ロシア学事始ロシア史概観

キエフ・ルーシ

ルーシ Русь

 ルーシという言葉の由来は、その意味も含めて、さまざまな議論を呼んでいる。ロシアの年代記のたぐいを見てみると、民族・部族の名称として、地理的名称として、国家として、等々、さまざまな使い方がされている。
 ここではとりあえず、東スラヴ人をルーシ Русь とし、かれらの居住・支配した地をルーシの地(ルースカヤ・ゼムリャー Русская земля)、あるいは単純にルーシと呼ぶことにする。かれらの建てた国家は、キエフ・ルーシ Киевская Русь と呼んでおく。

 『ベルタン年代記』(フランク王国の年代記)には以下のような記述がある(概要)。

ビザンティン皇帝テオフィロスがフランク皇帝ルートヴィヒに送った使節は «ロス Rhos» と呼ばれる連中を伴っていた。かれらは親善のためにコンスタンティノープルに派遣されてきたが、帰路には蛮族がいるのでフランク経由で帰国したいとのことだ。調査の結果、かれらはスヴェーア人(スウェーデン人)であることが判明した……。

 これは839年のことであり、つまりこの時点でビザンティン帝国には «ロス» という言葉があり、それはスカンディナヴィア人を指していた。
 ロシア人がヴァリャーギと呼ぶスカンディナヴィア人は、バルト海からのちのノーヴゴロド、のちのキエフを経由して黒海に出、コンスタンティノープルと交流していた。このルートを «ヴァリャーギからビザンティンへの道» と呼ぶ。のちにノーヴゴロドとキエフがキエフ・ルーシの中心的な都市となるのは、このためである。
 ここで言う «蛮族» というのが、おそらくは東スラヴ人であろう。しかしやがてビザンティン帝国でも «ロス» はルーシ(東スラヴ人)を差すようになり、スカンディナヴィア人を «ヴァラゴイ» と呼んで区別するようになる。

 当時ルーシは、いくつかの集団に分かれていた。これを部族と呼ぶか否かは人それぞれの考えもあろうが、少なくとも北ロシア(特にのちのノーヴゴロド周辺)では、スロヴェーネ族、クリヴィチー族(どちらもスラヴ人)、チューディ族、メーリャ族(どちらもウラル系)が混在し、共同で生活を営んでいたようだ。
 『原初年代記』のラヴレンティー写本によると、かれらはヴァリャーギに貢納していたという。同じ頃、南方のポリャーネ族、セヴェリャーネ族、ヴャーティチ族はハザール帝国に貢納していた。

▲ページのトップにもどる▲

建国伝説

 グスティン年代記によると、ノーヴゴロドの長老ゴストムィスルは、その死に際して、ルーシの地(この場合は外国)、マリボルク市に赴いて、クニャージを求めるよう遺言した。人々はこれに従ったという。同じことがヨアキム年代記にも記されている。
 『原初年代記』のラヴレンティー写本によると、862年、ノーヴゴロドのチューディ族、スロヴェーネ族、メーリャ族、クリヴィチー族が、海の彼方のヴァリャーギに自分たちの統治者を求めたところ(«我らの地は広大で豊かだが、秩序がない。ぜひ来て我らを支配してください»)、これに応じたのが «海の彼方のルーシ»、すなわちリューリク、シネウス、トルヴォールの3兄弟率いるルーシであった。リューリクはノーヴゴロドを、シネウスはベロオーゼロを、トルヴォールはイズヴォルスクを拠点に支配した。2年後、シネウスとトルヴォールが死ぬと、リューリクはその領土を併合した。
 『原初年代記』のイパーティー写本やケーニヒスベルク年代記によると、3兄弟は最初ラードガにやってきて、そこに都市を建設した。これがリューリクの拠点となる。弟たちの死後、リューリクはイリメニ湖に遷都し、ヴォルホフ河畔に都市を建設。ノーヴゴロドと名付けた。
 ニコノフ年代記によると、リューリクは「из Немец(ドイツ?から)」やってきたとされている。
 19世紀のフランス人グザヴィエ・マルミエが書き残した北ドイツの伝説によると、オボトリート人(現在ドイツのメクレンブルク地方に住んだスラヴ人)を支配した王ゴドラフには、リューリク、シヴァル、トルヴァルの3兄弟がおり、彼らが東方、ルーシ人の地に赴き、リューリクがノーヴゴロドを、シヴァルがプスコーフを、トルヴァルがベロオーゼロを支配した。

