ロシア語概説:体の意義

体の意義は、通常 «体的意義» と «非体的意義» とに分類される。体的意義とは、それぞれの体に特有の意義であり、そこから派生した意義を非体的意義と呼ぶ。
 なお、以下の分類は筆者の恣意である。
 体的意義と言っても、すべての動詞にあてはまるわけではない。найти(完了体) ⇔ находить(不完了体)というペアは「見つける」という意味だが、находить には不完了体の体的意義である「結果にいたる過程」の意味はない。「見つける」という結果にいたる過程は「探す」である。ゆえに通常は найти(完了体) ⇔ искать(不完了体)でペアとされる。ところが искать には、「探す」という意味の反復は表し得るが、「見つける」という意味の反復は表せない。つまり «1回の行為» vs «反復される行為» という対比で言えば、やはり найти ⇔ находить なのである。ちなみに説明しておくと、日本の露和辞典では искать は найти とは無関係の単語として記載されているが、ロシアの言語学者は найти と искать でペアと見なしている。
 прочитывать(不完了体)という動詞には、通常、不完了体の体的意義である「継続」の意味はない。
 このように、体的意義と言っても非体的意義と言っても、動詞によってあてはまるものとあてはまらないものがある。この点、日本人もロシア人も同じ人間である以上、われわれの常識の範囲である程度は判断がつく。しかし両者の常識にズレがあることも確かで、最終的には個々の動詞につき辞書で確認するべきである。

 念のため確認しておくが、ロシア語の文意は前後のコンテキストにより決まる。以下のような «切り文» では、その文意を確定させることは不可能である。ここではあくまでも当コンテンツの都合にあわせて解釈しておくが、これが唯一絶対の解釈ではない。

体的意義

1 ) 完了体は完結。不完了体は継続

 たとえば「昨日かれを見かけた時」に次のような文が続くとする。

  1. О́н покупа́л проду́кты. (不完了体)
  2. О́н купи́л проду́кты. (完了体)

 不完了体は継続を表すので、1 は「買うという行為を継続していた」、すなわち「かれは食料品を買っていた」となる。これに対して完了体は完結を表すので、2 は「買うという行為を完結してしまった」、すなわち「食料品を買った」となる。
 これをもう少し詳しく見ると、1 においては「わたしがかれを目にして、しかも見ている間中、かれは食料品を買うという行為を継続していた」ということであるが、2 においては「わたしがかれを目にして、しかも見ている間に、かれは食料品を買うという行為を完結させた」ということである。より抽象的に言うと、完了体が「買う」という行為を一定時間内に行為の(開始と)終了という «限界» を持つ、«完全な» 行為としてとらえているのに対して、不完了体は行為の開始や終了といった «限界» を無視した «不完全な» 行為としてとらえている。ロシア語で完了体を совершенный вид と言うが、この совершенный とはまさに «完全な» という意味であり、他方で不完了を表す несовершенный とは «不完全な» という意味である。
 完了体が現在時制を表現し得ないのは、このためである。

  1. О́н бу́дет гото́виться к экза́мену два́ дня́. (不完了体)
  2. О́н подгото́вится к экза́мену за два́ дня́. (完了体)

 1 は「かれは2日間試験の準備をする」という意味である。「2日間」というのは限定された期間であり、開始と終了という «限界» が想定されているはずだ。ということは、不完了体動詞ではなく完了体動詞を使うべきではないか。しかし実はここで示されているのは単に「時間」でしかない。「準備する」という行為そのものの終了は、「もう準備万端整って、いつ試験が来ても大丈夫」という状態になることであろう。不完了体はそこまでのことは眼中にないのである。ゆえに、2日間試験の準備はするものの、その結果怖いものなし状態になるのか、それともまだサッパリわからないままなのか、といったようなことは含意されていない。
 これに対して完了体は、まさにそのようなことを念頭に置いている。ゆえに 2 は、「かれは2日間で試験の準備を終える」という感じになる。ちなみに、1 と 2 では два дня と за два дня と微妙に異なる点に留意。
 このように、完了体が示す「行為の終了」とは、単に「行為が終わった」ということではなく、しばしば「行為の目的が達成された」ということである(この点後述)。

  1. Я́ смотре́ла на него́. (不完了体)
  2. Я́ посмотре́ла на него́. (完了体)

