の実行者をも呑みこんで、ようやく(一応)終息した。

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大祖国戦争

 1938年のミュンヘン危機は、ソ連に集団安全保障が張子の虎であることを強烈に印象付けた。しかも同時に満州で関東軍と衝突。その結果、ソ連は1939年に仇敵ナチス・ドイツと相互不可侵条約を締結。«帝国主義諸国間の戦争» には傍観の立場を取った。
 しかし1941年、ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が勃発。同年暮れには日本の真珠湾攻撃でアメリカも参戦し、米英ソが連合して日独伊の枢軸国と戦う構図ができた。

 スターリンは独ソ戦を «大祖国戦争» と呼び、ロシア人の愛国心を鼓舞する政策に出た。ロシア正教会の復権を認め、『インターナショナル』に替えてソ連国歌を制定し、帝政時代の軍服や勲章を復活させる。ソ連は国民の8人に1人と言われる被害者を出しながらも、大祖国戦争に勝利を収めた。

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冷戦

 大祖国戦争遂行の過程で、ソ連は «東ヨーロッパ諸国» をあるいは解放、あるいは占領し、それぞれに傀儡政権を樹立。対独戦勝利の立役者として、戦後世界においてアメリカと並ぶ超大国の地位を確立した。
 しかしそれは同時に、ソ連にアメリカとの世界規模の覇権競争を余儀なくさせることとなった。これが «冷戦» である。

 国内では «ミングレル事件» や «レニングラード事件» など新たな粛清で弛緩した空気の引き締めを行う。

 1953年、スターリンが死去。さらにその直後、ナンバー2となったベリヤが粛清された。粛清によって物理的に排除された政治家は、ベリヤが最後となった。以後、首相マレンコーフ、第一副首相モーロトフ、共産党組織を握った書記(のち第一書記)フルシチョーフなどによる集団指導体制が敷かれた。しかし共産党による一党独裁体制の国家にあって、共産党組織を握る人間が最終的な権力を握るのは必然である(スターリンがそうだった)。1955年にはマレンコーフは副首相に格下げされ、ブルガーニンが首相に就任。

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スターリン批判と雪解けと中ソ対立

 1956年、第20回共産党大会においてフルシチョーフは、スターリンの個人独裁を批判する秘密報告を行う。この «スターリン批判» はソ連国内のみならず共産主義各国に動揺を引き起こした。中ソ対立の一因もここに求められる。そして1957年、フルシチョーフに反対する勢力がその追い落としを画策。結局フルシチョーフが逆転勝利し、モーロトフ、カガノーヴィチ、マレンコーフ等(«反党グループ» とのレッテルが貼られた)を追放。翌1958年にはブルガーニンを失脚させ、スターリンに倣って共産党(第一書記として)と政府(首相として)を押さえたフルシチョーフが、ソ連の最高権力者となった。

 権力を握ったフルシチョーフは、スターリン批判を展開。国内的に種々の緩和政策を実行し、これは «雪解け» と呼ばれた。国際的にもアメリカとの緊張緩和を推進。
 しかし外交路線的には対米緊張緩和政策、理論的にはスターリン批判が、中国共産党の反発を呼ぶ。こうして «一枚岩» とされてきた社会主義陣営に亀裂が生じ、中ソ対立が勃発する。
 しかも1961年にはキューバ危機をもたらし、あまつさえ最後の最後で «弱腰» を見せたことはカストロのみならず国内からも批判を浴びた。

 国内政策的にはフルシチョーフは経済発展に尽力し、カザフスターンの処女地開拓、中央アジアでのとうもろこし栽培、また1962年の共産党組織の農業部門と工業部門への分割など種々の試みを行ったが、必ずしも成果を挙げられず、しかも猫の目のような人事や機構改革が官僚の反発を呼んだ。
 1964年、突如呼び出されたフルシチョーフは解任される。最高権力者が解任された唯一の例となった。

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安定と停滞とデタント

 おそらくフルシチョーフの轍を踏むまいとしたのだろう。ブレージュネフは各利益集団の権益を損なわぬよう配慮する政治を行い、ソ連の政治に革命以来はじめて安定をもたらした。
 しかしその安定も18年も続くと停滞となる。改革すべき諸課題が山積する中、«ブレージュネフが死なない限りどうにもならない» 状態が70年代後半から数年にわたって続き、石油危機を契機に経済改革を成功させた資本主義諸国との経済・技術格差は広がる一方となった。