 以上、キエフ・ルーシ建国についてさまざまな伝説が語られている。
 細かい話だが、あえて訳さなかったクニャージ князь という言葉についてひとこと。
 この単語は通常 «公» と訳されている。«公爵» ということである。
 語源的には、この単語は英語の king などと同語源である。実際、ポーランド語の książę、チェコ語の kníže、ブルガリア語の княз など、いずれも部族の首長の称号であり、その成り立ちから言って英語の king やドイツ語の König と同じ意味合いを持つ。日本語で «王» と訳されている中世のポーランド、ボヘミア、ブルガリアの支配者たちは、いずれも książę、kníže、княз と名乗っていた(のちに別の称号を名乗るようになる)。
 それからすればロシア語のクニャージ князь も語源的には «王» と訳してもおかしくはない。とはいえ、キエフ・ルーシ初期はともかくその後の使用例を勘案すると、やはり «王» と訳すのは問題があると言えよう。ここでも通例に従い、«公» と訳しておくことにする。

 さて、上述の建国伝説について、おおまかにふたつの対立する解釈が存在する。
 «ノルマン起源説» は、スウェーデンを中心とするスカンディナヴィアのノルマン人(ヴァリャーギ)が北ロシアの諸部族を政治的に統合して最初の国家をつくったとする。
 これに対して «反ノルマン説» は、初期ルーシの支配階層にヴァリャーギがいたのは確かだろうし、リューリク、オレーグ、イーゴリといった初期の支配者がヴァリャーギであった(その血を引いていた)のは疑いないとしても、国家建設それ自体は土着の諸部族の内発的な営みであった、とする。
 もちろんこれに社会経済学的、言語学的、考古学的に様々な主張がからみあい、ここではとうてい詳細を説明するスペースもないし、わたしにそのつもりもない。

▲ページのトップにもどる▲

国家形成

 ノーヴゴロドを中心に北ロシアを支配したリューリクとその一党は、続いて «ヴァリャーギからビザンティンへの道» の支配に乗り出す。
 リューリクの死後、その部下とも一族とも言われるオレーグが、リューリクの遺児イーゴリを擁してノーヴゴロドの支配者となった。
 882年、オレーグは南下を開始。スモレンスクを占領した後、キエフを征服。以後、キエフを拠点に周辺のポリャーネ族、ドレヴリャーネ族、セヴェリャーネ族、ラディーミチ族などから貢納を取り立てる。さらには、ドゥレーブィ族、白クロアティア人(カルパティア山脈の向こう側にいた)、ティーヴェルツィ族をも屈服させたが、ウーリチ族からの貢納取立てには失敗した、と言われる。
 こうして成立した «国家» を、キエフ大公国、あるいはキエフ・ルーシと呼んでいる。
 しかしこの «国家» は、今日的な近代国家では当然なく、主権・領土・国民はいずれも曖昧なものであった。実際、代々のキエフ大公の仕事は第一に、毎年諸族間を経巡って貢納を徴集することにあった。«キエフ大公国» と言っても、各地の拠点となる都市という点と、交易路となる河川という線を確保しただけのものだったと言ってもいいかもしれない。土地や人の支配などは二義的なもので、金銭・物品の徴収が行われればそれで満足していた時代だったのである。逆に言えば周辺諸族は貢納さえ収めていれば、あとは比較的好き勝手に暮らすことができた。
 オレーグの死を契機に多くの周辺諸族がキエフから離反したのも、そのためであろう。イーゴリはその再制圧に数年を費やした。
 同時にイーゴリはカフカーズにまで進出。キエフ・ルーシの領土(と言うと語弊がある。勢力圏とでも言うべきだろう)を大きく拡大した。

 ヴァリャーギの道の目的地はコンスタンティノープルである。バルト海からキエフまでを支配したキエフ・ルーシは、コンスタンティノープルの支配をも目指して(? それとも単なる略奪目的?)幾度となくコンスタンティノープルに遠征する。
 907年にはオレーグが周辺諸族を従えてコンスタンティノープルを包囲している。結局 «年金» をもらうことを条件に講和しているが、この時オレーグはスカンディナヴィアの神々ではなくスラヴの神々にかけて誓っている。
 941年にはイーゴリがコンスタンティノープルに遠征。この時の講和条約には、イーゴリを筆頭に嫡男スヴャトスラーフ、公妃オリガと並んで、おそらく諸部族の代表と思われる多数の人間が署名している。当時のキエフ・ルーシが言わば «部族連合国家» であったことを窺わせる。