 さて、話が先に進みすぎたので、元に戻す。
 不完了体は行為の継続を意味する。ゆえに 1 は、「わたしはかれを見ていた」である。一方完了体は行為の完結を意味する。ゆえに 2 は、「わたしはかれを見た」である。この場合は「目的の達成」うんぬんは無関係で、ただ単に「見る」という行為が完結したことを言っているにすぎない。

  1. Она́ чита́ла «Войну́ и ми́р». (不完了体)
  2. Она́ прочла́ «Войну́ и ми́р». (完了体)

 ここでも 1 は「彼女は『戦争と平和』を読んでいた」であり、2 は「彼女は『戦争と平和』を読んだ」である。もっとも、прочла という動詞には、単に読むという行為が完結したという意味だけでなく、「最後まで完遂した」というニュアンスがある。すなわち、「読み通した」、「最後まで読み終えた」という感じか。それを言ったら、余談だが、1 も単に「読んでいた」という継続の意味だけではなく、ほかにも様々な意味を持ち得る。が、それは前後のコンテキストで決まってくることであり、ここでは無視する。

2 ) 完了体は «限界» 内で完結する行為。不完了体は恒常的な行為・状態・能力

 状態を表す動詞は原則として不完了体だけで、対応する完了体を持たない。

  1. О́н спи́т. 「かれは寝ている」
  2. Я́ жи́л в То́кио. 「わたしは東京に住んでいた」
  3. Та́м бу́дет стоя́ть Мавзоле́й навсегда́. 「レーニン廟はあそこに永遠に立っているだろう」

 この理由は、上で述べたとおりである。完了体とは一定時間内に行為の開始と終了という «限界» を持つ «完全な» 動作を示すが、「寝ている」や「住んでいる」に «限界» もへったくれもない。まさに、そのような «限界» を設けず行為を把握するのが不完了体である。よって状態を表す動詞は不完了体だけで、対応する完了体を持たないのである。

  1. Я́ роди́лся в Москве́ и всю́ жи́знь живу́ зде́сь. 「わたしはモスクワで生まれ、生涯ここに住んでいる」
  2. Я уже́ про́жил в дере́вне 20 ле́т. 「わたしはもうこの村に20年間住んできた」

 両者の区別は、日本語では微妙かもしれない。問題は прожить という完了体動詞だが、この動詞は「ある一定期間を жить しぬく」という意味である。例文の場合で言えば20年間ということになる。つまり、「20年間をこの村で жить しぬく」という行為の完結を表す、というのが прожить という完了体動詞の役割ということになる。その意味で、прожить という動詞は明確に限界を持っている。
 これに対して、жить という不完了体動詞は、状態を表す動詞であるから、何ら限界を設けていない。「生涯」というのは、少なくとも「生まれてからいま現在まで」という時間的限界を示唆している。しかし上でも述べたが、完了体が示す行為の限界というのは、必ずしも時間的な意味ではない。よって時間的な限界が明示・含意されている文で不完了体を使うことに何の差し支えもない。

  1. Сле́дующие три́ го́да о́н бу́дет писа́ть но́вый рома́н. (不完了体)
  2. За сле́дующие три́ го́да о́н напи́шет но́вый рома́н. (完了体)

 この писать という不完了体動詞は、別に状態を表しているわけではない。継続、すなわち「書いている」である。「これからの3年間、かれは新しい小説を書いている(だろう)」という程度の意味である。「いま」という開始と、「いまから3年後」という終了のふたつの限界が示唆されているわけだが、別にこの限界内で「書く」という行為が完結してしまうわけではない。すなわち、3年が経ってもまだ「書き上げて」いないかもしれない。つまり「書く」という行為そのものの終了はまったく念頭に置かれていない。ゆえに不完了体で表現されているのである。
 これに対して написать という完了体動詞は、まさに「書く」という行為の終了を表している。「3年後」という限界までに完結する行為を示している。ゆえに「これからの3年間で、かれは新しい小説を書き上げてしまうだろう」ということになる。この文で「これからの3年間で」がなくとも、意味は変わらない。Он напишет новый роман. はやはり「(未来のある時点までに)かれは新しい小説を書き上げてしまうだろう」という意味である。完了体そのものが、「ある時点までに」というニュアンスを含意しているからである。

