ロシア学事始ロシア史概観

タタールのくびき

モンゴルの襲来

 モンゴルの西方への遠征をおおまかに三次に分けると、第一次西方遠征は1219年から1225年まで。フワーラズム帝国への遠征を契機にしたもので、右翼軍を指揮したチンギス・ハーンの長男ジュチが、フワーラズム・シャーを追ってカフカースから南ロシア平原に侵攻。ポーロフツィがルーシ諸公に援軍を要請し、1223年、カルカ河畔の戦いでルーシ・ポーロフツィ連合軍が大敗を喫する。しかしモンゴル軍は追撃せず、1225年、モンゴル本土に帰還した。

 カルカ河畔の戦いではキエフ大公ムスティスラーフ老公が捕虜となり、のち処刑されるなど、年代記によれば南部諸公を中心に9人の公が戦死して、ルーシも大きな損害を蒙った。
 しかしルーシ諸公は当初モンゴルを、ペチェネーギやポーロフツィなど、それまでのテュルク系遊牧民族と同一視していた観がある。つまり、いずれは «ルーシ諸公と同化» して、その合従連衡の一翼を担うことになると見ていたように思われる。

 モンゴルの第二次西方遠征はジュチの子バトゥを司令官として派遣された。
 1236年、ヴォルガ・ブルガールを滅ぼし、ポーロフツィを屈服させたモンゴル軍は、翌1237年、ムーロム=リャザニに侵攻した。
 リャザニにおける戦いでは、リャザニ公ユーリー・イーゴレヴィチが戦死するが、エフパーティー・コロヴラートを中心としたリャザニ市民が果敢に抵抗。結局敗北するものの、その英雄的な戦いはその後も語り継がれ、こんにちでも知られている。
 1238年、ヴラディーミル大公国に侵攻したモンゴル軍は、ヴラディーミル、ロストーフを陥とし、シティ河畔の戦いで北東ルーシ諸公を撃破した。ヴラディーミル大公国のほぼ全土を蹂躙したモンゴル軍は、さらにノーヴゴロトに侵攻するが、転進して南下。チェルニーゴフ公国に侵攻してクールスクを攻略し、いったんステップに去った。

 1240年、みたびルーシの地に侵攻したモンゴル軍は、キエフをはじめ南ルーシをことごとく破壊し、ガーリチ=ヴォルィニもその軍門に下した。1241年にはポーランド、ハンガリー、さらにはバルカン半島にまで進む。オゴタイ・ハーン死去の報せを受けて、1242年にモンゴル軍は撤退。しかしバトゥは南ロシアにとどまり、ヴォルガ河口付近にサライを築き定着した。キプチャク・ハーン国である。
 こうしてルーシ諸公は全員、キプチャク・ハーンの宗主権下に置かれることになった。

 ちなみに、モンゴルの第三次西方遠征(1253-60)はペルシャから中近東を目的地としており、ルーシとは関係ない。

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タタールのくびき Татарское иго

 タタールというのはモンゴル系の遊牧民族であり、一応モンゴル人とは別とみなすべきであろう。しかしモンゴル軍の西方遠征に多数のタタール人が加わっていたため、またモンゴル軍が大きな恐怖をヨーロッパ人に与えたため、ヨーロッパ人はタタールとギリシャ語のタルタロス tartaros(地獄)とをかけて、モンゴルをタルタル Tartar と呼ぶようになったという。
 ロシア語ではタタールィ татары というが、キプチャク・ハーン国を形成したモンゴル・テュルク系の諸民族、およびその末裔を無差別にタタールと呼んだ(こんにちのロシアのタタール民族はその一部だが、モンゴル系ではなくテュルク系)。

 タタール(キプチャク・ハーン国)によるルーシ諸公支配を、ロシアでは «タタールのくびき» と呼んでいる。その実態は間接統治で、貢納さえ怠らなければ各地の公の存在が許されていた(厳密にはいろいろな制約や義務があったが)。
 上記のように、ノーヴゴロトを除く全キエフ・ルーシがモンゴルに蹂躙され、その結果として全ルーシ諸公がキプチャク・ハーンの宗主権下に置かれることになった。しかしこんにちのベラルーシや西ウクライナはサライから遠方でもあり、キプチャク・ハーンの宗主権も必ずしも確立しなかった。しかも、のちに述べるように、ベラルーシとウクライナはやがてリトアニアによって征服されることになる。そのため、現実にタタールのくびきが問題となるのは北東ルーシ(ヴラディーミル大公国)と東ルーシ(ムーロム=リャザニ)だけ、すなわちこんにちの北ロシアであった(南ロシアはキプチャク・ハーン国の領土となり、直接的な支配を受けたが、ここはもともとキエフ・ルーシの領土ではなかった)。