 これまでルーシの支配者は、リューリク、オレーグ、イーゴリと、いずれもスカンディナヴィア系の名前であった(それぞれスカンディナヴィアの言語では、ロードリク、ヘルギ、イングヴァール)。イーゴリの息子スヴャトスラーフにいたって初めてスラヴ系の名前になる(ちなみに «聖なる栄誉» といった意味)。
 これ以降、リューリクの子孫には、リューリク、オレーグ、イーゴリという名が再出することはあっても、新たにスカンディナヴィア系の名がつけられることはない。リューリク以来100年に満たずして、ルーシを支配していたヴァリャーギは «ルーシ化» された、ということだろう。

 ちなみに、リューリクとオレーグについてはロシアの年代記にしかその存在が記されていない(イーゴリは、ビザンティン帝国側の記録にもその名が記されている)。このため、特にリューリクに関しては実在したか否かを巡って議論がある。

▲ページのトップにもどる▲

最盛期

 945年、ドレヴリャーネ族のもとに徴税に赴いたイーゴリはドレヴリャーネ族に殺される。
 キエフで権力を握ったのは嫡男スヴャトスラーフではなく、未亡人オリガであった。オリガは公マール以下のドレヴリャーネ族を虐殺し、離反した諸族を制圧。
 オリガのキエフ・ルーシ支配で注目すべきは、オレーグやイーゴリが毎年各地の諸部族を巡回して貢納品を徴集していたのに対して、徴税の拠点を設け、徴収の役人を常駐させたことである。これにより、それまでは貢納さえ怠らなければキエフ大公の支配からある程度自由でいられた諸部族が、日常的にも大公の権力に従属していった。971年にスヴャトスラーフがビザンティン皇帝と結んだ条約には、スヴャトスラーフ以外にはたったひとりしか署名していない。944年にイーゴリが結んだ条約に多数の «部族代表» が署名していた事実と比べると、大公権の著しい強大化が窺える。強いて言うならば、イーゴリが諸部族連合のリーダーであったのに対して、スヴャトスラーフは絶対的君主であった、ということであろう(もちろん «絶対的» の内実は吟味する必要がある)。

 スヴャトスラーフが実権を掌握したのは960年頃と考えられる。
 スヴャトスラーフは、キエフ・ルーシの英雄時代を象徴する存在である。北東ではヴォルガ・ブルガールを、南東ではハザール帝国を、南では北カフカーズのテュルク系諸部族をそれぞれ屈服させ、東のセヴェリャーネ族、北のラディーミチ族、北東のヴャーティチ族からの貢納取立てにも成功し、これらを勢力圏に収める。
 964年に首都イティルを攻略してハザール帝国を事実上壊滅させたスヴャトスラーフは、968年にはドナウに遠征。マジャール人、ペチェネーグ人をも率いてブルガリアを征服した。さらにトラキアにも進出してビザンティン帝国の心臓部を窺うが、971年、ビザンティン皇帝と講和(なお、ブルガリアに対する支配はその後すぐに崩壊)。

 972年にスヴャトスラーフが死ぬと、残された三子により後継者の地位を巡る争いが起こった。結局、ノーヴゴロドを拠点としていた三男ヴラディーミルがキエフを拠点としていた長兄ヤロポルクを980年までに倒してキエフ・ルーシの唯一の支配者となった。
 この内紛において、いくつか興味深い点が見られる。
 第一には、一旦ヤロポルクに敗れたヴラディーミルが «海の彼方» に逃亡し、ヴァリャーギを引き連れて帰還し、その戦力でヤロポルクを倒したことである。リューリクから100年を経て、依然としてルーシとヴァリャーギとの密接な関係が窺える。
 第二には、ヴァリャーギ戦力を支えたノーヴゴロドの経済力である。にもかかわらず、ヴラディーミルもヤロポルクも直接的にノーヴゴロドを支配していない(いずれも «代官» が統治している)。あるいはこの頃すでにのちの «貴族共和制» の萌芽が認められるのかもしれない。
 第三には、ヴラディーミルが制圧したポーロツクには公ローグヴォロドがいたことである。ポーロツクはクリヴィチー族の中心地であった。クリヴィチー族はその一部がリューリクを招いた部族連合に加わっており、そのもうひとつの中心地スモレンスクもすでに100年前にオレーグにより征服され、キエフ・ルーシの支配圏に組み込まれていた。にもかかわらず、独自の公を戴いていたということになる。しかもかれはリューリクの子孫ではない。にもかかわらず名前からするとヴァリャーギ出身であることは明らかである。ここから想像されることは、リューリクの «ノーヴゴロド公国» 建国は決してユニークな出来事ではなく、同じようにルーシの地に国を建てたヴァリャーギがいたであろう、ということである。もしかしたらリューリクの一族ではなく、別の一族がルーシの地を統一していたかもしれない。キエフ・ルーシならぬ、ポーロツク・ルーシなどが成立していた可能性もあったのかもしれない。