  1. Мне́ нра́вились кни́ги Дюма́. (不完了体)
  2. Мне́ понра́вились кни́ги Дюма́. (完了体)

 понравиться という完了体動詞は「限界内で完結する行為」とは異なる意味合いを持つ。「それまで好きでも嫌いでもなかったのが、ある時点を境に好きになった」というその一瞬を捉えている。すなわち、「デュマの本が気に入った」である。だから написать のように「〜までに」というような意味で使うことはできない。
 同じく нравиться という不完了体動詞も、писать のように継続の意味を持つことはない。нравиться が表すのは、本質的には恒常的な状態である。«恒常的» という言葉は誤解を招くかもしれないが、行為の限界どころか、そもそも時間的な開始・終了すら意識していない、ということである。理屈から考えれば、デュマの本が気に入った時点(すなわち 2 の完了体で示された «開始»)があったはずだし、過去時制で示されているということはいまではもう気に入っていないということが示唆されているようで、ならば気に入らなくなった時点(«終了»)もあったのだろう。すなわちここで言う «恒常的» というのは、無始無終という意味ではない。単に、いつからいつまでということを意識しない、という意味である。

  1. Во́лга течёт на ю́г. 「ヴォルガは南に流れていく」
  2. Земля́ враща́ется вокру́г Со́лнца. 「地球は太陽のまわりを回っている」

 厳密に言えば、ヴォルガは地殻変動やら氷河期の終了などによって生まれたものだろうから、ヴォルガが流れ始めた時というのは存在するだろう。地球もまた50億年だか前に誕生したわけで、太陽のまわりをまわっているのもそれ以来ということになる。しかし常識的に、上記のような文を言う場合にそのようなことを意識する人はいない。その意味で恒常的なのである。
 よって、このような文で完了体を使うことはない。
 ちなみに、течь も вращаться も、対応する完了体を持たない、不完了体だけの動詞である。しかもこのような文はそもそも現在時制にするしかなく、現在時制は完了体には存在しない。そのような意味でも、このような文は完了体では表現できない。

  1. Пти́цы лета́ют, а ры́бы пла́вают. 「鳥は飛び、魚は泳ぐ」
  2. Его́ сы́н уже́ хо́дит. 「かれの息子はもう歩く」

 この訳では、1 が何を言っているのかよくわからないが、前後のコンテキスト次第では「(いま現在空を)鳥たちが飛んでいるし、(いま現在川を)魚たちが泳いでいる」という継続の意味になるし、前後のコンテキスト次第では「鳥は(ずっと・いつも)飛んでいるし、魚は(ずっと・いつも)泳いでいる」という恒常的な状態の表現となる。しかし同時に、前後のコンテキスト次第では「鳥というのは飛ぶもので、魚というのは泳ぐものである」という定義文になる。恒常的な状態を拡大すればこのような定義、«絶対的な真理» になろう。
 さらに前後のコンテキスト次第では、「鳥は飛べるし、魚は泳げる」という能力の表現にもなり得る。完了体というのはある一定の限界内で行為をとらえるものであるが、不完了体はそのような限界を設けていない。それゆえに、このように恒常的な状態、絶対的な真理、さらには一般的な能力をも表現し得るのである。
 2 もまったく同様である。これまた前後のコンテキスト次第ではあるが、「かれの息子は立ち上がっていまもう歩いている」という継続の意味になるかもしれないし、「かれの息子はもう歩ける」という能力を表現しているのかもしれない(恒常的な状態だの絶対的な真理だのを意味することはあるまい)。特にロシア語の感覚としては「歩けるから歩く」ということなのだろう。能力を表現するからと言って、このような場合に「できる」みたいな単語を補うことはない。

  1. Моя́ сестра́ говори́ла по-ру́сски. 「うちの姉はロシア語を話した」
  2. Моя́ сестра́ сказа́ла по-ру́сски. 「うちの姉はロシア語で言った」

 どちらの訳もいささか変だが(2 は露文そのものも少々特殊)、この違いを説明してみよう。
 まず 2 だが、これは完了体であるから、一定限界内での動作である。すなわち、сказать という行為がある時点で発生し、ある時点で結果を達成して終了した、ということである。сказать という行為の結果とは、口から出された何らかのセリフであろう。つまり 2 は、通常は「姉はロシア語でこれこれと言った」という意味で使われる(つまり前か後にセリフがないとおかしい)。
 1 もそのような意味を持たないこともないが、不完了体であるので、通常は「話していた」という継続か、「話せた」という能力か、であろう(不完了体のほかの意義については後述)。

