以下、勲章について時系列順にそれぞれ簡略に説明する。同じ名称の勲章については、一度説明したものは二度と繰り返さない。そのため、現在のロシア連邦の勲章については、多くが帝政時代ないしソ連時代の勲章として説明してある。参照していただきたい。
勲章とは
まず «勲章» という言葉の定義をしておかねばならない。と言うのも、少なくともわたしは大勲位菊花大綬章と紫綬褒章と国民栄誉賞の制度上の区別がこれまでつかなかったからだ。
こんにちロシア連邦が国家として与えている褒賞・褒美・報酬 награда は、以下のとおり。
- 称号「ロシア連邦英雄」
- 勲章 орден
- メダル медаль
- 勲功の徽章 знак отличия
- 名誉称号 почетное звание
このほかにも «ロシア連邦国家賞» なるものもある(一種のノーベル賞)。が、これは明らかに勲章ではない。ちなみにこの手のものは、ロシアでは法的には награда に含まれていないらしい。
ここで勲章として扱うのは、ロシア語で орден と呼ばれるもののみである。メダルや、знак отличия と呼ばれるものも、一見勲章のようだが、少なくとも歴史的な観点からすると、狭い意味での勲章には当てはまらない。
ちなみに、紫綬褒章などの褒賞は medal、国民栄誉賞は award(ロシア語では премия)。すなわちどちらも勲章ではない。
ロシア語の орден は、ドイツ語の Orden の音訳である。ドイツ語の Orden は、英語の order、フランス語の ordre であり、これは元来修道会を意味した。修道会に範をとって創設されたのが中世の軍事修道会(英語で military order)、すなわち «騎士団» である。騎士団が形骸化し、その団員(所属騎士)を示す «団員章» が単なる勲章に転化したものが、もっとも狭い意味での勲章である。
このため、ヨーロッパ語圏では基本的にもっとも狭い意味で勲章と言った場合は order に由来する言葉で呼び、勲章の受勲者は «騎士 knight» と呼ばれる(もっとも、ランクによって呼び方が違う場合もある)。
すなわち勲章の叙勲者は、もともとは勲章を叙勲するわけではなく、騎士団の一員(騎士)に列せられるのである。
ゆえに、同一人が同じ勲章を複数回受勲するということはあり得ない。ただし騎士団には、総長以下の序列・ランクが存在する。まず下のランクを受勲し、次にその上のランクを受勲する、という具合に、結果として同じ勲章を複数回受勲するということはある(ただしその場合は、必ずランクが違う)。また別の勲章を受勲する(別の騎士団のメンバーになる)ということも本来はあり得ない。しかしどちらも、時代とともに騎士団が形骸化していくにつれて問題なくなっていった(少なくともロシアでは)。
騎士団には人数制限が設けられることも珍しくなく(円卓の騎士は100人だった)、このため誰かが死なない限り新たに叙勲することができない、という事態も起こり得る。
同じく order という言葉で呼ばれる騎士団と勲章とを区別するものは、あえて言えば、総長を戴く騎士たちが集団で何らかの活動(主に軍事活動)に従事しているか否か、であろう。«テンプルの order» は、聖地への巡礼を異教徒から守ることを任務とし、同時に聖地に存在した十字軍国家を異教徒から守る活動にも従事していた。«ホスピタルの order» は、本来は病院経営を任務とし、さらに剣を携えて異教徒との戦いにも従事した。このため、どちらの場合も order は騎士団と訳すべきであろう。前者がテンプル騎士団、後者がホスピタル騎士団/聖ヨハネ騎士団(こんにちのマルタ騎士団)である。
これに対して «ガーターの order» も «金羊毛の order» も、そもそも集団もつくらず、ましてや集団で何らかの活動に従事するということもなかった。事実上、単なる宮廷のお飾りでしかなかった。ゆえに、この両者の場合は order は勲章と訳すべきであろう。これがこんにちの、イギリスのガーター勲章、スペインとオーストリアの金羊毛勲章である。
ロシアには、そもそも騎士も、騎士団も、騎士団の規範となった修道会すらも存在しなかった。орден は総長を戴き、そのメンバーは «кавалер» と呼ばれていたものの、集団で何らかの活動に従事するということはなかった。初期には、西欧の騎士団の伝統を模倣して、騎士団らしき形態を取っていたりもしたが、所詮は単に形式を模倣しただけのことであり、実質的には単なる勲章制度でしかなかった。
なお、кавалер という言葉はフランス語の chevalier やイタリア語の cavaliere からつくられた外来語で、本来はどちらも「騎士」という意味だが、ロシア語では「勲章の受勲者」という意味でしか使われない。ロシア語でいわゆる «騎士» は рыцарь というが、これは西欧の騎士を指す。上述のように、ロシアに騎士は存在しなかった。
さらに、念のために言っておくが、修道院と修道会とは異なる。修道院はロシアにも存在した(それどころかかなり栄えた)。しかし西欧(カトリック)流の修道会は存在しなかった。
ロシア帝国の勲章
序列 | 名称 | 制定年 | 等級 | 叙勲回数 | |
---|---|---|---|---|---|
1 | 聖ヨハネ勲章 | 1798 | 3 | ? | 聖ヨハネ騎士団のこと |
2 | 聖アンドレイ勲章 | 1698 | 1 | 1 000 程度 | |
3 | 聖エカテリーナ勲章 | 1711 | 2 | 734 | 女性のみ |
4 | 聖ゲオルギイ勲章 | 1769 | 4 | 10 000 以上 | 軍事 |
5 | 聖ヴラディーミル勲章 | 1782 | 4 | ? | |
6 | 聖アレクサンドル・ネフスキイ勲章 | 1725 | 1 | 3 674 | |
7 | 白鷲勲章 | 1831 | 1 | ? | ポーランドの勲章 |
8 | 聖アンナ勲章 | 1797 | 4 | 100 000 以上 | |
9 | 聖スタニスラーフ勲章 | 1831 | 3 | ? | ポーランドの勲章 |
聖アンドレイ勲章 орден Святого Андрея Первозванного
1698年にピョートル大帝によって創設された、ロシア最古の勲章であり、1917年までは帝政ロシアの最高表彰であった。正式名称は «聖使徒アンドレイ・ペルヴォズヴァンヌィイ勲章 орден Святого апостола Андрея Первозванного»。ロシアの守護聖者である、十二使徒のひとり聖アンデレにちなんで名づけられた。ただし勲章(騎士団)の創設というアイデアそのものは、ピョートル大帝が西欧旅行の際にイギリスやオーストリアで見聞きしたガーター勲章/騎士団や金羊毛勲章/騎士団に触発されたものである。
等級は1。
この時代は、まだ西欧においても勲章が騎士団的伝統を強く保持していたが、ピョートル大帝により創設されたこの орден は、やはり騎士団ではなく勲章と呼ぶべきであろう。団長/総長も決められず、それどころか騎士団の会則(勲章の規則)すらも1797年になってようやく皇帝パーヴェルにより制定された。とはいえ、騎士団的な要素も残しており、聖アンドレイ騎士団の団員は最大24名に限定されていた。これはつまり、受勲者が誰か死なないと次の者に叙勲することができないこともあったということだ。なお、24名内12名はロシア人が占めることとされていた。
なお、1797年にパーヴェルにより規則が定められるまでは、叙勲対象(騎士団員となる資格)も、勲章(騎士団章)の形状も、慣習的に定められていたにすぎない。現実には、叙勲対象は国家や軍の最高階層に限定されていた(たとえば少将以下の者が受勲する場合には自動的に中将に階級が上げられた)。
1797年までの叙勲回数は 231。ソ連時代の勲章と異なり、個人が複数回叙勲することは認められていなかったので(騎士団である以上、1回叙勲=入団すれば2度目はあり得ない)、叙勲回数はそのまま受勲者数になる(はず)。
最初の受勲者はフョードル・ゴロヴィーン(1699)。2人目はイヴァン・マゼーパ(1700)だが、1708年に剥奪された。ピョートル大帝自身は7番目の受勲者(1703)。
1797年、皇帝パーヴェルにより勲章の規則/騎士団の会則が定められた。それによると、ロマーノフ家の大公(のちには公も)は、自動的に勲章を叙勲される(騎士団員となる)。これも含めて叙勲は幾何級数的に増加し、最終的な叙勲回数は 1 000 前後に達した見られるが、正確な数は不明。
1807年にはナポレオン、ミュラ、タレイランなどにも叙勲されたが、これを聞いたスウェーデン王グスタフ4世・アドルフは、自身の聖アンドレイ勲章(騎士団章)を返却した。
パーヴェルが、個人的な趣味から聖ヨハネ勲章を最上位に置いたこともあったが、それ以外は聖アンドレイ勲章が帝政ロシア最高の勲章に位置づけられていた。このためロシア皇帝の紋章にも聖アンドレイ勲章が描かれている。
1917年、ボリシェヴィキー政権によって廃止された。
1988年、ロシア正教会により、ルーシ洗礼1000年を記念して、モスクワ公聖ダニイール勲章、聖準使徒公妃オリガ勲章とともに制定された。聖ヴラディーミル勲章、聖セールギイ・ラードネジュスキイ勲章に続く3番目の勲章だが、ロシア正教会の最高勲章とされた。正式名称は帝政時代のものと同じ。等級は1。
1998年、エリツィン大統領により、ロシア連邦の最高勲章として制定された。ただし表彰としては、ソ連時代にならって、«ロシア連邦英雄» の称号が最高表彰。正式名称は帝政時代と同じ。このため、ロシア正教会とロシア政府の双方に、まったく同じ最高勲章が存在するというややこしい事態となっている。
もはや、ソ連時代と同じく、騎士団という意味合いは完全に失われているので、人数制限はないし、受勲回数の制限もない。等級は1。
1 | 1998 | リハチョーフ ドミートリイ | 中世史学者 |
2 | 1998 | カラーシュニコフ ミハイール | 自動小銃 АК の生みの親 |
3 | 1998 | ナザルバーエフ ヌルスルタン | カザフスターン大統領 |
4 | 1998 | ソルジェニーツィン アレクサンドル | 作家 |
5 | 1999 | アレクシーイ2世 | モスクワ総主教 |
6 | 2001 | シュマコーフ ヴァレーリイ | 外科医で、ロシアの臓器移植のパイオニア |
7 | 2002 | アリーエヴァ ファズ | アヴァール人の女流詩人 |
8 | 2003 | アリーエフ ゲイダル | アゼルバイジャン大統領 |
9 | 2003 | ペトローフスキイ ボリース | 外科医 |