▲ページのトップにもどる▲

改宗

 ヴラディーミルの治世における最大の事件は、キエフ・ルーシのキリスト教への改宗であろう。

 すでにヴラディーミルの祖母、公妃オリガがキリスト教徒となっていた。彼女も、神聖ローマ皇帝から聖職者を派遣してもらってルーシのキリスト教化を試みたが、この時は失敗に終わっている。

 ヴラディーミル自身は当初、諸部族を統一的に支配する手段として、各部族の信奉する神々を統合し、キエフにパンテオンを建てたりもしている。
 しかしこれがうまく行かないとなって、代替手段としてキリスト教に目をつけたものと思われる。

 ヴラディーミルのキリスト教への改宗については、興味深い逸話が伝えられている。
 ヴラディーミルはイスラーム、ユダヤ教、キリスト教のいずれに改宗するかを決めかね、それぞれの «宣教師» から話を聞き、また使節を各地に派遣した。
 ユダヤ教の優位性を説くユダヤ教徒に対しては、「それではおまえたちの国はいまどこにある?」と言って退けた。
 イスラームは淫行(一夫多妻)を許すのはいいが、飲酒を禁じているのがいかん。「ルーシ人は、飲酒の楽しみを奪われたら生きている甲斐がない」と言ったらしい。やはりロシア人はこの頃から酒飲みだったのだ。
 これに対して、コンスタンティノープルから帰還した使節から、聖ソフィア大聖堂でのこの世のものとも思えぬ壮麗な宗教儀式について聞いたヴラディーミルは、キリスト教に改宗することに決めたという。

 この時、ヴラディーミルが、ひいてはルーシがユダヤ教やイスラームに改宗する可能性がどれだけあったかはわからない。そうなっていたら歴史は大きく変わっていただろうとは思われるが、個人的にはその可能性はかなり低かったのではないかと思う。
 いずれにせよ、キリスト教に改宗したこと、しかもドイツのキリスト教(カトリック)ではなくコンスタンティノープルのキリスト教(正教)に改宗したことが、その後のルーシの歴史を、そしてロシア人の精神性を規定する大きな要素となった。
 以後、コンスタンティノープルから主教が派遣され、ギリシャ語の文献がもたらされ、そしてラテン文字ではなくキリール文字が持ち込まれて、ルーシの文化は急速にギリシャ化していく。
 とはいえ、キリスト教が一般庶民レベルにまで浸透するには、まだ数世紀が必要だった。

▲ページのトップにもどる▲

分裂のはじまり

 ヴラディーミルは晩年、ルーシ各地に息子たちを派遣して支配させた。
 なお、各地に派遣されたキエフ大公の血縁者も公と呼ばれた。これと区別するため、キエフに君臨する公が大公(ヴェリーキー・クニャージ великий князь)と呼ばれるようになったのはおそらくこのヴラディーミルの頃からだろう。
 ヴラディーミルが死ぬと、キエフを継いだ長男スヴャトポルクがキエフ大公として宗主権を握り、各地の弟たちが公としてこれに従属する緩やかな «分権的国家» が成立した。
 近代的官僚機構も通信交通網も存在しない時代にあってこれだけの広大な領域をキエフから一元的に支配するというのは無理があったろうから、各地に息子・兄弟を派遣するというのはむしろ合理的であったと言うべきだろう。とはいえ、それが内紛を呼ぶのも必然である。
 結論から言うと、この後キエフ・ルーシにおいてキエフ大公による一元的支配は二度と復活しなかった。
 1015年にヴラディーミルが死んで宗主権を握ったスヴャトポルクは、1019年までにノーヴゴロドを拠点としたヤロスラーフに破れた。さらに1023年からはトムタラカーニを拠点とするムスティスラーフとヤロスラーフが対立。1026年、両者は講和し、キエフ・ルーシはヤロスラーフとムスティスラーフ、さらにポーロツクを拠点とするブリャチスラーフの三者によって分割された。1036年、ムスティスラーフの死でヤロスラーフはその遺領を併せたが、ブリャチスラーフはヤロスラーフに従属していたとはいえ、半独立的地位が認められたままだった。
 1054年にヤロスラーフが死ぬと、その遺領(ポーロツクを除くキエフ・ルーシ)は三子に分割相続された。