  1. По̀сле оконча́ния шко́лы я́ бу́ду учи́ться в университе́те. 「シュコーラを卒業したら、ぼくは大学で勉強する」
  2. Моя́ ма́ть рабо́тала на заво́де. 「母は工場で働いていた」
  3. Я́ ка́ждый де́нь хожу́ в библиоте́ку. 「わたしは毎日図書館に行く」

 これらの文においてもまた、不完了体は何ら限界を意識しない動作を示している。なお、特に 3 などは反復される複数回の動作を表現しているが、これについては後述。

3 ) 完了体は結果の達成。不完了体は結果へいたる過程

 上述のように、完了体は開始と終了という限界を設けて動作を捉えているため、«行為の目的の達成» を含意する。何らかの行為が完結し、その結果が得られたという意味である。これに対して不完了体は限界を設けていないため、基本的に «目的の達成» や «結果への到達» を意味しない。そこへいたる «過程» を示す。

  1. В на́шем го́роде стро́или но́вую шко́лу. (不完了体)
  2. В на́шем го́роде постро́или но́вую шко́лу. (完了体)

 1 は不完了体であるから、「建設する」という動作の過程を意味する。すなわち、「当時建設中であった」という意味である。これに対して 2 は完了体であるから、「建設する」という動作の結果が達成されたこと、すなわち、すでに建設は終了し、結果としていま現在新しい学校が存在していることを意味する。よって、それぞれ以下のような日本語に訳すことができるだろう。言うまでもないが、前後のコンテキスト次第では別の意味にもなり得る。

  1. うちのまちに新しい学校が建てられていた(いま完成しているかどうかは知らない)。
  2. うちのまちに新しい学校が建てられた(もう完成し、子供たちを受け入れる準備は整っているか、もう通常営業している)。

 次の例文もこれと同じである。

  1. Я́ изуча́л ру́сский язы́к. (不完了体)
  2. Я́ изучи́л ру́сский язы́к. (完了体)

 1 は不完了体であるから、「学習する」という動作の過程を意味する。すなわち、「当時学習中であった」という意味である。これに対して 2 は完了体であるから、「学習する」という動作の結果が達成されたこと、すなわち、すでに学習は終了し、結果としてわたしはいまロシア語を自由自在に操れることを意味する。よって、それぞれ以下のような日本語に訳すことができるだろう。

  1. わたしはロシア語を学んだ/学んでいた(その結果身についたかどうかは知らない)。
  2. わたしはロシア語をマスターした。

 このため、но всё ещё я говорю по-русски очень плохо.「しかし相変わらずロシア語を話すのは下手クソだ」というような文が後に続くのは、不完了体を使った Я изучал русский язык. だけである。

 次のような例文もまた、これらとまったく同じである。

  1. Наступа́ла весна́. 「春がやって来つつあった」(たとえばまだ2月)
    Наступи́ла весна́. 「春がやって来た」(たとえばもう春3月桜の季節)
  2. Я́ реша́л дома́шнее зада́ние. 「わたしは宿題を解いていた」(結果として解けたか解けなかったかはわからない)
    Я́ реши́л дома́шнее зада́ние. 「わたしは宿題を解いた(解き終えた)」
  3. Я́дерное то́пливо бу́дет вытесня́ть у́голь и не́фть. (不完了体)
    Я́дерное то́пливо вы́теснит у́голь и не́фть. (完了体)

 3 は未来時制なので少々わかりづらいかもしれない。不完了体は未来における過程を示すので、前者は「(未来のある時点において)核燃料は石炭と石油に取って代わっていく(というプロセスが進行しているだろう)」という感じになるだろうか。これに対して完了体は、未来のいずれかの時点で結果が達成される行為を示す。よって後者は「(未来のある時点までには)核燃料が石炭と石油に取って代わってしまっているだろう」となる。日本語ではこの違いを示すためには持って回った言い回しをするしかないが、ロシア語ではニュアンスの違いは明確である。