10 | 2003 | ガムザトフ ラスール | アヴァール人の詩人 |
11 | 2004 | ズィキナ リュドミーラ | 民謡歌手 |
12 | 2005 | アルヒーポヴァ イリーナ | オペラ歌手 |
13 | 2008 | ミハルコーフ セルゲイ | 詩人 |
14 | 2008 | グラーニン ダニイール | 作家 |
15 | 2011 | ゴルバチョーフ ミハイール | 元ソ連大統領 |
聖エカテリーナ勲章 орден Святой Екатерины
1711年のプルート河畔の戦いにおける皇妃エカテリーナ(のちの女帝エカテリーナ1世)の功績を讃え、ピョートル大帝が1713年に創設。正式名称は «聖大殉教者エカテリーナ勲章 орден Святой великомученицы Екатерины»。アレクサンドリアの聖アイカテリネを守護聖者として創設され、1714年に皇妃エカテリーナ・アレクセーエヴナに叙勲された。ただしピョートル大帝時代の叙勲は彼女ひとり。当時はまだ勲章の叙勲者/騎士団のメンバーというのは基本的に男のみであり、現実に皇妃エカテリーナにしか叙勲されなかったこともあって、ピョートル大帝がこの聖エカテリーナ勲章/騎士団をどのようなものと考えていたのか定かではない。
ピョートル大帝が死に、エカテリーナが女帝として即位すると、即座にピョートル大帝との間に生んだ自分の娘たちふたりに叙勲。さらに3人の姪たち、ピョートル大帝の先妃の孫娘などにも叙勲した。
1797年、皇帝パーヴェルにより、ロマーノフ家の大公女(のちには公女も)は自動的に聖エカテリーナ勲章第1等級を叙勲される(騎士団員となる)ことになった。もっともそれ以前からもロマーノフ家の娘たちは受勲しているので、それが制度化されただけだとも言える。
等級は2。第1等級は12人、第2等級は94人という人数制限があった(ただしロマーノフ家の人間はこの数に含まれない)。なお騎士団長は皇妃・女帝。
叙勲の条件は明確ではないが、基本的に女性を対象とする(当然貴族)。ただし1727年にはアレクサンドル・メーンシコフ(最高実力者の11歳になる息子)に叙勲されている(唯一の男性)。受勲者は総計で 734 人。その多くが父親や夫の功績で受勲したものだが、同時に、自身の慈善活動などを理由に受勲した女性も少なくない。
なお、受勲者はすなわち騎士団員でもあったから、女性とはいえ «騎士 кавалер» と呼ばれた。
1917年、ボリシェヴィキー政権によって廃止された。
2012年、メドヴェーデフ大統領により復活。名称は帝政時代のまま。これまた帝政時代と同じく、主に慈善活動や人道的行動を顕彰する勲章であるが、規定には「女性を対象」とは明記されていない。もっとも、制定と同時に叙勲された2人は、いずれも女性であった。等級は1。
アレクサンドル・ネフスキイ勲章 орден Александра Невского
1725年、女帝エカテリーナ1世により創設される。正式名称は «聖アレクサンドル・ネフスキイ勲章 орден Святого Александра Невского»。言うまでもなく、1240年にネヴァ河畔の戦いでスウェーデン軍を、1242年に氷上の戦いでリヴォニア騎士団を撃退してロシアを守った英雄アレクサンドル・ネフスキイを守護聖者として創設されたものである。
等級は1。
もともとはピョートル大帝により軍事的功績を讃える勲章として構想されていたが、現実には文民にも叙勲されている。最初の受勲者は、1725年、アンナ・ペトローヴナ(ピョートル大帝とエカテリーナ1世の娘)の結婚式に際して叙勲された18人。この18人には特段の著名人は含まれていないが、そもそもアレクサンドル・ネフスキイ勲章は聖アンドレイ勲章(および聖エカテリーナ勲章)の下位に位置づけられていたため、より下位の階級の者が叙勲対象として想定されていたのだろう。しかし早くも1725年中にエカテリーナ1世は自身、およびポーランド王やデンマーク王などに叙勲している。結果として、叙勲対象者は聖アンドレイ勲章とかぶることになった。
とはいえ、女帝エカテリーナ2世即位までの36年間におよそ 300 人、エカテリーナ2世の治世にさらに 250 人が叙勲されており、聖アンドレイ勲章よりも頻繁にばら撒かれた実態がうかがえる。これはひとつには、聖アンドレイ勲章と異なり、騎士団員の総数が限定されていなかったためであろう。
最終的な叙勲回数は 3 674 と見られる。
1917年、ボリシェヴィキー政権によって廃止された。
1942年、帝政時代の «聖アレクサンドル・ネフスキイ勲章» とはまったく異なるものとして、ソ連政府によって新たに制定される。同時に制定されたスヴォーロフ勲章・クトゥーゾフ勲章と同じく、純粋な軍事勲章。正式名称は «アレクサンドル・ネフスキイ勲章 орден Александра Невского»(«聖» が省かれた)。等級は1。
同時に制定されたのがスヴォーロフ勲章・クトゥーゾフ勲章であったことからも一目瞭然で、アレクサンドル・ネフスキイという名はあくまでも «祖国防衛の英雄» として使われただけで、帝政時代のような意味合いはまったくない。
叙勲対象は赤軍の小隊長以上師団長以下。スヴォーロフ勲章とクトゥーゾフ勲章の叙勲対象が主に大隊長以上であるから、叙勲対象からしても両勲章の下方に位置する。
帝政時代と異なり、ソ連時代の勲章にはもはや騎士団という本来の意味合いはまったくない。そのため、同一人が複数回受勲することが認められていた。結果として、アレクサンドル・ネフスキイ勲章の叙勲回数は 42 165 を数える。なおこのほとんどが、当然ながら、大祖国戦争(独ソ戦)中および直後の叙勲であり、1950年代以降はほとんど叙勲されていない。
ソ連崩壊後、1992年の最高会議令により存続が定められたが、法的に整備はされなかった。現実にソ連時代末期から叙勲がなかったため、不都合はなかった。
2010年、メドヴェーデフ大統領により法的にロシア連邦の勲章として確立した(名称はソ連時代のものを継承)。これにより、叙勲対象は軍人だけではなく文民にも広げられ、軍事勲章という意味合いは失われた。そのため、ソ連時代とは逆に、純軍事勲章であるスヴォーロフ勲章などよりも上位に位置づけられた。等級は1。
1 | 2010 | グルィズローフ ボリース | 国家ドゥーマ議長 |
2 | 2011 | キリール | モスクワ総主教 |
3 | 2011 | ソコローフ アレクセイ | 退役軍人 |
4 | 2011 | オーシポフ ユーリイ | 科学アカデミー総裁 |
5 | 2011 | ソコローフ セルゲイ | ソ連元帥 |
6 | 2011 | ラスプーティン ヴァレンティーン | 作家 |
7 | 2012 | ペトローフ ヴァシーリイ | ソ連元帥 |
聖ゲオルギイ勲章 орден Святого Георгия
1769年、女帝エカテリーナ2世により創設された。正式名称は «聖大殉教者ゲオルギイ・ポベドノーセツ軍事勲章 военный орден Святого великомученика и победоносца Георгия»。モスクワの守護聖者であり、武人の守護聖者として西欧でも広く尊崇されていた聖ゲオルギオスを守護聖者として創設された。
戦場における功績を讃えるため、士官に叙勲される。等級は4。
人数制限はなかった。叙勲回数は、第1等級が 23、第2等級が 125、第3等級が 625、第4等級が 10 000 以上と考えられる。このうち、第1等級から第4等級まですべてを受勲した珍しい例が4名いる。クトゥーゾフ、バルクラーイ=デ=トーリ、パスケーヴィチ、ディービチ(いずれも最後は元帥)である。第2等級の受勲者には、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公(第一次大戦の最高総司令官)や、ユデーニチ、フォッシュ、ジョッフルなどがいる。第3等級の受勲者には、コルニーロフ、デニーキン、カレーディン、ドゥホーニンなどがいる。このように、等級は必ずしも階級や功績を反映していなかった。
なお、あらゆる勲章の受勲者には、等級にかかわりなく、世襲貴族の権利が与えられていたが、1845年にこの権利が認められるのは聖ゲオルギイ勲章と聖ヴラディーミル勲章の受勲者に限定されることになった(ほかの勲章では第1等級の受勲者のみに認められることになった)。
1807年、皇帝アレクサンドル1世により、一般兵士のための «聖ゲオルギイ勲章勲功徽章 знак отличия ордена Святого Георгия» が制定された。一般兵士が基本的に対象とされていたので、«兵士のゲオルギイ» などと呼ばれることが多かったが、1913年、正式に «ゲオルギイ十字 Георгиевский крест» と改名された。
これは勲章ではない。一般的には聖ゲオルギイ勲章の第5等級とも認識され、この受章者は同じく «騎士» と呼ばれたものの、聖ゲオルギイ勲章の受勲者(聖ゲオルギイ騎士団員)には数えられない。この徽章は、勲章制度の外(下)に位置づけられていた。もはやかつての騎士団の意味合いが薄れ、純粋に勲功制度と化していたためだろう。このため同一人が複数回受章することも認められていた。
1856年、4つの等級が導入された。まず第4等級を受章すると、さらなる功績を立てて第3等級を、またさらに功績を挙げて第2等級を受章し、最終的に第1等級を受章することになる。こうして第1等級まで受章した者を «完全な騎士 полный кавалер» と呼ぶ。«完全な騎士» の中には、ブデョーンヌィイ、テューレネフ、エリョーメンコといったのちの赤軍幹部もいた。
最終的な授章回数は数百万にのぼったものと思われる。一般兵士のための表彰だったが、初期には文民や将軍(ミロラードヴィチ)が受章した例もある。
聖ゲオルギイ勲章、ゲオルギイ十字ともに、1917年にボリシェヴィキー政権によって廃止された。
1992年、ソ連時代の勲章の多くを廃止した最高会議令により、代わりにゲオルギイ十字が復活。正式名称や等級、授章対象は帝政時代のまま。ただし実際の授章は遅れに遅れ、2008年のこと。
2000年、プーティン大統領により聖ゲオルギイ勲章が復活(1992年の最高会議令が復活を定めてはいたが、詳細は何も決められていなかった)。等級や叙勲対象は帝政時代のまま。ただし正式名称は «聖ゲオルギイ勲章 орден Святого Георгия» となった。また、第4等級から順にランクアップしていく制度は、ゲオルギイ十字を踏襲している。聖アンドレイ勲章に次ぐ第2位の勲章であり、最高位の軍事勲章である。