 通常、ヤロスラーフは «賢公» と呼ばれ、その息子・娘をビザンティン帝国やフランスなどの王族と結婚させ、キエフ・ルーシの国際的威信を高めた人物とされている。キエフ・ルーシの最盛期と言った場合、ヴラディーミルよりもむしろヤロスラーフの方が相応しい側面もある。
 なお、2008年にウクライナで実施された『最も偉大なウクライナ人』コンテストでは、投票の結果ヤロスラーフ賢公が第1位となっている(同年ロシアで行われた『最も偉大なロシア人』コンテストでは第14位だった)。しかし反露派のウクライナ民族主義者たちはこの結果に反発し、あまつさえヤロスラーフ賢公を «クレムリンの手先» と呼んでいる。

 ヤロスラーフ賢公の三子、イジャスラーフ、スヴャトスラーフ、フセーヴォロドから、のちのリューリク家のほとんどが出ている。しかし兄弟は1060年代末から内紛を繰り返し、これにそれぞれの息子たちやほかの一族がからんで、キエフ・ルーシは混乱の時代を迎えた。
 このうちフセーヴォロドは1078年から1093年までキエフ大公として君臨した。この間は、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ、グレーブ・スヴャトスラーヴィチ、オレーグ・スヴャトスラーヴィチ、ボリース・ヴャチェスラーヴィチなどが各地に林立し、キエフ大公の宗主権は徐々に名目だけのものになっていった。

▲ページのトップにもどる▲

ペチェネーギとポーロフツィ

 キエフ・ルーシにとって最大の外敵は、南ロシアから南ウクライナにかけて活動したテュルク系の民族、具体的にはペチェネーギとポーロフツィであった。

 ペチェネーギ Печенеги はすでに9世紀には中央アジアから南ロシアに移住。さらに西に移り、ヴォルガからドナウまでを支配した。特にイーゴリとスヴャトスラーフの時代にはしばしばキエフを攻略するなど、キエフ・ルーシにとって大きな脅威であった(スヴャトスラーフはペチェネーギに殺された)。スヴャトポルクとヤロスラーフ賢公との戦いでもペチェネーギはスヴャトポルクの側に立ってヤロスラーフ賢公と戦っている。
 11世紀に入ると、南ウクライナ・ステップの主役が交代する。東方から現れたポーロフツィに圧されたペチェネーギは西方に移り、キエフへの侵攻も1036年が最後となった。

 ポーロフツィ Половцы とは、西欧ではキプチャク人とかクマン人とか言われている民族である。
 10世紀にカザフ・ステップから南ロシア・ステップに移住。1054年にはヴォルガ方面に進出。ペチェネーギを追ってヤイク(ウラル)からドナウまでを支配した。1068年、キエフ大公イジャスラーフがポーロフツィに敗北し、これを契機にイジャスラーフ、スヴャトスラーフ、フセーヴォロド三兄弟の内紛が勃発するが、これがルーシ諸公とポーロフツィとの最初の戦闘であった。

 しかしルーシ諸公とペチェネーギ、ポーロフツィとの関係は、必ずしも対立ばかりではなかった。スヴャトポルクがペチェネーギと同盟してヤロスラーフ賢公と戦ったように、しばしばルーシ諸公はその内紛においてペチェネーギやポーロフツィの力を借り、あるいは逆にペチェネーギ、ポーロフツィの首長同士の内紛にルーシ諸公が口を出すなどしている。
 1185年の『イーゴリ軍記』の戦闘は著名だし、詩人はポーロフツィとの戦いでイーゴリ公を支援しなかったルーシ諸公を非難しているが、逆に言えばルーシ諸公はポーロフツィを絶対的な敵とみなしたり、ポーロフツィとの戦いを «聖戦» と認識したりはしていなかった、ということであろう。ポーロフツィの首長はルーシの年代記では «公 князь» と呼ばれている。ルーシ諸公はポーロフツィを言わば «身内» とみなしていたのである。
 フセーヴォロドやその孫ユーリー・ドルゴルーキーなど、ポーロフツィの首長の娘を妃としたルーシ諸公は数多い。
 ルーシ諸公とポーロフツィとの“共存”はおよそ150年間続いた。1223年、モンゴルに追われたポーロフツィはルーシ諸公と同盟してこれと戦うが、カルカ河畔の戦いに敗北。ハンガリーに亡命し土着(ハンガリーではクマン人と呼ばれる)。17世紀頃までにはマジャール人に同化・吸収された。

▲ページのトップにもどる▲

分裂の固定化

 個人的には、1097年をキエフ・ルーシ内政史上の一画期と見ている。
 この年、リューベチで諸公会議が開催され、«ヴォーッチナ вотчина(父祖伝来の地)» の世襲を認め合った。これにより、キエフ・ルーシはキエフ大公が中央集権的に統一支配するのではなく、キエフ大公の宗主権を認めつつも各地の世襲の領土をそれぞれの一族が支配する、という新しい形態の誕生、別の言い方をすると «キエフ・ルーシの分裂» が諸公自身によって確認された、と言ってもいいだろう。