 これは特に «結果達成動詞» と呼ばれる動詞に顕著に現れる。もっとも、どれが «結果達成動詞» なのかは明確ではない。多分にフィーリングである。

  1. Она́ до́лго вспомина́ла его́ и́мя, но̀ та́к и не вспо́мнила. 「彼女はずっとかれの名前を思い出そうとしていたが、結局思い出せなかった」
  2. * Она́ до́лго звони́ла ему́, но̀ та́к и не позвони́ла. (こんなロシア語はない)

 「思い出す」というのは «結果達成動詞» である。不完了体は過程を示すので、思い出そうと努力している状態を表す。一方で完了体は、結果の達成を示すので、思い出したという事実を表す。そのため、1 のような文がつくれるのである。
 結果達成動詞でなければ、このような文はつくれない。それで失敗したのが 2 である。「電話をする」というのは、結果達成動詞ではない。おそらくこの文は、「彼女はずっとかれに電話しようとしていたが、電話できなかった」、あるいは「彼女はずっとかれに電話をしていたが、つかまらなかった」とでも言いたいのだろう。しかし звонить という不完了体動詞には「電話をする」の過程、すなわちダイヤルをまわしているとか相手が出るのを待っているというような意味はないし、これが完了体動詞になったからと言って、電話が通じるとか相手が出るといったような意味はない。

4 ) 完了体は1回限り。不完了体は複数性

 通常は «反復» という用語が使われるが、不完了体が表すのは反復(繰り返し)だけではないので、ここでは «複数性» という言葉を使う。

  1. В тишине́ но́чи кри́кнула пти́ца. (完了体)
  2. В тишине́ но́чи крича́ла пти́ца. (不完了体)

 1 は完了体であるから、鳥は1回だけ鳴いたことを示す。しかし 2 は不完了体であるから、複数回鳴いたことになる。ただし厳密に言えばそれも前後のコンテキスト次第で、そのため 2 で複数回鳴いたことを明確にしたい場合には何らかの言葉を補う(「何度か」など)。なお 1 では、何か言葉を補う必要はない。крикнуть という動詞は «一回動詞» だからである(一回動詞は、露和辞典には通常明記されている)。
 一回動詞(すべて完了体)にしか1回という意味がないわけではないが、あらゆる完了体に1回という意味があるわけでもない。たとえば написать という完了体は完結であり、「書き上げた」や「書き終えた」を意味するのであって、「1回書いた」という意味にはならない。もっとも、直接的に「1回書いた」という意味を表さなくても、それを含意するということはある。

  1. Я́ бу́ду дава́ть тебе́ ру́чку. (不完了体)
  2. Я́ да́м тебе́ ру́чку. (完了体)

 どちらも「きみにペンを貸してあげる」という程度の意味だが、давать は «反復動詞» なので、反復を示す状況語がなくとも反復の意味を表す。すなわちこの場合の 1 は、「授業のたびに」といった意味を持つ。これに対して完了体には1回というニュアンスがあるので、このような文は「今回は」といったニュアンスをともなう。
 なお、反復動詞は一回動詞とは異なり、明確に分類されていない。
 このため、「いつも」や「しばしば」という単語は不完了体としか結合しない。

  1. О́н ча́сто се́рдится и выхо́дит из себя́. 「かれはしょっちゅう怒って我を忘れる」
  2. Ка́ждую неде́лю я бу́ду писа́ть пи́сьма домо́й. 「わたしは毎週家に手紙を書く(つもりだ)」
  3. О́н всегда́ доводи́л на́чатое де́ло до конца́. 「かれはいつも始めたことは最後までやり抜いた」

 доводил は不完了体動詞であり、ここでは複数回の行為を示しているが、同時に完結をも表している(正確には行為の完結の反復)。このように不完了体は時に完了体が示す意義を有することもあるが、それはあくまでも前後の文脈次第である。

  1. О́н у́мер. (完了体)
  2. О́н умира́л. (不完了体)
  3. Они́ у́мерли. (完了体)
  4. Они́ умира́ли. (不完了体)