2008年に南オセーティヤにおける軍事行動に関して叙勲されたのが最初。2012年のプーティン大統領就任までに9人が受勲し、うち3人がすでに第2等級に達しているらしいが、かれらが3度も受勲した事実は知られていない。そもそも残る6人についても、その受勲の事実は必ずしも確認できない。どうやら秘密裏に叙勲されているようだ。
聖ヴラディーミル勲章 орден Святого Владимира
1782年、女帝エカテリーナ2世により創設された。正式名称は «聖準使徒公ヴラディーミル勲章 орден Святого равноапостольного князя Владимира»。«ルーシの洗礼者» と呼ばれるキエフ大公ヴラディーミルを守護聖者とする。
エカテリーナ2世の治世20周年を記念して創設されたもので、それもあってか、多くの場合、長年の勤務に対する褒賞として叙勲されている。等級は4。人数制限はなし。
最初の受勲者は、ポテョームキン、ルミャーンツェフ、オルローフ、レープニン、シュヴァーロフ、ベズボロードコ、ベツコーイなどの国家の重鎮たちであった。
1787年以降、第4等級は勤続35年以上の文民・軍人に叙勲されることになった。さらに1845年からは、25年以上士官であった者、18度以上海戦に従軍した者などにも叙勲されるようになった。
なお、あらゆる勲章の受勲者には、等級にかかわりなく、世襲貴族の権利が与えられていたが、1845年にこの権利が認められるのは聖ゲオルギイ勲章と聖ヴラディーミル勲章の受勲者に限定されることになった(ほかの勲章では第1等級の受勲者のみに認められることになった)。しかし第4等級の叙勲対象があまりに広範にわたったため、1900年に聖ヴラディーミル勲章第4等級の受勲者だけは、世襲貴族ではなく一代貴族(本人だけが貴族)の権利に改められた。
ちなみに、純粋にロシア産の勲章(騎士団)は、この聖ヴラディーミル勲章が帝政時代最後のものである(第一次大戦中に制定された聖オリガ勲章は «騎士団 орден» ではなく «勲功徽章 знак отличия» である)。
1917年、ボリシェヴィキー政権により廃止された。
1957年、ロシア正教会が、総主教座復活40周年を記念して、聖ヴラディーミル勲章を制定した。正式名称は «聖準使徒大公ヴラディーミル勲章 орден Святого равноапостольного великого князя Владимира»。これはロシア正教会にとって歴史上最初の勲章である。等級は3。
聖アンナ勲章 орден Святой Анны
1735年、ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒが、亡き妻アンナ・ペトローヴナ(ピョートル大帝の娘)にちなんで創設。聖母マリアの母である聖アンナを守護聖者とした。等級はひとつで、15人という人数制限があった。ホルシュタイン=ゴットルプでは最初(にして唯一)の勲章(騎士団)であり、軍人で言えば大佐以上の階級の者に叙勲は限定された(ホルシュタイン=ゴットルプは小さな国だったので、大佐以上はあまりいなかった)。
その子ピョートル3世、その孫パーヴェルは、いずれもロシアに住み、聖アンナ勲章もホルシュタイン=ゴットルプ人だけでなくロシア人にも広く叙勲されていた。スヴォーロフが最初に叙勲した勲章は聖アンナ勲章であった。
1797年、ロシア皇帝となったパーヴェルにより、ロシア帝国の勲章となり、等級は3つに分けられた。1815年にはさらに4等級に分けられる。第1等級の受勲者は高官ばかりだが、第2等級以下は下級官僚や士官にも叙勲されており、勲章制度の中では最下級に位置づけられていた。第3等級は、勤続12年の文民、勤続8年の軍人に授与されている。
受勲者の総数はおそらく数十万人。ロシア帝国の勲章の中で、最も数多くばら撒かれた勲章である。
1796年、まだロシア皇帝となっていないパーヴェルにより、下士官のための «聖アンナ勲章勲功徽章 знак отличия ордена Святой Анны» が制定された。翌1797年にパーヴェルがロシア皇帝になると同時に、ロシアの褒賞制度の中に組み込まれた。
これは勲章ではない。受章者は同じく «騎士» と呼ばれたものの、聖アンナ勲章の受勲者(聖アンナ騎士団員)には数えられない。この徽章は、勲章制度の外(下)に位置づけられていた。
対象は、勤続20年の下士官。あるいは軍事的な功績に対しても授与されたが、あくまでも下士官が対象であった(1807年に聖ゲオルギイ勲章勲功徽章が制定されて、軍事的な功績に対する褒賞という役割はそちらに奪われた)。その後受章条件には変化もあったが、聖ゲオルギイ勲章勲功徽章と違って、基本的に下士官を対象としたこと、実際の戦場における功績よりも長年の勤務などにより授与されたこと、等に変化はなかった。なお、下士官が対象であったためか、聖ゲオルギイ勲章勲功徽章ほど一般に馴染みがなく、そのため «アンナ十字» みたいな特別な名称は生まれなかった。
1917年、聖アンナ勲章、聖アンナ勲章勲功徽章ともに、ボリシェヴィキー政権により廃止された。
聖ヨハネ勲章 орден Святого Иоанна Иерусалимского
1113年、教皇パスカル2世の認可により創設された。一般的に、聖ヨハネ騎士団、あるいはホスピタル騎士団として知られる。テンプル騎士団と並ぶ、最初の騎士団のひとつである。1291年、キプロス島に拠点を移すが、1309年にはビザンティン帝国からロードス島を奪い、以後ロードス騎士団として知られる。1522年にはロードス島を失うが、マルタ島を本拠地として借り受け、マルタ騎士団として知られるようになった。
1798年、ナポレオンにマルタ島を奪われると、時のロシア皇帝パーヴェルがその庇護に乗り出す。マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)は、ナポレオンに屈服した騎士団総長を «更迭» し、代わりにパーヴェルを総長に選出した。
聖ヨハネ騎士団総長となったパーヴェルは、騎士団の «ロシア支部» を創設。アレクサンドルとコンスタンティーンの両大公をはじめ、ロストプチーン、アラクチェーエフ、パーレンといった寵臣たちや、バグラティオーン、クラーキン公、ドルゴルーキイ公、ゴリーツィン公などの重臣たちが騎士団員に名を連ねた。カトリックの聖ヨハネ騎士団の、正教徒の支部というおかしな組織が生まれたわけである。
パーヴェルの個人的趣味により、聖アンドレイ勲章(騎士団)よりも上に位置づけられていた。等級は3。
この時代、すでに騎士団は形骸化し、単なる勲章となっていたが、その中にあって聖ヨハネ騎士団だけは騎士団としての実質を維持しており、聖ヨハネ勲章と呼ぶのはいささか不適切であろう。とはいえ言葉の上ではどちらも «орден» であって、区別ができない。ロシアにおいても、少なくともロシア支部は、騎士団としての活動はさほどしていなかったようで、実態としてはやはり聖ヨハネ勲章と呼んでいいだろう。
しかし、カトリックのローマ教皇に直属する聖ヨハネ騎士団の総長に正教徒のロシア皇帝が就くというのは、信仰上も制度上も問題があり(会則上、パーヴェルの総長就任は認められない)、さらにパーヴェルがやがて親ナポレオン政策に転換したこともあって、聖ヨハネ騎士団はロシアを離れ、両者の関係は薄れた。1801年のパーヴェル暗殺以降は、事実上活動はストップ。1810年、皇帝アレクサンドル1世の勅令により、新規の入団(叙勲)が廃止され、さらに1817年、団員章(勲章)を佩用することが禁じられた。ただし騎士団の支部(カトリックの)は残ったようである。
なお、聖ヨハネ騎士団は1834年以降、ローマを本拠地にしている(一般にはマルタ騎士団と呼ばれている)。
白鷲勲章 орден Белого орла
1705年、ポーランド王・リトアニア大公アウグスト2世/ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世により、ポーランド・リトアニアの最初の勲章/騎士団として創設された。正式名称は «白鷲勲章 order Orła Białego»。白鷲とはポーランドの紋章である。守護聖者は設定されていない。等級は1。
アウグスト2世がいかなる動機・きっかけで勲章/騎士団を創設しようと思いついたかは不明(ピョートル大帝の聖アンドレイ勲章に触発された、とする説もある)。そもそもポーランド・リトアニアでは貴族の力が強く、貴族間の平等を侵すものとして勲章/騎士団はそれまで設けられてこなかった。白鷲勲章/騎士団が創設された際にも反対は多かったが、やがて定着していく。なお、最初の受勲者は4人がポーランド・リトアニア人で、3人がロシア人、1人がウクライナ・コサック(マゼーパ)。1795年、ポーランド・リトアニアの消滅により、事実上白鷲勲章も消滅した。
1807年、ワルシャワ大公国の勲章として復活。さらに1815年に会議王国の最高勲章とされた。会議王国の王はロシア皇帝が兼ねていたが、あくまでもロシア帝国と会議王国は別であるとの建前から、白鷲勲章も制度上はロシア帝国の勲章ではない。
1831年、皇帝ニコライ1世により事実上会議王国が廃止され、ロシア帝国に統合された。これに伴い、白鷲勲章もロシア帝国の勲章とされる。ゆえに、白鷲勲章そのものはその後も存続するわけだが、ポーランドの勲章としては認識されていない。実際、ポーランドとは無関係の者が多く受勲している。聖アンナ勲章よりは上だが、その他のロシアの勲章よりも下に位置づけられた。
1917年、ボリシェヴィキー政権により廃止された。
1921年と1992年に、それぞれ、ポーランドの最高勲章として復活。
聖スタニスラーフ勲章 орден Святого Станислава
1765年、ポーランド王・リトアニア大公スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキにより創設された。正式名称は «聖殉教者司教スタニスワフ勲章 order Świętego Stanisława Biskupa Męczennika»。たまたま王の名と同じ、ポーランドの守護聖者である聖スタニスワフを守護聖者とした。100人という人数制限が設けられ、しかも4世代にわたって貴族であることが条件とされた。等級は1。
創設されてわずか30年後にはポーランド・リトアニアそのものが消滅したが、1807年にはワルシャワ大公国の勲章として復活。これまた1813年には消滅している。1765年から1813年までの間に、1 762 人が叙勲された(騎士団員とされた)。100人という人数制限が事実上無視されていたことになる。