 このタタールのくびきをどう評価するかは、こんにちでも議論の分かれるところである。大雑把に言えば、タタールのくびきはロシアの発展に何も影響を与えていないとする説、大きな影響を与えたが、これを肯定的に捉える説、否定的に捉える説、の3つがある。これはさらに言えば、ロシアをどう認識するか、にもかかわってくる問題であると思う。ゆえに、どれか正しい答えがあるような問題でもないだろう。
 ただし、キエフ・ルーシの分裂からヴラディーミル大公国の発展、そしてそこからモスクワ大公国の台頭と、それによるキエフ・ルーシの再統合(ロシア帝国の成立)、というルーシ、ロシアの歴史の大きな流れそれ自体は、タタールのくびきによっても妨げられることはなかった。

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北方十字軍

 ヴラディーミル大公国とムーロム=リャザニはモンゴルの襲来を受けたが、ノーヴゴロドはまた別の脅威を受けていた。

 1096年に始まった聖地イェルサレムをイスラームから奪回し、また防衛する運動(«十字軍»)は、主にフランス人(と一部イングランド人、南イタリアのノルマン人)によって担われていた。ドイツ人にとっては、聖地イェルサレムまで行かずとも、すぐ身近に «退治» すべき異教徒、スラヴ人がいたからである。
 12世紀半ば、第二次十字軍に呼応する形で始まった、スラヴ人に対する北ドイツ人の «十字軍» は、一部学者からは «北方十字軍» と呼ばれている。

 北方十字軍は、13世紀までにはかつての東ドイツ(1949-91)の地をスラヴ人から奪っていた(ベルリンはもともとスラヴ人の集落だった)。さらに東方の異教徒討伐(と言うより領土拡大)は進み、スウェーデンがフィンランドへ、デンマークがエストニアへ、リヴォニア騎士団がリヴォニアへ、ドイツ騎士団がプロイセンへと進出してきていた。それぞれの地域の征服は進み、フィンランド南部に進出したスウェーデン、リヴォニアの平定を一応終えたリヴォニア騎士団、エストニアを制圧したデンマークの3つの勢力が、この時期それぞれルーシと接触していた。
 北方十字軍(少なくともこの時期の)が異教徒の改宗・討伐を目的としたものではなく、単なる国家的領土拡張欲求に基づくものであったことは、ドイツ諸侯や騎士団、スウェーデンやデンマークが、ポーランドやルーシなど、すでにキリスト教に改宗していた国にも容赦なく襲いかかった事実からも明らかである。
 それでもポーランドの場合は、同じくローマ教皇を首長に戴くカトリック共同体の一員ということで遠慮もあったが、ルーシはローマ教皇の権威を認めない «異端» である。何の遠慮会釈もなかった。

 ルーシと北方十字軍との最大の戦いは、13世紀半ばに行われた。スウェーデンとの戦闘が1240年のネヴァ河畔の戦いであり、リヴォニア騎士団・デンマークとの戦闘が1242年のチューディ湖(氷上)の戦いである。
 両者を迎え撃ったのがノーヴゴロドであったのは偶然ではない。ノーヴゴロドは北西ルーシの最前線に位置し、バルト海からノーヴゴロドを経由するのが9世紀 «ヴァリャーギの道» 以来の交易ルートだったからであり、リヴォニア騎士団などとは政治的のみならず経済的にも競合するライバルだったからである。

 ネヴァ河畔の戦いとチューディ湖の戦いのいずれにおいてもノーヴゴロド軍を指揮したのは、雇われ公のアレクサンドル・ネフスキーであった(戦闘終了後すぐに解雇されている)。しかしアレクサンドル・ネフスキーは、父祖の地盤であるペレヤスラーヴリを本拠に北東ルーシのみならず全ルーシ的な権威をも確立し、有名無実化していたとはいえキエフ大公位を15年にわたって保持した。
 こんにちでもアレクサンドル・ネフスキーのネヴァ河畔の戦い、チューディ湖の戦いにおける活躍はロシア人の誇りであり、2008年にロシアで行われた『最も偉大なロシア人』コンテストでは見事第1位に輝いている。
 ちなみに、«ネフスキー» というのはネヴァにちなんだ呼び名である。