 この4つの文の区別は簡単である(どんな訳にすべきかは前後のコンテキスト次第だから簡単とは言えないが)。
 1 は完了体である。完了体には結果の達成の意味があるから、単純に「かれは死んだ(もう死んでしまった)」。
 2 は不完了体である。不完了体には結果へいたる過程の意味があるから、「かれは死にかけていた」である。
 3 も完了体である。主語が複数になっただけでほかは変わらないから、「かれらは死んだ(もう死んでしまった)」。
 4 も不完了体である。これまた結果へいたる過程の意味で、「かれらは死にかけていた」となる。
 ところが 4 には、別の意味もある。すなわち、主語が複数であるから、複数性を表現している可能性もある。この点、ひとりの人が複数回「死ぬ」ということはあり得ないから、同じ不完了体と言っても 2 には複数性の意味はない。複数性の意味とはどういうことかと言うと、4 で言えば、たとえば言葉を補ってやると、「かれらは(次々に)死んでいった」とか、「かれらは(あっちでもこっちでも)死んだ」といったニュアンスである。疫病でバタバタと人が倒れていった、というような場合がこれで表現される。一昨日はかれが死んだ、昨日は彼女が死んだ、今日はあいつが死んだ、といった時間的複数性や、カナダでもひとり、中国ではふたり、ナイジェリアでは5人、といった空間的複数性を表す。
 実はこれとの対比で、3 にも「かれらは死んだ(もう死んでしまった)」以外のニュアンスがあり得る。すなわち、「かれらはいっぺんに死んだ」という一回性のニュアンスである。たとえば「いまから100年前、スペイン風邪で世界中で数千万人が死んだ」というような場合、あちこちでバタバタと、というニュアンスを表現したければ不完了体だが、たった数ヶ月という短い期間にいっぺんに、というニュアンスを表現したければ完了体となる。

 このように、複数性は完了体によって示されることもある。
 完了体が示す複数性とは、各行為間の間隔が短く、立て続けに、一気におこなわれた反復行為を一括して示す。すなわち、反復される各行為を表すのではなく、複数回の行為全体を1回と捉えるのである。

  1. Чи́тала «Войну́ и ми́р» не́сколько ра́з. (不完了体)
  2. Прочла́ «Войну́ и ми́р» не́сколько ра́з. (完了体)

 どちらも「『戦争と平和』を何度か読んだ」という意味だが、1 は、場合によっては数日以上にも及ぶ間隔をあけて繰り返された行為を示すが、2 の場合、間隔はほとんど無視し得るものである。たとえば前者が「女学校時代からババァになった今日まで、『戦争と平和』は何回も読んだ」だとすれば、後者は「この夏の間に『戦争と平和』を何度か読んだ」という感じだろうか。
 しかも、完了体は「数回読んだ」という行為がすでに完結していることを示す。すなわち、「この夏に『戦争と平和』を何回か読む」という全体がすでに完結してしまった、というニュアンスである。

非体的意義

1 ) 複数の完了体は相次いで起こるシークエンス。複数の不完了体は同時進行

 完了体は完結を示すから、複数の完了体は、先の完了体が完結した後で次の完了体が完結する、というシークエンスを示す。

  1. О́н верну́лся, ме́дленно разде́лся и лёг спа́ть. 「かれは戻ってくると、のろのろ服を脱いで、ベッドに横になった」

 この場合、まず「戻ってくる」という行為が完結し、その後で「脱ぐ」という行為が完結し、さらに続いて「横になる」という行為が完結している。
 これに対して不完了体は継続を示すから、個々の行為は完結しない。そのため、複数の不完了体は同時進行の行為を示すことになる。

  1. Она́ сиде́ла и чита́ла кни́гу. 「彼女はすわって本を読んでいた」

 この場合、「すわっている」という行為と「読んでいる」という行為とはどちらも継続中であり、同時進行の行為である。

  1. Когда́ о́н обе́дал, о́н смотре́л на часы́. (不完了体+不完了体)
  2. Когда́ о́н пообе́дал, о́н посмотре́л на часы́. (完了体+完了体)

 1 はどちらも不完了体であるから、「食事をする」と「見る」は同時進行である。ゆえに、「かれは食事中に時計を見ていた」となる。
 これに対して 2 はどちらも完了体であるから、次々に起きた行為である。ゆえに、「かれは食事を終えてから時計を見た」となる。なお、ここで注意だが、пообедать という完了体動詞には「食事を終える」という意味はない。完了体そのものが完結の意味を持っているから、この場合にはそう解釈できる、ということである。

  1. Когда́ о́н включи́л телеви́зор, фи́льм уже́ ко́нчился. (完了体+完了体)
  2. Когда́ о́н включи́л телеви́зор, фи́льм уже́ конча́лся. (完了体+不完了体)