 すでにヴラディーミルの治世以来、キエフ大公は息子や兄弟をルーシ各地に派遣し、地域支配権を(制限つきではあれ)認めていた。
 キエフ・ルーシの地方支配体制は、オレーグ、イーゴリの時代はキエフ公が各地の諸部族を巡回して貢納品を徴集していたが、オリガによってこれが改められ、拠点に常駐させた代官に徴税を任せることになった。ヴラディーミルやヤロスラーフ賢公には多数の息子がいたため、特に重要な拠点に息子たちを派遣してある程度の «分権制» が導入された。
 キエフ大公によって派遣された各地の公は、場合によっては支配地を替えられたり取り上げられたりもしており、当初は明らかに «代官» であった。しかしポーロツクなどはすでにヴラディーミルの時代から3世代100年にわたって父から子へ、兄から弟へと支配権が継承されていた。フランク帝国で本来は王の代官であった Graf が徐々に世襲化して «伯» となったように、ルーシ各地の公も «任命制» から «世襲制» へと徐々に移行しつつあった。リューベチ会議は、これを認めたのである。

 これに伴い、各地の公の権力基盤も変化する。
 各地の公がキエフ大公による «任命制» だった時期には、派遣される公は従士団(ドルジーナ дружина)を引き連れて乗り込み、公や従士団は «外来者» として在地諸侯や領主、都市を支配する。この場合、公の権力基盤は従士団にあり、在地勢力はむしろ公の権力と敵対することになる。
 ところが世襲が進むと、公も従士団も各地に土着するようになり、在地諸侯との一体化が進んでいく。
 もちろんこれには地域差が大きい。先の話になるが、独自の公家を戴いていたにもかかわらず、ガーリチでは従士団とは起源を異にする在地諸侯が大きな権力をふるい、公はかれらとの対立・妥協に追われた。

 従士団とは語源的には公の «友人» を意味し、その側近、軍事指揮官、行政官、また侍従などとして公に仕えた人々である。しかし公位の世襲が進むにつれて、上述のように従士団も土着化し、在地貴族との融合して、やがて解体していく。こうして新たに形成された上級貴族層がボヤーリン боярин (複数形でボヤーレ бояре)である。
 ボヤーリンは貴族会議(ボヤールスカヤ・ドゥーマ боярская дума)に拠って公を支えたが、その一方で領地を世襲する大土地所有者として気に染まぬ公がいればその下を離れて別の公に仕えたり、時には公を廃立することもあった。

▲ページのトップにもどる▲

統一ルーシの崩壊と分領制の進展

 ヴラディーミル・モノマーフがキエフ大公だったのは1113年から1125年までのわずか12年間であるが、すでに1080年代から父フセーヴォロトの下で主要なアクターとして活躍していた。
 まさにその時代にリューベチ会議が開催され、ルーシの世襲的分割が確定したのだが、その一方でヴラディーミル・モノマーフはルーシ諸公の統一にも尽力した。1100年代に相次いでポーロフツィ討伐軍を組織して率いたのも、ポーロフツィ討伐を口実にルーシ諸公の結束を固めようとした側面もあるように思われる。

 ヴラディーミル・モノマーフの後を継いだのはその嫡男ムスティスラーフである。1132年にムスティスラーフが死ぬまでは、ルーシには大きな内訌もなく平穏が保たれ、このためムスティスラーフは «ヴェリーキー(偉大な)» と呼ばれたという。
 このため、一般に歴史学界ではヴラディーミル・モノマーフまで、あるいはムスティスラーフ・ヴェリーキーまでをキエフ・ルーシの統一時代とみなし、これ以降と区別することが多い。

 しかし、リューベチ会議で確認された «ヴォーッチナ» の世襲は進み、1125年、あるいは1132年の時点で大きく10余の世襲公領が存在した。それぞれ、«独立国家» としての発展の度合いは様々であったが、いずれもその後 «他国» に併合されたりすることなく独自の歴史を歩んでいくことになる。
 すなわち、ポーロツク公領、ヴォルィニ公領、ガーリチ公領、トゥーロフ公領、ペレヤスラーヴリ公領、チェルニーゴフ公領、スモレンスク公領、ムーロム公領、ロストーフ公領、ノーヴゴロド公領、キエフ公領である。これにのちにセーヴェルスキー公領、リャザニ公領などが加わることになる。他方でロストーフ公領がヴラディーミル公領となるなど中心地の移動も見られたし、ムーロム公領のように没落していくものもあった。
 しかしこれらは、上述のように «他国» に併合されることもなく «世襲王家» を戴いてそれぞれが独自の歴史を歩んでいく。よって、ここでは上掲の13を «公国» と呼ぶことにする(のちに若干増える)。ロシア語では «公領» も «公国» もどちらもクニャージェストヴォ княжество であって区別ができないのだが。