 ノーヴゴロドも含め、«ロシア» はタタールに服属して西方の脅威に対抗する道を選んだ。これに対してガーリチ=ヴォルィニは西方と結ぶことでタタールに抵抗しようとした。ガーリチ=ヴォルィニ公ダニイール・ガリーツキーはローマ教皇に接近し、1253年にはローマ教皇をキリスト教会の長として認め、ガリツィア・ロドメリア王として戴冠されている。もっとも、ローマ教皇は何の力にもならず、聖地失陥すら黙許した西欧諸侯が対モンゴル戦を始めるはずもなかった。

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リトアニアの進出

 ヨーロッパで国家形成が最も遅れたのがバルト語族の言語を話す人々である(あとはルーマニア人か)。結局プルシ人は独自の国家を形成する前にドイツ騎士団に征服され、民族の痕跡すら残していない。他方でリトアニア人は、ちょうどモンゴル襲来の直後にミンダウガスの下で国家形成に乗り出した。ミンダウガスの死後50年の混乱の時代を迎えるが、北のリヴォニア騎士団、西のドイツ騎士団の進出を阻み、独立を保った。

 14世紀に入り、リトアニアはゲディミナス(1316-41)の下で統合され、大国への道を歩みだす。時あたかもキエフ・ルーシは崩壊し、こんにちのベラルーシやウクライナの諸公国は、あるいは壊滅し、あるいは諸分領に細分化され、英語で言う no-man's-land(主のいない土地)となっていた。ゲディミナスとその子アルギルダス(1345-77)により、こんにちのベラルーシとウクライナのほぼ全土がリトアニアに併合された。
 厳密に言うと、ウクライナの西端ガーリチ=ヴォルィニの大部分はポーランド領となったし、黒海沿岸一帯とウクライナ東端はキプチャク・ハーン国の領土であった。さらに、こんにちのロシアの一部(スモレンスク公国)もリトアニア領となった。

 ベラルーシとウクライナにおけるリトアニア支配は、両地域とロシアとの分化をもたらす大きな契機となった。
 リトアニア支配は当然ベラルーシとウクライナに多大の影響を与え、これに関してはいまだに評価が分かれるところである。
 しかし同時に、リトアニアもまたこれにより大きな影響を受けた。少数のリトアニア人が、本領に数倍する土地に住む遙かに多数の異教徒を支配することになったのである。近代的な官僚機構も通信・交通手段も持たずにこれだけの広大な領土を支配することは容易ではない。結果としてキエフ・ルーシと同じく、各地に代官を派遣して大きな権限を与える «分権的» 統治以外にはあり得ない。その場合、ゲディミナスの一族やリトアニア人貴族が派遣されることもあったが、多くの地域で土着のルーシ貴族が登用されることになった。こうしてリューリク一族の諸公は、リトアニア支配下でもそのまま公として分領の支配を続けた。その場合、かれらにとってリトアニア大公国への併合は、キエフ大公からキプチャク・ハーン、そしていままたリトアニア大公へと、ただ単に忠誠を誓う相手が代わっただけだと認識されたかもしれない。あるいはそれが、これほど急速にリトアニアがベラルーシ、ウクライナへと領土を拡大することができた要因のひとつと言えるかもしれない。

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ヴラディーミル大公国の分裂

 タタールのくびきが始まった頃、ヴラディーミル大公国にも国家分裂の事態が訪れた。
 1212年にフセーヴォロド大巣公が死ぬと、その子らがヴラディーミル大公位をめぐって激しく争ったのである。他の公国と同様に、ヴラディーミル大公国においても、特に大公位を継承すべき嫡流などというものは存在せず、各分領公が大公位を目指した。大きな名声を勝ち得たアレクサンドル・ネフスキーにも、この内紛を収めることはできなかった。やがてこの事態が3世代100年も続くと、ヴラディーミル大公国の統一も崩れていくのは当然である。

 それら分領の中に、特に有力な4つの分領があった。ロストーフ、スーズダリ、トヴェーリ、そしてモスクワである。
 もともとは本領から分かれた分領であったこれら分領公国は、本領自体が縮小していくにつれて相対的な国力を増していく。
 もっとも、ロストーフ系はさらに多くの分領に細分化され、歴代公もヴラディーミル大公位継承争いから脱落し、徐々に弱体化していく。
 スーズダリ系は成立直後にふたつに分割され、再統一された14世紀半ばにはすでにトヴェーリ、モスクワの下風に立たされていた。