1815年にも会議王国の勲章とされたが、等級が4に分けられた。白鷲勲章と同様、あくまでも会議王国の勲章であり、ロシア帝国の勲章ではない。
1831年、皇帝ニコライ1世により事実上会議王国が廃止され、ロシア帝国に統合された。これに伴い、聖スタニスワフ勲章もロシア帝国の勲章とされる。ゆえに、聖スタニスワフ勲章(ロシア語では聖スタニスラーフ勲章)はその後も存続するわけだが、ポーランドの勲章としては認識されていない。帝政ロシアのすべての勲章の中で、最下位に位置づけられた。なお、1839年に等級は3と改められた。
1917年、ボリシェヴィキー政権により廃止された。
聖オリガ勲章 орден Святой Ольги
1915年、皇帝ニコライ2世により創設された。正式名称は «聖準使徒公妃オリガ勲功徽章 знак отличия Святой равноапостольной княгини Ольги»。ルーシ最初のキリスト教徒とされる聖オリガを守護聖者とし、女性に対する褒賞として創設された。等級は3。
正式名称が示すとおり、現実には勲章/騎士団ではない。しかし騎士団本来のあり方が形骸化した時代にあって、もはや勲章/騎士団 орден と勲功徽章 знак отличия の違いなど、誰にもわからなくなっていた、ということだろう。多くの文献で «帝政ロシア最後の勲章» などと呼ばれている。
1916年、3人の息子(いずれも聖ゲオルギイ勲章受勲者)を戦争で失くした母親に第2等級が授与されたが、これが唯一の授章となった。
1917年、ボリシェヴィキー政権により廃止された。
1988年、ロシア正教会により、ルーシ洗礼1000年を記念して、聖アンドレイ勲章、モスクワ公聖ダニイール勲章とともに、聖オリガ勲章が制定された。こちらは正式名称も «聖準使徒公妃オリガ勲章 орден Святой равноапостольной княгини Ольги» で、正真正銘の勲章である。等級は3。聖オリガ勲功徽章と同様、女性のみを対象とする。
1997年、ウクライナ政府により、«公妃オリガ勲章 орден княгинi Ольги» が制定された。これまた等級が3。女性のみを対象としている。
ソヴィエト連邦の勲章
序列 | 名称 | 制定年 | 等級 | 叙勲回数 | |
---|---|---|---|---|---|
別格 | 勝利勲章 | 1943 | 1 | 20 | |
1 | レーニン勲章 | 1930 | 1 | 431 418 | |
2 | 十月革命勲章 | 1967 | 1 | 106 462 | |
3 | 赤旗勲章 | 1918 | 1 | 581 300 | 軍事 |
4 | スヴォーロフ勲章 | 1942 | 3 | 7 166 | 軍事 |
5 | ウシャコーフ勲章 | 1944 | 2 | 241 | 軍事(海軍) |
6 | クトゥーゾフ勲章 | 1942 | 3 | 7 329 | 軍事 |
7 | ナヒーモフ勲章 | 1944 | 2 | 551 | 軍事(海軍) |
8 | ボグダーン・フメリニーツキイ勲章 | 1943 | 3 | 8 451 | 軍事 |
9 | アレクサンドル・ネフスキイ勲章 | 1942 | 1 | 42 165 | 軍事 |
10 | 祖国戦争勲章 | 1942 | 2 | 9 100 000 | 軍事 |
11 | 労働赤旗勲章 | 1920 | 1 | 1 224 590 | |
12 | 諸国民友好勲章 | 1972 | 1 | 72 761 | |
13 | 赤星勲章 | 1930 | 1 | 3 876 740 | 軍事 |
14 | ソ連軍祖国貢献勲章 | 1974 | 3 | 70 177 | 軍事 |
15 | 名誉勲章 | 1935 | 1 | 1 580 850 | |
16 | 勇敢勲章 | 1988 | 1 | 600 | |
17 | 栄光勲章 | 1943 | 3 | 1 000 000 前後 | 軍事 |
18 | 労働栄光勲章 | 1974 | 3 | 700 000 以上 | |
別格 | «母親英雄» 勲章 | 1944 | 1 | 431 000 | 母親 |
«母性の栄光» 勲章 | 1944 | 3 | 5 534 724 | 母親 |
赤旗勲章 орден Красного знамени
1918年、国内戦のさなかに制定された、ソ連最初の勲章。赤軍兵士に対する褒賞として制定された軍事勲章である。厳密に言うと、この時点ではロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の勲章。1922年にソ連が成立した後、1924年にロシア、ウクライナ、ベロルシアなどの赤旗勲章が統合されて、ソ連の赤旗勲章が制定された。
名称こそ «орден» だが、もはやかつてのような «騎士団» という意味合いはない。総長はいないし、人数制限もない。同一人による複数受勲も認められていた。等級は1。
当初はソ連の最高勲章だったが(そもそも唯一の勲章だったのだが)、1930年にはレーニン勲章が、1967年には十月革命勲章が、それぞれ赤旗勲章より上位の勲章として制定された。
最初の受勲は1918年、ヴァシーリイ・ブリュッヘル(のちのソ連元帥)。かれは都合5回受勲している(ロシアの赤旗勲章、ウクライナの赤旗勲章、ソ連の赤旗勲章などすべて含めて)。その他国内戦で(のちには大祖国戦争=独ソ戦で)活躍した軍人が多数受勲しているが、勲章のあり方が帝政時代とは大きく変わっているためもあり(1930年以降は最高勲章でなくなったこともあり)、必ずしも権力者が受勲しているわけではない。むしろ時代を反映して、一般兵士の受勲が多い。後年には、戦闘経験がなくとも、勤続20年、あるいは30年で叙勲される例も増えた。最多受勲は7回だが、15人ほどいる記録保持者の中には特記すべき著名人はいない。
このほかに、レニングラードやセヴァストーポリ、コムソモールやモスクワのミリツィヤ(民警)、新聞『赤星』(軍の機関紙)、大学や部隊、艦船なども受勲している。叙勲回数は合計で 581 300。
1991年、ソ連の崩壊により廃止された(正式には翌1992年のロシア連邦最高会議令により)。
労働赤旗勲章 орден Трудового Красного знамени
1920年、国内戦の終結後、兵士に対する赤旗勲章に相当する文民勲章として制定された。これも赤旗勲章と同様、当初はロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の勲章。やがてウクライナやベロルシアでも同様の勲章が制定されそれらが1928年にソ連の勲章として統合された。等級は1。
最初の受勲者をはじめ、一般の農民や労働者が多く受勲している。権力者の受勲はあまりなく、むしろヒエラルキーの中間に位置する人間が多く受勲している。スターリンも、勲章好きなブレージュネフも受勲していない。ゴルバチョーフは受勲者だが、受勲したのは1947年、16歳の時である(記録的収穫をあげたコルホーズの一員として)。
最多受勲者は6回だが、赤旗勲章と同じく、特記すべき著名人はいない。叙勲回数は 1 224 590。帝政時代の勲章と比べると桁違いに多いが、ソ連時代の勲章としては珍しくない。
1991年、ソ連の崩壊により廃止された(正式には翌1992年のロシア連邦最高会議令により)。
レーニン勲章 орден Ленина
1930年に制定された、ソ連の最高表彰。勲章としてはその後も最高位にあったが、表彰としては1934年に «ソヴィエト連邦英雄» という称号が制定され、これにその地位を奪われた。等級は1。
叙勲回数は 431 418。最高勲章でこれだけ叙勲されたのだから、ソ連がどれほど勲章をばら撒いたかが推察できる。なお、ソヴィエト連邦英雄、また社会主義労働英雄の称号を与えられた者には、自動的にレーニン勲章が叙勲された。
受勲第1号は新聞『コムソモーリスカヤ・プラヴダ』。最多の12回の受勲はニコライ・パトーリチェフ(共産党アパラーチク)、11回はドミートリイ・ウスティーノフ(軍需工業相、国防相)、10回はシャラフ・ラシードフ(ウズベク共産党第一書記)、エフィーム・スラーフスキイ(核兵器開発の責任者)、アレクサンドル・ヤーコヴレフ(飛行機設計者)。なお、ブレージュネフは8回、フルシチョーフは7回、スターリンとゴルバチョーフは3回。
1934年、高高度気球で事故死した3人の乗組員に、死後叙勲された。死者に対する叙勲はこれが最初である(本来の勲章/騎士団のあり方からすると、死者への叙勲はあり得ない)。なお、この3人は赤の広場に埋葬されている。
1991年、ソ連の崩壊により廃止された(正式には翌1992年のロシア連邦最高会議令により)。
赤星勲章 орден Красной звезды
1930年に、レーニン勲章と同時に制定された軍事勲章。レーニン勲章は最高位の勲章とされたが、赤星勲章は勲章の中では最下位に位置づけられた。等級は1。
最初の受勲者は、赤旗勲章と同じヴァシーリイ・ブリュッヘル。叙勲回数は 3 876 740。
1991年、ソ連の崩壊により廃止された(正式には翌1992年のロシア連邦最高会議令により)。
名誉勲章
1935年に制定された文民勲章。正式名称は орден «Знак почета»。знак とはしるし、標識、符号、マークという意味で、почет は尊敬や敬意を意味する。ちょっと訳しづらい。
勲章をばら撒いていたソ連政府が、もっと下位の、使い勝手のいい勲章を求めて制定したものだろう。赤星勲章よりも下、勲章制度の最下位に位置づけられている。4度受勲したチェルヴャコーフは陸軍大将、3度受勲した者には共産党アパラーチクなどもいるが、政治家では下級政治家、その他スポーツ選手や芸術家、学者、一般の労働者なども多い。逆に、歴代のソ連の最高指導者で名誉勲章を受勲したのはゴルバチョーフだけ(しかも若手の下級政治家だった頃)。
叙勲回数は 1 580 850。
1988年、орден Почета と改名された。
1991年、ソ連の崩壊により廃止された(正式には翌1992年のロシア連邦最高会議令により)。
1994年、エリツィン大統領により復活。等級は1。この当時、現実に叙勲されていた勲章は、祖国貢献勲章、ジューコフ勲章、軍事貢献勲章、勇敢勲章、友好勲章、そして名誉勲章であった。祖国貢献勲章は最高勲章であったし、ジューコフ勲章と軍事貢献勲章は軍事勲章であったから、一般庶民にばら撒ける勲章として友好勲章、勇敢勲章、名誉勲章は重宝されていた。このうち、名誉勲章はある意味特に幅広く、様々な業績を対象に叙勲されている。
祖国戦争勲章 орден Отечественной войны