 リューリク家では、男子にはほぼ全員に領土が分け与えられる。ドイツにおける相続制と同じであるが、その結果として上掲の13の公国もより小さな公領に分割されていくことになる。ここではこれらの公領を «分領(あるいは分領公領)» と呼び、上掲13の公国とは区別する。
 «分領(ウデール удел)» とは語源的には «分割» ということであり、公国から分割して公に与えられた領土を指す。上掲13の公国について «ウデール» という言葉が使われることはない。また、分領の公のことを分領公(ウデーリヌィー・クニャージ удельный князь)と言うが、上掲13の公国の公についてこの言葉が使われることもない。その点で、ロシアの歴史学でも上掲13の公国と分領とは明確に区別されている。
 分領公は通常、公国の中心に座す公の宗主権下に置かれる。そして子がなかったり戦に敗れたりすれば分領は没収され、消滅する。そして公にまた次男、三男が生まれれば与えられることになる。
 たとえばポーロツクでは、1101年にフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチが死んだ時、長男ロマーンがポーロツクを、次男以下がそれぞれヴィテプスク、ミンスク、ドルツクの分領を与えられた。ロマーンが子なくして死ぬと、弟たちの間にポーロツク公位を巡る争いが勃発。以後、ポーロツク公位争奪戦が続けられる一方で、たとえばヴィテプスク系からはさらにクケイノスやゲルシケなどの分領が分かれている。

 このような公国の成立・発展は、各地がそれぞれに経済的に発展し、独自の «国家» たり得る基盤を獲得していなければあり得ない。
 政治的にもそれは領域支配と同時並行で進展し、独自の «王朝» を戴いて独自の支配階層を持つことになる。リューベチ会議まではキエフ・ルーシはリューリク家全体の言わば «共有財産» であり、そのためいずこかの地の公が死ねばその地はキエフ大公の所有に帰し、別の公が派遣されていたが、世襲制の確認とその後の公国の発展により、公位継承はそれぞれの公国独自の論理で行われるようになる。すなわち、それぞれの公国を «ヴォーッチナ» とするリューリク家の分家(その地独自の «公家» である)の内部でのみ公位継承が行われるようになる。
 ただし、«共有財産» 概念は簡単に消えるものではなく、ゆえに公国が諸子によりさらに分領に分割相続されるという事態をしばしば引き起こす。うまくそれを乗り切って“統一国家”を維持した公国もあれば、公権力が強大であるがゆえに諸公が中心となる公の位を巡って争うという事態を引き起こした公国もあり(上記ポーロツク)、結局中心的な公の権威を確立できずに弱小分領に細分化されていった公国もある。

 なお、この時代を西欧との対比で «封建制度» ととらえるかどうかは、学問的にも意見の相違が見られる。
 もっともそれを言うなら、そもそも «封建制度» の定義をしなければならない。個人的には中世ヨーロッパにおける封建制度の典型は北フランスを中心とした西欧に求めるべきだと考えており、この時代のキエフ・ルーシは当然それとはかなり異質なものであり、とうてい «封建制度» とは呼び得ないと思っている。

▲ページのトップにもどる▲

キエフ大公権の落日

 1132年にムスティスラーフ・ヴェリーキーが死んだ後は、キエフ大公位をめぐってスヴャトスラーフの子孫(スヴャトスラーヴィチ)とヴラディーミル・モノマーフの子孫(モノマーシチ)とが激しく争った。
 これに対してイジャスラーフの子孫(イジャスラーヴィチ)やポーロツク系は、それぞれのヴォーッチナの経営にほぼ専念してキエフ大公位争奪戦にはほとんど加わらなかった。このことは、一方からすると、キエフ大公位にさほどの魅力がなくなってきたことを示唆しているように思える。
 このことは、キエフ大公位を激しく争っていたスヴャトスラーヴィチやモノマーシチたちも感じていたものと思われる。ムスティスラーフ・ヴェリーキーの弟のロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーは、キエフ大公位争奪戦の中心人物であった。しかしその嫡男アンドレイ・ボゴリューブスキーは、もはや争奪戦には加わらず、自領のロストーフ=スーズダリの経営に専念した。