 まずヴラディーミル大公国の覇権を握ったのはトヴェーリ公であった。
 父に次いでヴラディーミル大公となったミハイール・ヤロスラーヴィチ(1304-19)は、そのままトヴェーリから大公国を支配。事実上トヴェーリがヴラディーミル大公国の首都となり、それどころかミハイールは «全ルーシの大公» を自称。単にヴラディーミル大公国だけではなく、かつてのキエフ・ルーシ全体に対する宗主権を主張したのである。
 こうして政治的な地位を確立したトヴェーリは、またヴラディーミルとノーヴゴロドのちょうど中間という戦略的にも恵まれた位置にあり、さらにはヴラディーミル大公国の中でも比較的サライから遠かったこともあって、経済的にも文化的にも北東ルーシの中心都市として発展していった。
 おそらくはその戦略的位置や、経済的・文化的な力もあってのことだろうが、歴代トヴェーリ公は、キプチャク・ハーンに従順なルーシ諸公の中にあって唯一敵対的な態度を取り続けた。

 キプチャク・ハーンに従順なルーシ諸公の、ある意味筆頭がモスクワ公であった。
 本来モスクワ公は、当時の慣習からするとヴラディーミル大公になることができなかった。しかしキプチャク・ハーンに接近することで、トヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチの死後、大公位を獲得する。
 以後、キプチャク・ハーンを後ろ盾としたモスクワ公と、反キプチャク・ハーン陣営の旗手トヴェーリ公とが、ヴラディーミル大公位を激しく争うことになる。
 もっとも、これはあまりに図式化しすぎた言い方だ。ヴラディーミル大公に就任するにはハーンの許可が必要である。トヴェーリ公といえども、サライに詣で、ハーンに頭を下げなければ大公にはなれない。ましてや貢納を怠るなどもってのほかだ。
 それでも歴代トヴェーリ公がしばしばキプチャク・ハーンに楯突き、時にはキプチャク・ハーン軍と一戦を交え、時にはサライでキプチャク・ハーンに殺されたりもしたことは事実である。

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モスクワ公国の台頭

 モスクワ公国台頭の要因として、たとえばキプチャク・ハーンに従順だったこと、森林に囲まれていたため外敵(具体的にはタタール)の攻撃を受けづらかったこと、モスクワ河畔にあり河川交通の要衝であったこと、キエフ府主教を迎え入れて正教会を味方につけたこと、分領を生まなかったこと(少なくとも分領公同士の身内争いがなかったこと)、特に早くから長子相続制が採られていたこと、などが挙げられる。これに歴代の公が狡猾であったこと(政治的能力に優れていた、と言い換えてもいい)も加えていいだろう。
 これらひとつひとつは決定的ではないし、個人的にはモスクワの台頭は必然であったとも思わないが、これらが相俟って、結果としてモスクワの覇権がもたらされたのだろう。

 実際、トヴェーリ公国ではまさにモスクワ公との覇権争いが頂点に達した14世紀半ば、分領公同士によるトヴェーリ公位継承争いが行われている。モスクワでも同様の事態に陥ったことはあるが、それはトヴェーリとの覇権争いに勝利した後の15世紀に入ってからだったことがモスクワに幸いした。

 モスクワ公イヴァン・カリター(1325-41)は、キエフ府主教が時のヴラディーミル大公であったトヴェーリ公アレクサンドル・ミハイロヴィチと争ったのに乗じてその住居(当時はヴラディーミルにいた)をモスクワに移す(以後、キエフ府主教ではなくモスクワ府主教と呼ばれるようになる)。これによってモスクワは、旧キエフ・ルーシの地の正教徒にとって «総本山» となり、その宗教的権威がその台頭に大きなプラスとなった。
 さらにアレクサンドル・ミハイロヴィチがキプチャク・ハーンに逆らったことに乗じて、スーズダリ公などをも味方につけ、タタール軍を率いてトヴェーリを攻略。領土拡張を認められ、さらにはルーシ諸公(具体的にはヴラディーミル大公国内の諸公)からの税の取り立てをも任された。
 その後、その長男セミョーン傲慢公(1341-53)、次男イヴァン赤公(1353-59)が相次いでモスクワ公位・ヴラディーミル大公位を継承。父の築いた地位を確実に受け継ぎ、確固たるものとした。