 どちらも従属文では включить という完了体動詞を使っている。よって「TVをつけた時」とでもなろう。完了体であるから、つけてしまったのである(だからもうTVは映っている)。
 1 において、主文の動詞は完了体である。よって次々に起こる行為であるが、この場合は уже という余計な副詞が入っているため、前後関係が逆転する。すなわち、「つけた」後に「終わった」のではなく、「終わった」後に「つけた」ということになる。和訳としては、「かれがTVをつけた時、映画はもう終わっていた」となるだろう(別の番組が始まっていた)。
 2 では不完了体が使われている。すなわち、まだ終わってはいない。「終わる」という行為の結果達成にいたる過程にあった、ということを意味している。よって和訳としては、「かれがTVをつけた時、映画はもう終わりかけていた」とでもなろうか(スタッフロールが流れていたか、クライマックスだったか)。

  1. Когда́ я́ слу́шал, она́ расска́зывал анекдо́т. (不完了体+不完了体)
  2. Когда́ я́ слу́шал, она́ рассказа́л анекдо́т. (不完了体+完了体)

 ついでに従属文で不完了体が使われている例も見ておこう。この従属文は「わたしが聞いていると」という程度の意味である。
 1 では主文の動詞は不完了体だから、同時進行を示している。「わたしが聞いていると、彼女は小話を話していた」という感じになるだろうか。
 2 では完了体が使われている。すなわち、この文が言いたいのは、「わたしが聞いている間に、彼女は小話を(話し出して)話し終えた」ということである。

 ただし複数の不完了体には次のような使い方もある。

  1. У́тром я́ ходи́л к това́рищу, относи́л ему́ кни́ги, с 11 до трёх занима́лся в библиоте́ке, пото́м заходи́л на факульте́т, узнава́л расписа́ние, ходи́л в столо́вую, обе́дал вме́сте с Бори́сом, а по̀сле обе́да мы́ ходи́ли с ни́м в кино́. 「朝は友人のところに行ってきて、本を渡した。11時から3時までは図書館で勉強し、それから学部に寄って時間割を確認し、食堂に行ってボリースと食事をした。食事の後は一緒に映画に行った」

 このように、過去の事実、特に複数の事実の進行を淡々と説明・叙述する場合には、不完了体過去が適している。このような場合、これらの不完了体は同時進行を意味しているわけではない。それらの行為があったという事実そのものを述べているだけである(この使い方は後述)。先の行為が完結してから次の行為が完結しているからといって完了体にすると、文法的には誤りではないが、ロシア語としては少々不自然である。特に上掲の例文は、そのまま機械的に不完了体を完了体に置き換えると、文章的にもそうだが、個々の動詞の意味的、使い方的にもおかしなことになる。

  1. * У́тром я́ сходи́л к това́рищу, отнёс ему́ кни́ги, с 11 до трёх занялся́ в библиоте́ке, пото́м зашёл на факульте́т, узна́л расписа́ние, сходи́л в столо́вую, пообе́дал с Бори́сом, а по̀сле обе́да мы́ сходи́ли с ни́м в кино́.

 他方、複数の完了体も、常に個々に完結する動作のシークエンスを示すわけではない。

  1. Во́т та́к и быва́ет: в нача́ле ма́я поду́ет се́верный ве́тер, принесёт холо́дный аркти́ческий во́здух, верну́тся заморо́зки на по́чве, и тогда́ говоря́т: «Ма́й холо́дный ─ го́д хлеборо́дный». 「こんなことがある。5月の頭に北風がしばらく吹いて、冷たい北極の空気を運んできて、朝晩は冷えが地面に戻ってくる。こういう時に言うのだ『5月が寒ければ、その年は豊作だ』と」

 厳密な理屈はともかく、この例文における3つの完了体動詞はシークエンスを示しているわけではない。むしろ意識的には同時を表していると言っていい。この完了体が示しているのは、3つの完了体動詞と тогда говорят とのシークエンスである。すなわち、「吹く」、「運ぶ」、「戻る」の3つが完結してはじめて、「5月が寒ければ、その年は豊作だ」というセリフが発せられるのである、と。