 この頃は、各公国が «独立国家» としての基盤を固めていった時期でもある。ポーロツクやトゥーロフ=ピンスクのように、それに失敗して諸分領に細分化されたものもあるが、他方で傑物が現れて強力な統一国家としての体裁を整えた公国もあった。
 たとえばロストーフ=スーズダリではアンドレイ・ボゴリューブスキー(1157-75)が主都をヴラディーミルに移し、その弟フセーヴォロド大巣公(1176-1212)とともに北東ルーシに覇権を確立した。
 南西ルーシでは、ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスリ(1153-87)、ヴォルィニ公ロマーン・ヴェリーキー(1173-1205)が出て、特にロマーン・ヴェリーキーはガーリチ公国、キエフ公国をも併合し、ほぼこんにちのウクライナの地を制圧した。
 東ルーシではムーロム公国から分かれたばかりのリャザニ公国にグレーブ・ロスティスラーヴィチ(1145-78)が現れ、母国に代わって東ルーシの覇権を握る。
 他方で、ノーヴゴロド公国はキエフ大公となった者が長男や弟などを派遣して支配し、このため世襲公家が成立しなかった。このことがノーヴゴロド土着の土地貴族の力を強くし、かれらの合議による“貴族共和制”が定着していく。同時に東のウラル系諸部族、北のフィン系諸部族、西のバルト系諸部族へと勢力を拡大し、商業都市国家化の道を歩んでいった。

 こうして各公国が独自の国家として «独立» していくと、キエフ大公権に対抗する者も現れてくる。正確にはいつ頃のことかは不明だが、おそらくフセーヴォロド大巣公から、ヴラディーミル公は自らをヴラディーミル大公と称することになる。キエフに代わる、新たなルーシ統合の中心者たることを宣言したつもりかもしれない。のち、チェルニーゴフ公、スモレンスク公、リャザニ公などもこぞって大公を自称するようになる。
 キエフ大公は、その権威も失われていった。
 キエフ大公位は12世紀後半以降、チェルニーゴフ公、スモレンスク公、ヴォルィニ公のみによって争われる。その在位も1、2年程度であり、もはや実質的な力は持たなかった。キエフ・ルーシは、ノーヴゴロド“共和国”、ヴラディーミル大公国、ガーリチ=ヴォルィニの3大国と、チェルニーゴフ、スモレンスク、ポーロツク、リャザニなどの弱小公国、そしてその他の群小分領に分割された。

▲ページのトップにもどる▲

ルーシの膨張

 しかしこのことは逆に言えば、各公国がそれぞれ独自の成長を続けたことでもある。それは結果として、ルーシの勢力圏拡大にもつながった。
 西方にはポーランド、ハンガリーがあり、ガーリチ=ヴォルィニ公国と対峙していた。また南方と南東方はポーロフツィの支配するところとなっており、いずれの方向へもルーシの勢力拡大は阻まれていた。東方にもヴォルガ=ブルガールがいて、リャザニ公国にこれを倒すだけの力はなかった。結果としてルーシ拡大のエネルギーは北方と東北方に向かうことになる。

 北東方ではヴラディーミル大公国が、ウラル系民族を徐々に侵食していった。
 もともとヴラディーミル大公国の領土の東半はほぼウラル系民族の地であったし、ロシア人が «母なるヴォルガ» と呼んで親しんでいるヴォルガ河流域もウラル系民族の居住地であった。
 特にユーリー・ドルゴルーキーは、自身はキエフ大公位に執着していたものの、北東方への進出を奨励し、多くの都市を建てた。モスクワもそのひとつである。

 北東方への進出には、ノーヴゴロドも加わっていた。
 バルト海を通じた西方との貿易をほぼ独占したノーヴゴロドは、主要輸出品である毛皮と蜜を求めて東方へ東方へと進出し、ウラル山脈を越えてはるか北シベリアにまでその商業圏を拡大していた。
 それはこんにち的な領土とは呼べないだろうし、あるいは政治的な勢力圏とも言えないかもしれない。しかしコミ、ペチョラ、ユグラといった人々(その実態がこんにちの何民族に当たるかはともかくとして)に貢納を強い、あるいはかれらを略奪していたことは間違いない。
 ノーヴゴロドはまた北方にも勢力を拡大し、こんにちのフィンランド中部から北極圏の白海沿岸部にまで進出した。
 しかしノーヴゴロドの勢力拡大は、同じく周辺に勢力を拡大しつつあった国々との衝突をもたらすことになる。フィンランドをめぐってはスウェーデンと、バルト海沿岸部をめぐってはデンマークやリヴォニア騎士団と。それはちょうど、東方からやってきたモンゴルがルーシを破壊した時でもあった。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 17 01 2013

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

inserted by FC2 system