 イヴァン赤公の後を継いだ遺児ドミートリー・ドンスコーイ(1359-89)はまだ幼かったが、トヴェーリではカーシン公ヴァシーリー・ミハイロヴィチとホルム公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチがトヴェーリ公位をめぐって激しく争っており、ヴラディーミル大公位を要求する状況にはなかった。このためスーズダリ公ドミートリー・コンスタンティーノヴィチが漁夫の利を得る形でヴラディーミル大公となった。
 しかし当時分裂状態にあったキプチャク・ハーン国の内紛につけこんだモスクワ貴族は、武力でドミートリー・コンスタンティーノヴィチを破り、若年のドミートリー・ドンスコーイにヴラディーミル大公位をもたらした。以後、スーズダリ公国はモスクワ公の宗主権下に置かれることになった。
 ドミートリー・ドンスコーイはまたガーリチ、ベロオーゼロ、ウーグリチ、コストロマー、ドミートロフ、スタロドゥーブなどを併合し、さらにヴォルガ・ブルガールをも屈服させて、モスクワ公国の領土を拡大。ついにはトヴェーリ公ミハイール・アレクサンドロヴィチにも自身の宗主権を認めさせた。
 こうして国力を飛躍的に拡充したドミートリー・ドンスコーイは、ついにタタールのくびきを断ち切ることを決意した。

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クリコヴォの戦い

 1380年、ドミートリー・ドンスコーイ率いるモスクワ軍は、ママイ・ハーン(当時キプチャク・ハーン国の実権を握っていた)率いるタタール軍と、ドン河畔のクリコーヴォの野で対戦。
 トヴェーリ大公ミハイール・アレクサンドロヴィチやニジェゴロト=スーズダリ大公ドミートリー・コンスタンティーノヴィチは参加せず、それどころかリャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチやリトアニア大公ヨガイラなどはタタール軍に援軍を送る有り様だったが、双方十数万づつの軍隊がぶつかりあい、わずか3時間ほどで戦闘は終了した。
 被害はほぼ互角だったが、戦場を去ったのはタタール軍であり、モスクワ軍はクリコヴォの野を堅持した。1223年以来初めてルーシ軍(ヨーロッパの軍)が野戦でタタール軍を破ったのである。

 クリコーヴォの戦いは、ルーシ人に大きな希望を与えた。ドミートリーはドン河畔で行われたこの戦いにちなんで以後 «ドンスコーイ» と呼ばれるようになり、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ勇敢公(ドミートリー・ドンスコーイの従兄弟)、ドミートリー・ボブロク=ヴォルィンスキー公(ヨガイラの従兄弟)、さらにふたりの修道士アレクサンドル・ペレスヴェートとロディオーン・オスリャビャなど、この戦いで活躍した人物はその名がロシア人の記憶に刻まれている。

 この戦いにキプチャク・ハーン国内での威信をかけていたママイ・ハーンは失脚。代わってハーンとして実権を確立したトクタミシュは、クリコーヴォの雪辱を注ごうと1382年にモスクワを攻略。ドミートリー・ドンスコーイは再びハーンへの貢納を義務づけられた。

 しかしドミートリー・ドンスコーイが追求してきたモスクワ公の覇権は、クリコーヴォの勝利で揺るぎないものになったと言ってもいいだろう。以後、トヴェーリ大公も、その他の諸公もモスクワ公の覇権に挑戦することはなくなった。
 1389年、ドミートリー・ドンスコーイはその死にあたり、嫡男ヴァシーリーにヴラディーミル大公位を譲る。父を継いだヴァシーリー・ドミートリエヴィチは、ハーンの特許状なしに即位した最初のヴラディーミル大公となった。いや、もはやヴァシーリー・ドミートリエヴィチはヴラディーミル大公を名乗らず、モスクワ大公と名乗る(あるいはすでにドミートリー・ドンスコーイの時代からかもしれない)。
 正統派の歴史学では、タタールのくびきは1480年まで続くとされている。しかしこの項はここで閉じるのが妥当だろう。以下の歴史は、もはやヴラディーミル大公国の歴史ではなく、キエフ・ルーシの歴史でもさらさらなく、モスクワ大公国の歴史となるからだ。

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最終更新日 17 01 2013

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