1942年、大祖国戦争(独ソ戦)のさなかに制定された軍事勲章。ソ連の勲章としては初めて複数の等級に分けられた(2)。
赤旗勲章と赤星勲章の中間に位置づけられ、第1等級、第2等級それぞれに、どのような軍功をあげれば叙勲されるかが事細かに規定されている。たとえば第1等級は、敵の砲火の下に橋を架けた者、前線の飛行場で敵の砲火の下10機以上の飛行機を修理した者、3機以上の敵機を砲火で殲滅した者、等々。敵機撃墜が2機であれば第2等級になる。
叙勲規定がこのようなものであるため、受勲者は基本的に一般兵士や下士官であった。
社会主義国家ソ連は私有財産を否定していたためか、勲章は受勲者の死後は国家に返却されるものとされていた。その中で、祖国戦争勲章だけは、受勲者の死後も遺族が保持することが認められていた(ただし1977年にすべての勲章が返却不要とされた)。
1950年代、1960年代にも、時々思い出したかのように叙勲されていたが、本来が上記のような、戦場における具体的な功績を対象に叙勲されるものであるから、戦争が終われば自然消滅する運命にあった。しかし1985年、対独戦勝利40周年を記念して、大祖国戦争従軍者たちに改めて祖国戦争勲章が叙勲された。
1985年までは、叙勲回数は第1等級が 324 903、第2等級が 951 652 であった(合計 1 276 555)。しかし1985年に一気に 7 500 000 ほどばら撒かれた。このため受勲総数は 9 100 000 を超え、判明している限りでソ連の(ロシアの)勲章の中でも最多となった。
形式上は、1992年の最高会議令でロシア連邦の勲章と認められなかったことで廃止された(現実には1985年以来叙勲はなかった)。
スヴォーロフ勲章 орден Суворова
1942年、大祖国戦争のさなかに制定された軍事勲章。帝政時代最高の軍人とされる18世紀末のアレクサンドル・スヴォーロフにちなんで命名された。この時制定されたのが、スヴォーロフ勲章、クトゥーゾフ勲章、アレクサンドル・ネフスキイ勲章と名づけられている事実は、スターリンが共産主義よりも愛国主義に期待していたことを如実に物語っている。いずれも叙勲対象は軍の司令官クラス。この点で、誰でも受勲できる赤旗勲章、赤星勲章、祖国戦争勲章とはまるで異なるものとなっている。
位階としては赤旗勲章に次ぐ高位に位置づけられた。等級は3。等級は、単純に言えば受勲者の階級により区別されている(たとえば第1等級は軍、第2等級は軍団・師団・旅団、第3等級は連隊・大隊の司令官)。叙勲回数は、第1等級が 391、第2等級が 2 863、第3等級が 4 012。受勲第1号はジューコフ、ヴァシレーフスキイ、ヴォーロノフなど最高位の将官たちである。
1992年の最高会議令によりロシア連邦の勲章として認められたが、法的な裏づけがなかった。アレクサンドル・ネフスキイ勲章などと同じく、現実には大祖国戦争終結後は叙勲がなかったので、特段の不都合がなかったものと思われる。
2010年、メドヴェーデフ大統領によって法的に整備される。等級は1。ソ連時代とは逆にアレクサンドル・ネフスキイ勲章よりも下位に位置づけられた。2012年のプーティン大統領就任時点で叙勲はまだ0。
クトゥーゾフ勲章 орден Кутузова
1942年、大祖国戦争のさなかに制定された軍事勲章。言うまでもなく、ナポレオンを撃退した祖国戦争の英雄ミハイール・クトゥーゾフにちなんで命名された。ただしこの時制定されたものは等級がふたつであり、第3等級は翌1943年に制定された。
同時に制定されたスヴォーロフ勲章とアレクサンドル・ネフスキイ勲章の中間に位置づけられた。また、叙勲対象としては、スヴォーロフ勲章が前線における指揮であるのに対して、クトゥーゾフ勲章は参謀業務や後方業務などが中心であった。チェリャービンスクのトラクター工場が第1等級を受勲しているのがそのいい例であろう。
スヴォーロフ勲章と同様に、おおまかに受勲者の階級によって等級が決まる。叙勲回数は、第1等級が 675、第2等級が 3 326、第3等級が 3 328。
1992年の最高会議令によりロシア連邦の勲章として認められたが、法的な裏づけがなかった。2010年、メドヴェーデフ大統領によって法的に整備される。等級は1。ジューコフ勲章の下位に位置づけられた。2011年、特殊部隊が第1号の受勲者となった。
ボグダーン・フメリニーツキイ勲章 орден Богдана Хмельницкого
1943年、大祖国戦争のさなかに制定された軍事勲章。ザポロージエ・コサックのアタマンとしてポーランドと戦ったウクライナの英雄ボグダーン・フメリニーツキイにちなんで命名された。クトゥーゾフ勲章の下、アレクサンドル・ネフスキイ勲章の上に位置づけられている。等級は3。
勲章表面の «ボグダーン・フメリニーツキイ» はロシア語ではなくウクライナ語で書かれている。その制定をスターリンに提言したのは、当時第一ウクライナ戦線軍に従軍していたニキータ・フルシチョーフだと言われる。法的には明言されていないが、事実上ウクライナ解放戦に従軍した兵士への勲章となっている。ソ連の勲章では唯一、非ロシア的な民族的色彩を帯びた勲章である。
受勲対象は、スヴォーロフ勲章にほぼ準拠し、等級ごとに階級によって区別されていた。ただしパルチザンにも叙勲されている。叙勲回数は 8 451。
大祖国戦争終結後に叙勲されなくなったが(当然だ)、1992年の最高会議令によりロシア連邦の勲章とは認められず、形式上はこれにより廃止された。
1995年、戦勝50周年を記念してウクライナの勲章として復活。もっとも、名称は同じだがまったくの別物である。等級は3。
勝利勲章 орден «Победа»
1943年、ウクライナ解放戦が順調に進む中、最終的な大祖国戦争(独ソ戦)勝利を想定して最高軍事勲章として制定された。等級は1。
叙勲対象は、下記受勲者一覧を見てもらえば一目瞭然。対ドイツ戦争において戦線軍司令官以上の職務で傑出した功績を挙げた軍人ということになる。
特殊な受勲者が何人かいるが、アイゼンハワーとモンゴメリは同盟国の最高司令官として受勲も不思議はない。ロラ=ジミェルスキはポーランド人民軍(事実上の «赤軍ポーランド人部隊»)の司令官、ティトーはユーゴスラヴィアのパルチザン司令官であり、このふたりも当然の受勲であろう(少なくともソ連の政治的判断からすれば妥当)。ミハイ1世は、ナチスに追随していた独裁者アントネスクを打倒した功績で受勲したものである。ソ連の戦争遂行上大きな意味を持ったのは確かであるが、数年後にはミハイ自身が共産党によって王位と国を追われることになる。
最大の問題はブレージュネフの受勲である。大祖国戦争中は政治将校で、最終的な階級は少将。戦線軍司令官以上であったその他の受勲者とは明らかに格違いである。このため、後年、ゴルバチョーフによって取り消された。
1 | 1944.04.10 | ジューコフ元帥 ゲオルギイ | 第一ウクライナ戦線軍司令官 |
2 | ヴァシレーフスキイ元帥 アレクサンドル | 参謀総長 | |
3 | スターリン元帥 イオシフ | 最高総司令官 | |
4 | 1945.03.30 | ジューコフ元帥 ゲオルギイ(2) | 第一ベロルシア戦線軍司令官 |
5 | コーネフ元帥 イヴァン | 第一ウクライナ戦線軍司令官 | |
6 | ロコソーフスキイ元帥 コンスタンティーン | 第二ベロルシア戦線軍司令官 | |
7 | 1945.04.19 | ヴァシレーフスキイ元帥 アレクサンドル(2) | 第三ベロルシア戦線軍司令官 |
8 | 1945.04.26 | マリノーフスキイ元帥 ロディオーン | 第二ウクライナ戦線軍司令官 |
9 | トルブーヒン元帥 フョードル | 第三ウクライナ戦線軍司令官 | |
10 | 1945.05.31 | ゴーヴォロフ元帥 レオニード | レニングラード戦線軍司令官 |
11 | 1945.06.04 | ティモシェンコ元帥 セミョーン | 最高総司令部議長 |
12 | アントーノフ上級大将 アレクセイ | 参謀総長 | |
13 | 1945.06.05 | アイゼンハワー ドワイト | |
14 | モンゴメリ バーナード | ||
15 | 1945.06.26 | スターリン元帥 イオシフ(2) | 最高総司令官 |
16 | 1945.07.06 | ミハイ1世 | ルーマニア王 |
17 | 1945.08.09 | ロラ=ジミェルスキ ミハウ | ポーランド元帥 |
18 | 1945.09.08 | メレツコーフ元帥 キリール | 極東戦線軍司令官 |
19 | 1945.09.09 | ティトー ヨシプ・ブロズ | ユーゴスラヴィア元帥 |
20 | 1978.02.20 | ブレージュネフ元帥 レオニード | (1989年に取り消し) |
栄光勲章 орден Славы
1943年、大祖国戦争のさなかに制定された軍事勲章。スヴォーロフ勲章とクトゥーゾフ勲章が大隊長以上、アレクサンドル・ネフスキイ勲章が小隊長以上を対象とするのに対して、栄光勲章はそれ以下の下士官を対象にすると言っていい。またこれまでのソ連の勲章と異なり、部隊や組織への叙勲は禁じられ、あくまでも個人の功績を表彰する勲章となっている。等級は3。
その叙勲条件は、祖国戦争勲章と同じように、事細かに定められていた。ただし等級による条件の違いはない。受勲者はまず第3等級を受勲し、続いてさらなる功績が認められた場合には第2等級が叙勲され、さらに功績をあげて第1等級が叙勲される。ゆえに第1等級だけ受勲するということは仕組み上あり得ない。第1等級を受勲した者は、すべてそれ以前に第2等級、第3等級を受勲していることになる。こうして第1等級まで受勲した者を «完全な騎士 полный кавалер» と呼ぶ。
これらの点からして、帝政時代のゲオルギイ十字にほぼ相当すると言っていいだろう。こんにちのロシア連邦でもゲオルギイ十字にその役割が引き継がれている。
第1等級の叙勲は 2 562、第2等級になると 46 000以上、第3等級では百万人近くにのぼる。
大祖国戦争中に制定されたほかの軍事勲章と同じく、大祖国戦争終結後は叙勲がなくなっていた。形式上は、1992年の最高会議令により、ロシア連邦の勲章とは認められなかったことにより廃止された。
ウシャコーフ勲章 орден Ушакова
1944年、大祖国戦争の末期に制定された軍事勲章。スヴォーロフとほぼ同時代に活躍した帝国海軍屈指の司令官フョードル・ウシャコーフにちなんで命名された。ロシア・ソ連は陸軍国であり、海軍は(ピョートル大帝時代を除いて)冷遇されてきたが、海軍軍人にも特別な勲章を、との要望によりナヒーモフ勲章とともに制定された。このため、ウシャコーフ勲章もナヒーモフ勲章も、海軍軍人のみを対象とする。