 ブレージュネフ時代の特徴のひとつに、都市化の進展が挙げられる。これによって市民社会が成熟し、消費活動も活発化。若者文化も栄えていく。

 国際的にはチェコスロヴァキアにおける «プラハの春» とその鎮圧、ダマンスキー島事件を頂点とする中ソ武力衝突、米ソが双方の勢力圏への不干渉を約し、核兵器の制限・削減へと踏み出した «デタント»(緊張緩和)、ソ連軍によるアフガニスタン侵攻など、相変わらず大きく揺れ動いた時期である。

 ブレージュネフの死後、アンドローポフが «ウスコレーニエ»(加速)の掛け声のもと改革を推進しようとしたが志半ばに退場。続くチェルネーンコはブレージュネフのエピゴーネンで、結局、実質的にブレージュネフ時代末期の «停滞» がさらに数年延長されただけであった。

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ペレストロイカとソ連の崩壊

 1985年にソ連共産党書記長となったゴルバチョーフは、翌1986年から «グラースノスティ» のスローガンのもと情報公開を開始。さらに «ペレストロイカ»(建て直し)を合言葉に、上からの改革に乗り出す。外交面でも米ソ首脳会談を実施し核兵器の削減に合意するなど «新思考外交» を展開。

 しかしグラースノスティの進展は、当然 «下からの改革» をもたらす。上からの、自分の意図通りの改革を目指すゴルバチョーフとの間に齟齬が生じるのは当然の帰結であった。
 «民主化» を進めて体制そのものをも変革しようとする勢力と、あくまでも共産党の指導下に現行体制の刷新をはかる勢力との対立が激化していく。後者の代表がリガチョーフであったとすれば、前者に祭り上げられたのがエリツィンであったと言えるかもしれない。

 しかし、ソ連を崩壊に導いたのは «改革派» と «守旧派» の対立ではなかった。
 それまでロシア人支配に甘んじてきた少数民族の不満が、グラースノスティで一気に噴き出し、これが民主化の要求ともあいまって、ソ連共産党、ひいてはソ連という国家そのものの権威をも揺るがした。
 最終的には、連邦崩壊の危機に焦ったゴルバチョーフの側近が、ゴルバチョーフを軟禁して強権的に連邦の維持をはかった( «八月プッチ»)が、これは失敗。連邦政府の権威は瓦解し、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの合意により、ソ連解体が決定された。

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現代

ロシア連邦

 ソヴィエト・ロシアはソ連の中で圧倒的に優越した立場にあったが、他方でソ連=ソヴィエト・ロシアという認識から、割を食った側面もある。1990年、一旦は失脚していたエリツィンが復活し、ロシアの大統領に選ばれると、ソ連大統領であったゴルバチョーフへの対抗心も手伝ったと思われるが、ロシア政府は «ソ連離れ» をはじめる。そして1991年、ウクライナ、ベラルーシとともにソ連解体を決めたことは上述のとおりである。

 ソ連崩壊はロシアの «独立» でもあったが、社会主義経済から資本主義経済への移行、共産党独裁体制から民主主義体制への移行といった、困難かつ多大の苦痛を伴うものでもあった。エリツィンの路線もぶれにぶれ、1993年には大統領権限を巡って議会と衝突。議会の入ったベールィイ・ドーム(英語で «ホワイトハウス»)を戦車で砲撃するという事態にまでいたる。

 またソ連末期から続く少数民族の民族運動は、当初はタタルスターンを筆頭にした連邦政府との権限分配闘争の範囲に収まっていたが、ついにはチェチニャーの独立戦争として火を噴いた。

 続くプーティン政権はまだ終わったばかりであり、歴史的に総括するには早すぎるが、あえて言うならば資源価格高騰による経済の安定と、強権的な締め付け政策による政治の安定が、社会の安定と繁栄をもたらした時代であったと言っていいだろう。チェチニャーをはじめとする少数民族問題、農業や工業など産業の再建・育成、民主主義と市民の権利と法治の確立などの課題は遣り残したままではあるが。

 そしていま。後世からメドヴェーデフ時代と呼ばれるか、それともプーティン時代の延長と捉えられるか……。

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最終更新日 17 01 2013

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