等級は2。受勲対象や条件など、陸軍のスヴォーロフ勲章に相当するとされるが、現実の格付けでは微妙に格下。
叙勲回数は、第1等級が 47(うち11人が2度)、第2等級が 194。当然ながら、そのほとんどが大祖国戦争中(直後)の叙勲である。最後の叙勲は1968年、海軍アカデミーに対するものである。
1992年の最高会議令によりロシア連邦の勲章として認められたが、法的な裏づけがなかった。すでに20年以上叙勲がなかったし、そもそもが戦時中の功績に対する勲章である以上、特段の不都合はなかった。
2010年、メドヴェーデフ大統領によって法的に整備される。等級は1。2012年のプーティン大統領就任時点で叙勲はまだ0。
ナヒーモフ勲章 орден Нахимова
1944年、大祖国戦争の末期に制定された軍事勲章。クリミア戦争で戦死したセヴァストーポリ攻防戦の英雄パーヴェル・ナヒーモフにちなんで命名された。同時に制定されたウシャコーフ勲章とともに、海軍軍人のみを対象とする。
等級は2。ウシャコーフ勲章がスヴォーロフ勲章に相当するとされているのに対して、ナヒーモフ勲章は陸軍のクトゥーゾフ勲章に相当するとされるが、現実には微妙に格下。
叙勲回数は、第1等級が 82、第2等級が 469。
1992年の最高会議令によりロシア連邦の勲章として認められたが、法的な裏づけがなかった。2010年、メドヴェーデフ大統領によって法的に整備される。等級は1。2012年のプーティン大統領就任時点で叙勲はまだ0。
«母親英雄» 勲章 орден «Мать-героиня»
1944年に、母性の栄光勲章と同時に制定された。勝利勲章とはまた別の意味で、ソ連の勲章制度の中では別格なものとなっている。
ソ連には «ソヴィエト連邦英雄»、«社会主義労働英雄» などの名誉称号がいくつかあるが、そのひとつとして制定されたのが «母親英雄» であり、この名誉称号に付随して授与されるのがこの勲章である。ゆえに等級は1。
10人以上の子を生み育てている母親に叙勲される。大祖国戦争によって多くの国民を失ったソ連が、人口回復政策の一環として設けたもの。このため、ただ単に10人以上の子を産めばいいというわけではなく、10人目の子が1歳の誕生日を迎えた日に、残る9人も全員が存命でなければならない。ただし時代背景を考慮し、戦死した子供は例外とし、また養子も認めている。叙勲回数は 431 000 程度。
1991年、ソ連の崩壊により廃止された(正式には翌1992年のロシア連邦最高会議令により)。
«母性の栄光» 勲章 орден «Материнская слава»
1944年に、母親英雄勲章と同時に制定された。母親英雄勲章が、母親英雄という名誉称号に付随するものであったのに対して、こちらは勲章のみ。母性の栄光という名誉称号は存在しない。等級は3。第3等級が7人、第2等級が8人、第1等級が9人の子を生み育てている母親に与えられる。受勲回数は合計で 5 534 724 (もちろん同一人が複数回受勲した例は多い)。
1991年、ソ連の崩壊により廃止された(正式には翌1992年のロシア連邦最高会議令により)。
十月革命勲章 орден Октябрьской Революции
1967年、十月革命50周年を記念して制定された。主に社会主義の発展に対する貢献を顕彰するための勲章である。レーニン勲章の次に位置し、ソ連の勲章としては序列第2位。等級は1。
ソ連の勲章は、死後は国家に返却されることになっていたが、十月革命勲章は、祖国戦争勲章と同様に、死後も遺族が保持することが認められた(ただしほかの勲章も1977年に遺族の保持が認められた)。
受勲第1号はレニングラード。第2号はモスクワ。目的が目的だけに、ティトー、ホーネッカー、フサーク、ツェデンバルなど外国の共産党指導者などにも叙勲されているが、ソ連国民の受勲者は多くはない(むしろ都市や機関の受勲が多い)。叙勲回数は 106 462。ソ連の勲章には珍しく、複数回の叙勲が少ない。2度受勲したのは11人しかいない(当然ブレージュネフもそのひとり)。
1991年、ソ連の崩壊により廃止された(正式には翌1992年のロシア連邦最高会議令により)。
諸国民友好勲章 орден Дружбы народов
1972年、ソヴィエト連邦成立50周年を記念して制定された。名称のごとく、主に国際関係における功績に対して叙勲された。等級は1。
ソ連の勲章としては珍しく、原則として同一人による複数回の受勲は認められていなかった。とはいえ、結果として7人が2度受勲している。ソ連の勲章の序列では下方に位置づけられたためか、有力政治家の受勲はほとんどない(歴代ソ連指導者の受勲は0)。叙勲回数は 72 761。
ソ連崩壊後、ロシア連邦によっても維持され、1992年の最高会議令でロシア連邦の勲章として認定された。この時点でロシア連邦の勲章とされたうち、アレクサンドル・ネフスキイ勲章、聖ゲオルギイ勲章、スヴォーロフ勲章、クトゥーゾフ勲章、ウシャコーフ勲章、ナヒーモフ勲章は軍事勲章であり、しかも具体的なことは何も決められていなかったので、事実上休止状態にあった。この諸国民友好勲章と勇敢勲章だけが文民勲章として生き残っており、このため諸国民友好勲章はこの時代(1994年まで)に 1 212 回叙勲されている。なお、相変わらず勲章の中央には鎌と槌が描かれていた。
1994年、エリツィン大統領により勲章制度が整備され、諸国民友好勲章は友好勲章 орден Дружбы に改名された(厳密には、諸国民友好勲章が廃止され、代わりに友好勲章が創設された)。等級は1。
労働栄光勲章 орден Трудовой славы
1974年に制定された文民勲章。軍事勲章である栄光勲章に相当すると考えられる。すなわち、広く一般庶民にばら撒くための最下級の勲章である。
等級は3。栄光勲章と同じように、まず第3等級を受勲し、続いてさらなる功績が認められた場合には第2等級が叙勲され、さらに功績をあげて第1等級が叙勲される。叙勲回数は、第1等級が 952、第2等級は 50 000 程度、第3等級になると 650 000 以上と思われる。
1991年、ソ連の崩壊により廃止された(正式には翌1992年のロシア連邦最高会議令により)。
ソ連軍祖国貢献勲章 Орден «За службу Родине в Вооруженных силах СССР»
1974年に制定された軍事勲章。厳密に訳すと、«ソ連軍において母国への奉仕に対する» 勲章。趣旨はその名のとおりだが、平時に制定された軍事勲章であるから、事実上、戦場における功績以外の部分を表彰する勲章となっている。
等級は3。栄光勲章・労働栄光勲章と同様に、まず第3等級を、続いて第2等級を、そして第1等級を受勲する。すなわち、3回受勲しなければ第1等級を受勲できない。叙勲回数は、第3等級が 69 576、第2等級が 589、第1等級が 13。ソ連時代のあらゆる勲章の中で、もっとも叙勲回数が少ないのがこのソ連軍祖国貢献勲章第1等級である。とはいえ、軍事勲章としては下位にあるため(より下位にあるのは栄光勲章のみ)、受勲者の階級はさほど高くはない(少なくとも受勲時点では)。
1991年、ソ連の崩壊により廃止された(正式には翌1992年のロシア連邦最高会議令により)。
1995年、ベラルーシの勲章として復活。名称は «祖国貢献勲章» となり、軍人ではなく内務関係者への勲章となったほかは、ほぼソ連時代の勲章を踏襲している。
勇敢勲章
1988年に制定された、ソ連時代最後に誕生した勲章。正確な名称は орден «За личное мужество» であり、厳密に訳すと «個人的な勇敢さに対する» 勲章。ソ連末期の混乱する時代状況を反映して、犯罪や事故における勇敢な行為を表彰するために制定された。等級は1。
受勲第1号は、バスジャックに際して乗客(小学生)を守った小学校教師。
ソ連崩壊後、ロシア連邦によっても維持され、1992年の最高会議令でロシア連邦の勲章として認定された。等級は1。諸国民友好勲章と並んで、当時叙勲可能だったただふたつの勲章のうちのひとつであり、そのため広く叙勲されている。
1994年、廃止された。
ソ連時代・ロシア時代を含めた叙勲回数は 600 以上。
1994年、エリツィン大統領により勇敢勲章 орден Мужества が制定された。等級は1。これは事実上それまでの勇敢勲章が名前を改めただけである(もっとも勲章の形状などはまるで異なる)。2008年に受勲したジェーニャ・タバコーフ(死後の受勲)は、死亡時に7歳。国家勲章の最年少受勲記録である。
なお、1996年にはウクライナの勲章として勇敢勲章 орден «За мужнiсть» が制定されている。等級は3。
ロシア連邦の勲章
序列 | 起源 | 1992 | 1994 | 1998 | 2000 | 2002 | 2008 | 2010 | 2012 | 等級 | 叙勲 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 帝政 | 聖アンドレイ勲章 | 1 | 15 | ||||||||
2 | 帝政 | (聖ゲオルギイ勲章) | 聖ゲオルギイ勲章 | 軍事 | 4 | 9 | ||||||
3 | 新設 | 祖国貢献勲章 | 4 | ? | ||||||||
4 | 帝政 | 聖エカテリーナ勲章 | 1 | 2 | ||||||||
5 | 帝政 | (アレクサンドル・ネフスキイ勲章) | アレクサンドル・ネフスキイ勲章 | 1 | 7 | |||||||
6 | ソ連 | (スヴォーロフ勲章) | スヴォーロフ勲章 | 軍事 | 1 | 0 | ||||||
7 | ソ連 | (ウシャコーフ勲章) | ウシャコーフ勲章 | 軍事(海軍) | 1 | 0 | ||||||
8 | 新設 | ジューコフ勲章 | 軍事 | 1 | 102 | |||||||
9 | ソ連 | (クトゥーゾフ勲章) | クトゥーゾフ勲章 | 軍事 | 1 | 1 | ||||||
10 | ソ連 | (ナヒーモフ勲章) | ナヒーモフ勲章 | 軍事(海軍) | 1 | 0 | ||||||
11 | ソ連 | 勇敢勲章 | 勇敢勲章 | 1 | ? | |||||||
12 | 新設 | 軍事貢献勲章 | 軍事 | 1 | ? | |||||||
13 | 新設 | 海事貢献勲章 | 1 | ? | ||||||||
14 | ソ連 | 名誉勲章 | 1 | ? | ||||||||
15 | ソ連 | 諸国民友好勲章 | 友好勲章 | 1 | ? | |||||||
16 | 新設 | «親の栄光» 勲章 | 1 | 157 |
祖国貢献勲章 орден «За заслуги перед Отчеством»
1994年、エリツィン大統領により制定された、ロシア連邦の最高勲章。ただし1998年に聖アンドレイ勲章がより上位の最高勲章として制定された。さらに2000年には聖ゲオルギイ勲章が第2位の勲章として制定され、祖国貢献勲章は第3位となった。厳密に訳すと、«祖国に対する奉仕に対する» 勲章。
等級は4。下位から上位へと、受勲するごとに等級があがっていく。4回目の受勲で第1等級を受勲することになる。2012年のプーティン大統領就任までで、第1等級の叙勲回数は 38。つまり、第4等級から第1等級まですべてを受勲した «完全な騎士» が38人いる、ということになるはずだが、実際には «完全な騎士» は以下の10名。これは、特別な場合に下位の等級をスキップすることが認められているためである。10名の完全な騎士にしてからが、第4等級の受勲が最後になっている者が6人もいる(受勲年のかっこ)。
1 | 2007(4) | ストローエフ エゴール | 元連邦ソヴィエト議長、オリョール州知事 |
2 | 2007(1) | クターフィン オレーグ | モスクワ法科大学総長 |
3 | 不明 | パトルーシェフ ニコライ | 元保安庁長官、安全保障会議書記 |
4 | 2009(1) | ロッセリ エドゥアルド | スヴェルドローフスク州知事 |
5 | 2010(4) | アルフョーロフ ジョレス | ノーベル物理学賞受賞者 |
6 | 2010(4) | チェルノムィルディン ヴィクトル | 元首相 |
7 | 2010(1) | グラズノーフ イリヤー | 画家 |
8 | 2010(4) | プリセーツカヤ マイヤ | バレリーナ |
9 | 2012(4) | ヤーコヴレフ ヴェニヤミーン | ソ連最後の法相、元最高調停裁判所長官 |
10 | 2012(4) | アントーノヴァ イリーナ | プーシュキン美術館館長(1961年から) |
ジューコフ勲章 орден Жукова
1994年、エリツィン大統領により制定された、ロシア連邦最高の軍事勲章。言うまでもなく、大祖国戦争の英雄ゲオルギイ・ジューコフにちなんで命名された。序列としては祖国貢献勲章に次ぐ第2位。ただし1998年に聖アンドレイ勲章が制定されて第3位に後退し、さらに2000年に聖ゲオルギイ勲章が最高の軍事勲章として制定され、ジューコフ勲章はそれに次ぐものとなった。等級は1。
1994年時点では最高位の軍事勲章とされたが、実際には大祖国戦争従軍者を表彰するためのもの。受勲者 100 人は全員が退役軍人で、中佐(1人)以上(ほとんどが将官)。
2010年、メドヴェーデフ大統領により勲章制度が整備された際に、ジューコフ勲章は大幅にその趣旨や叙勲対象などが改定された。それまでは事実上休眠状態にあったソ連時代の軍事勲章に法的根拠が与えられ、これに伴い、アレクサンドル・ネフスキイ勲章が文民勲章となって軍事勲章の上に位置づけられ、ジューコフ勲章はスヴォーロフ勲章、ウシャコーフ勲章に次ぐ席次を与えられた(すなわち大幅に格下げされた)。
また同時に、叙勲対象が現役軍人になっている。ただし改定後、2012年のプーティン大統領就任までに受勲したのは、2度とも特殊部隊。
軍事貢献勲章 орден «За военные заслуги»
1994年、エリツィン大統領により制定された軍事勲章。同時に制定されたジューコフ勲章は事実上退役軍人のためのものだし、ソ連時代のスヴォーロフ勲章などが休眠状態にあったため、事実上現役軍人に対する唯一の勲章となっていた。等級は1。
名称が示唆するように、事実上の永年表彰。実際、叙勲の条件に、10年以上の勤務年数が挙げられている。その意味では、純粋に軍事的功績を讃える勲章ではないが、チェチニャーの内戦を除けば戦争らしい戦争のなかったロシアにあっては、現役軍人に対する勲章としてはこれが妥当なものであったかもしれない。
2010年、メドヴェーデフ大統領により叙勲条件が20年以上に引き上げられた。
海事貢献勲章 орден «За морские заслуги»
2002年、プーティン大統領により制定された文民勲章。いかなる契機、意図で制定されたのかよくわからないが、海洋の研究・開発、海洋にかかわる経済的・文化的活動に対する勲章である。等級は1。
«親の栄光» 勲章 орден «Родительская слава»
2008年、メドヴェーデフ大統領により制定された。ソ連時代の母親英雄(称号および勲章)および母性の栄光勲章とは微妙に異なるが、本旨からすればその延長線上に位置するものと見ていい。ただし特殊な地位にあった母親英雄勲章・母性の栄光勲章と異なり、親の栄光勲章はロシア連邦の勲章制度の中にしっかり位置づけられている(最下位)。
等級は1。叙勲対象は、4人以上の子を育てている親ないし養父母。もっとも、4人では叙勲対象が多すぎたのか、2010年に7人以上と改定された(もっともその後も4人しか子のいない親にも叙勲されている)。7人という人数からすれば母性の栄光勲章の後継者に位置づけられよう。
叙勲回数は、2010年の改定以前で 103 (うち6が片親)、2012年のプーティン大統領就任時点までで 54 (うち4が片親)。
名誉称号
名誉称号 почетное звание なるものは、単純に言えば国家が個人に与える公的な肩書きのことである。日本で言う「人間国宝」などに相当すると言ってもいいかもしれない(?)。
名誉称号はソ連時代から数多くつくられ、授与されてきた。人民芸術家、スポーツ・マスター、宇宙飛行士、功労農業労働者などである。しかしその中で、特殊な地位にあったものが、「社会主義労働英雄」、「ソヴィエト連邦英雄」である。ソ連崩壊後も名誉称号の多くは生き残り(さらに新しいものがつくられ)、また「ソヴィエト連邦英雄」は「ロシア連邦英雄」となって存続している。
名誉称号は、ロシア・ソ連の褒賞制度の中では最下位に位置づけられる。しかし「社会主義労働英雄」と「ソヴィエト連邦英雄」(そしてこんにちでは「ロシア連邦英雄」)は別格で、これらはロシア・ソ連においては、その他の名誉称号とは別に最高褒賞となっている。よって、ここではこの3つについて特別に説明しておく。
社会主義労働英雄 Герой Социалистического Труда
«労働英雄 Герой Труда» なる言葉は、かなり早い時期から使われていたが、1921年には顕著な業績を上げた労働者に対する称号として公式に使用されるようになる。さらに表彰状と褒賞品も渡されるようになったが、法的に制定されたものではなかった。それでも1922年にはすでに独自の徽章が授与されている。ただしこれらは、基本的に労働組合や企業、人民委員部が授与者であり、国家表彰ではなかった。
1927年、«労働英雄» は国家の名誉称号として法的に制定された。以後、1938年までに 1 014 人に労働英雄の称号が与えられている。
1934年にはソヴィエト連邦英雄の称号が制定された。こちらは主に軍人などに対する褒賞であり、労働者に対する労働英雄との住み分けがなされた。ただし、褒賞制度の序列上は、ソヴィエト連邦英雄の方が微妙に上位に置かれたようである。
1938年、労働英雄に替えて «社会主義労働英雄» の名誉称号が制定された。称号と同時に、レーニン勲章が自動的に叙勲される。
社会主義労働英雄の称号を与えられた第1号はスターリンである。なおスターリンがソヴィエト連邦英雄の称号を受けたのは、1945年、大祖国戦争における功績に対して、であった。このことからも、社会主義労働英雄とソヴィエト連邦英雄との違いが読み取れる。
合計で 20 605 人に与えられた。うち、205 人が2度、16 人が3度。死後授与されたのが 16 人。また剥奪されたのが 95 人いる。そのひとりが、3度授与されたアンドレイ・サーハロフ。のち、ゴルバチョーフが返却を申し出たが、サーハロフはすべての政治犯が釈放されるまでは受け取れないと答え、結局返却されないままだった。また、処刑されたのが1人、ベリヤである。
氏名 | 1度 | 2度 | 3度 | ||
---|---|---|---|---|---|
1 | ヴァンニコフ ボリース | 1942 | 1949 | 1954 | 政治家(核兵器開発) |
2 | ドゥーホフ ニコライ | 1945 | 1949 | 1954 | 戦車・核兵器設計技師 |
3 | ゼリドーヴィチ ヤーコフ | 1949 | 1951 | 1954 | 物理学者(核兵器開発) |
4 | クルチャートフ イーゴリ | 1949 | 1951 | 1954 | クルチャートフ研究所所長 |
5 | ハリトーン ユーリイ | 1949 | 1951 | 1954 | 物理学者(核兵器開発) |
6 | シチョールキン キリール | 1949 | 1951 | 1954 | 物理学者(核兵器開発) |
7 | トゥルスンクロフ ハムラクル | 1948 | 1951 | 1957 | 綿花栽培コルホーズ議長 |
8 | フルシチョーフ ニキータ | 1954 | 1957 | 1961 | ソ連共産党第一書記 |
9 | スラーフスキイ エフィーム | 1949 | 1954 | 1962 | 政治家(核兵器開発) |
10 | サーハロフ アンドレイ | 1953 | 1956 | 1962 | 物理学者(核兵器開発) ※剥奪 |
11 | ケルドィシュ ムスティスラーフ | 1956 | 1961 | 1971 | 科学アカデミー総裁 |
12 | トゥーポレフ アンドレイ | 1945 | 1957 | 1972 | 飛行機設計技師 |
13 | アレクサンドロフ アナトーリイ | 1954 | 1960 | 1973 | クルチャートフ研究所所長 |
14 | イリユーシン セルゲイ | 1941 | 1957 | 1974 | 飛行機設計技師 |
15 | クナーエフ ディンムハメド | 1972 | 1976 | 1982 | カザフスターン共産党第一書記 |
16 | チェルネーンコ コンスタンティーン | 1976 | 1981 | 1984 | ソ連共産党書記長 |
ソヴィエト連邦英雄 Герой Советского Союза
1934年に制定された、ソ連の最高表彰。社会主義労働英雄と異なり、「英雄的な功績」を讃えるためのものであり、結果的に軍人が多い。独裁者スターリンですらも、1945年になってから(大祖国戦争の勝利を受けて)授与されている。なお1936年以降は、レーニン勲章が自動的に授与されることになった。
最初のソヴィエト連邦英雄は、北極における救助活動に活躍したパイロットたち7人である。ソヴィエト連邦英雄というのは名誉称号であり、称号というもののあり方からして本来1度しか与えられないものだが、すでに大祖国戦争(独ソ戦)開始以前に5人が2度ソヴィエト連邦英雄の称号を与えられていた。大祖国戦争において、ソヴィエト連邦英雄の数は幾何級数的に増加し、最終的な総数の 90% 以上が大祖国戦争中の授与である。
最終的には、ソヴィエト連邦英雄の称号が与えられたのは 12 862 人。うち、名誉を汚したとして 73 人が、根拠が薄弱だとして 13 人が剥奪されている。さらに 50 人以上が一度剥奪され、その後再び授与されている。15 人が処刑され、うち 12 人が名誉回復されている(つまり名誉回復されていないのが3人いる)。
また、154 人が2度、3人が3度、2人が4度、与えられている。また、女性は 95 人、外国籍の人間が 44 人いる。外国人のほとんどが戦闘機乗り(戦中)か宇宙飛行士(戦後)。ロシアの宇宙飛行士のスヴェトラーナ・サヴィーツカヤは、女性で唯一2度授与されている。
氏名 | 1度 | 2度 | 3度 | 4度 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
четырежды Герой Советского Союза | ||||||
1 | ジューコフ ゲオルギイ | 1939 | 1944 | 1945 | 1956 | 元帥 |
2 | ブレージュネフ レオニード | 1966 | 1976 | 1978 | 1981 | 共産党書記長 |
трижды Герой Советского Союза | ||||||
1 | ポクルィシュキン アレクサンドル | 1943 | 1943 | 1944 | - | 戦闘機乗り |
2 | コジェドゥーブ イヴァン | 1944 | 1944 | 1945 | - | 戦闘機乗り |
3 | ブデョーンヌィイ セミョーン | 1958 | 1963 | 1968 | - | 元帥 |
なお、以下の11人がソヴィエト連邦英雄にして社会主義労働英雄である。
氏名 | ソ連英雄 | 労働英雄 | ||
---|---|---|---|---|
1 | スターリン イオシフ | 1945 | 1939 | |
2 | トライニン ピョートル | 1943 | 1948 | T-34戦車長 |
3 | ゴロフチェンコ ヴァシーリイ | 1945 | 1952 | クラスノダールのソフホーズ議長 |
4 | オルローフスキイ キリール | 1943 | 1958 | ベロルシアのパルチザン |
5 | ヴォロシーロフ クリメント | 1956, 68 | 1960 | 元帥 |
6 | フルシチョーフ ニキータ | 1964 | 1954, 57, 61 | ソ連共産党第一書記 |
7 | ブレージュネフ レオニード | 1966, 76, 78, 81 | 1961 | ソ連共産党書記長 |
8 | マシェロフ ピョートル | 1944 | 1978 | ベロルシア共産党第一書記 |
9 | ウスティーノフ ドミートリイ | 1978 | 1942, 61 | 軍需工業相・国防相 |
10 | トレティヤーク イヴァン | 1945 | 1982 | 軍人 |
11 | グリゾドゥーボヴァ ヴァレンティーナ | 1938 | 1986 | 戦闘機乗り、初の女性ソヴィエト連邦英雄 |
ロシア連邦英雄 Герой Российской Федерации
1992年、ソヴィエト連邦英雄と社会主義労働英雄の称号を廃止し、代わりにロシア連邦英雄の称号が制定された。2012年のプーティン大統領就任までに、994 人にロシア連邦英雄の称号が与えられている。うち 454 人が死後の追贈である。なお、2度与えられた者は、これまでのところは存在しない。
以下の4人がソヴィエト連邦英雄にしてロシア連邦英雄である。
氏名 | ソ連英雄 | ロシア英雄 | ||
---|---|---|---|---|
1 | クリカリョーフ セルゲイ | 1989 | 1992 | 宇宙飛行士 |
2 | ポリャコーフ ヴァレーリイ | 1989 | 1995 | 宇宙飛行士 |
3 | マイダーノフ ニコライ | 1988 | 2000(死後) | 輸送ヘリ連隊長 |
4 | チリンガーロフ アルトゥール | 1986 | 2008 | 海洋学者(北極・南極) |
社会主義労働英雄にしてロシア連邦英雄というのは決して珍しくないが、2度の社会主義労働英雄にしてロシア連邦英雄(こちらは1度)というのは、自動小銃 АК の生みの親ミハイール・カラーシュニコフだけである(1958・1976 と 2009)。
英雄都市 Город-герой
個人の勲章ではないが、話のついでに。
«英雄都市» とは、都市に対する名誉称号である。
戦争中から非公式に使われていたが、公式に使われたのは1945年5月1日付け最高総司令官令が最初。この中でスターリンは、この日に祝砲を放つべき都市として、16の連邦構成共和国の首都に、«英雄都市» を加えている。英雄都市として名が挙げられているのは、レニングラード、スターリングラード、セヴァストーポリ、オデッサである。いずれも大祖国戦争の激戦地である。同じく激戦地として名高いモスクワとキエフがもれているのは、言うまでもなく、これらがそれぞれロシアとウクライナの首都としてすでに挙げられているからである。
以後、英雄都市なる言葉は、これら4都市の呼び名として慣習的に定着したものの、公的なものではなかった。なお1961年には大祖国戦争勃発20周年を記念してキエフにレーニン勲章が叙勲された際の最高会議幹部会令にて、キエフも英雄都市と呼ばれている。
1965年、最高会議幹部会令により、英雄都市の名誉称号が法的に制定された。公的には、この時英雄都市の称号を与えられたヴォルゴグラード(すでにスターリングラードではない)、キエフ、レニングラード、モスクワ、オデッサ、セヴァストーポリの6都市が最初の英雄都市である。なお、この時同時にブレスト要塞(ブレスト=リトフスク近郊)に英雄都市ではなく «英雄要塞 Крепость-герой» なる称号が与えられている(この称号が与えられたのはブレスト要塞のみ)。
1966年、クレムリンの壁沿いのアレクサンドロフスキイ公園に、共同墓地から大祖国戦争で戦死した兵士の遺骨が移され、1967年に «無名戦士の墓» が建てられた。これにあわせて、無名戦士の墓から右手に、クレムリンの壁に沿って、英雄都市すべてのオベリスクが建てられた。
その後ぽつぽつと英雄都市は増えていったが、最終的には大祖国戦争終結40周年を記念してムールマンスクとスモレンスクに与えられて打ち止めとなった。
ちなみに、無名戦士の墓の隣のオベリスクでは、2004年にヴォルゴグラードがスターリングラードに替えられた。
1 | 1965(1945) | レニングラード | 現サンクト・ペテルブルグ |
2 | オデッサ | ウクライナ | |
3 | セヴァストーポリ | ウクライナ | |
4 | スターリングラード | 現ヴォルゴグラード | |
5 | 1965(1961) | キエフ | ウクライナ |
1965 | ブレスト要塞 | ベラルーシ | |
6 | モスクワ | ||
7 | 1973 | ケルチ | ウクライナ |
8 | ノヴォロシースク | ||
9 | 1974 | ミンスク | ベラルーシ |
10 | 1976 | トゥーラ | |
11 | 1985 | ムールマンスク | |
12 | スモレンスク |
2006年、プーティン大統領により «軍事栄光都市 Город воинской славы» なる名誉称号が新たに導入された。ベールゴロドやオリョールなど、2012年のプーティン大統領就任までに39の都市に与えられているが、その中には英雄都市はひとつも含まれていない。事実上、英雄都市に次ぐ称号と言える。
歴代ロシア・ソ連の最高指導者の叙勲
フランスの国家元首は、国家元首に就任すると同時にレジオン・ドヌール勲章(騎士団)の長として、レジオン・ドヌール勲章が叙勲される(ちなみにイギリスのガーター騎士団長は歴代国王である)。しかしロシア・ソ連では、そのようなことはない。そのため、メドヴェーデフなどは自国の勲章をひとつも持っていない。
なお、以下の勲章(一部称号)には、当然最高指導者となった後にお手盛りで受勲したものもあるが、最高指導者となる前に受勲したもの(一部最高指導者を退いた後も)もある。
2012年5月8日現在。
氏名 | 名誉称号 | 最高勲章 | 文民勲章 | 軍事勲章 | 外国の勲章(西側の一部のみ) | |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | レーニン | |||||
2 | スターリン | ソヴィエト連邦英雄 社会主義労働英雄 | 勝利勲章×2 レーニン勲章×3 | 赤旗勲章×3 スヴォーロフ勲章第1等級 | ||
3 | マレンコーフ | 社会主義労働英雄 | レーニン勲章×3 | |||
4 | フルシチョーフ | ソヴィエト連邦英雄 社会主義労働英雄×3 | レーニン勲章×7 | 労働赤旗勲章 | スヴォーロフ勲章第1等級 クトゥーゾフ勲章第1等級 スヴォーロフ勲章第2等級 祖国戦争勲章第1等級 | |
5 | ブレージュネフ | ソヴィエト連邦英雄×4 社会主義労働英雄 | 勝利勲章(剥奪) レーニン勲章×8 | 十月革命勲章×2 赤旗勲章×2 | フメリニーツキイ勲章第2等級 祖国戦争勲章第1等級 赤星勲章 | |
6 | アンドローポフ | 社会主義労働英雄 | レーニン勲章×4 | 十月革命勲章 労働赤旗勲章×3 | 赤旗勲章 | |
7 | チェルネーンコ | 社会主義労働英雄×3 | レーニン勲章×4 | 労働赤旗勲章×3 | ||
8 | ゴルバチョーフ | レーニン勲章×3 聖アンドレイ勲章 | 十月革命勲章 労働赤旗勲章 名誉勲章(ソ連) 名誉勲章(ロシア) | 自由メダル(アメリカ) 芸術文化勲章(フランス) | ||
9 | エリツィン | レーニン勲章 祖国貢献勲章第1等級(当時) | 労働赤旗勲章×2 名誉勲章(ソ連) | レジオン・ドヌール大十字 イタリア功労勲章 希望勲章(南ア) | ||
10 | プーティン | 名誉勲章(ソ連) 名誉勲章(ロシア) | レジオン・ドヌール大十字 リベルタドール勲章(ベネズエラ) | |||
11 | メドヴェーデフ | ペルーの太陽勲章 リベルタドール勲章(ベネズエラ) |