2 ) 完了体は結果の持続。不完了体は結果の無効化

 完了体は目的・結果の達成を示す。それは当然、«達成された結果がその後も持続している» ことを含意する。これに対して、結果の達成など示さない不完了体は、結果のその後にも無関心である。しかし完了体が結果の持続を含意しているので、対比して不完了体はしばしば «結果の無効化» を意味する。この違いは特に次のような文において明確に現れる。

  1. О́н откры́л две́рь. (完了体)
  2. О́н открыва́л две́рь. (不完了体)

 1 の完了体では、「かれはドアを開けた。だからいまでも開いている」という意味になる。これに対して 2 の不完了体では、「かれはドアを開けた。しかしその後かれか誰かが閉めてしまったので、いまは閉まっている」という意味になる。以下、この手の例文を挙げてみる。

  1. О́н потеря́л клю́ч. 「かれはキーを失くした(だからいま持っていない)」
    О́н теря́л клю́ч. 「かれはキーを失くした(が見つけた)」
  2. О́н включи́л телеви́зор. 「かれはTVをつけた(だからいまついている)」
    О́н включа́л телеви́зор. 「かれはTVをつけた(がいまは消えている)」
  3. О́н пришёл ко мне́. 「かれはうちに来た(だからいまうちにいる)」
    О́н приходи́л ко мне́. 「かれはうちに来た(がもう帰った)」
  4. О́н вста́л. 「かれは起きた(だからいま起きている)」
    О́н встава́л. 「かれは起きた(がまた寝た)」

 不完了体をこのような意味で使い得る動詞を «可逆動詞» と呼ぶことがある。これは、ある結果をもたらす動詞と、その結果を無効にしてしまう動詞とが対になっている、そういう動詞である。もっとも、これも «結果達成動詞» と同じく多分にフィーリングによるもので、厳密な定義や分類があるわけではない。
 完了体はしばしば、可逆動詞でなくとも、上述のように結果の持続、すなわち「これこれをした。だからいまでもそうなっている」というニュアンスを含む。しかし不完了体の場合、可逆動詞以外が結果の無効化というニュアンスを持つことは基本的にない。

  1. Она́ оста́лась одно́й. 「彼女はひとりになった(だからいまでもひとりだ)」
    Она́ остава́лась одно́й. 「彼女はひとりのままだった(いまはどうか知らない)」
  2. Она́ мне́ о́чень понра́вилась. 「彼女はとても私の気に入った(だからいまでも気に入っている)」
    Она́ мне́ о́чень нра́вилась. 「彼女はとても私の気に入っていた(いまはどうか知らない)」

 このように、可逆動詞ではない不完了体は、「〜した(しかしいまはそうではない)」という意味は持たない。そもそも上記2例の不完了体は、完結/結果の達成の意味ではなく、持続の意味である。しかしだからこそ逆に、可逆動詞とは異なり、現在形でいまを表現することが可能である。

  1. Она́ остаётся одно́й. 「彼女は(相変わらず)ひとりだ」
  2. Она́ мне́ о́чень нра́вится. 「彼女はとても私の気に入っている」

 このような不完了体現在は、前後のコンテキスト(および動詞の語義)次第ではあるが、しばしば完了体過去とイコールになる。Она осталась одной. = Она остаётся одной. 繰り返しになるが、不完了体は「彼女はいま独り身だ(あるいは一人ぼっち)」という意味だが、完了体の文もコンテキスト次第ではまったく同じ意味で使われる。
 可逆動詞で不完了体を現在形にしてもこういう意味にはならない。と言うか、可逆動詞の不完了体を現在形にしても「いま〜している」という意味にはならない(ものが多い)。Он встаёт. は、状況語を伴わないとまったく意味をなさない。「いつも」とか「朝早く」といった言葉があって初めて文となるが、当然それは Он встал. とイコールではない。

 可逆動詞ではない不完了体動詞も、結果の無効化(に近い意味)を表すことがある。

  1. Ему́ предлага́ли оста́ться рабо́тать в институ́те. 「かれは大学に残って研究するよう言われた(が、結局残らなかった)」

 なお、この場合は厳密には「提案する」という行為が無効化されたわけではない。「提案する」を無効化するような、対になる動詞など存在しない。この場合、提案自体は存在したが、かれがその提案を受け入れなかっただけである。

3 ) 不完了体は行為の命名

  1. Во вре́мя кани́кул я́ прочита́л мно́го кни́г. (完了体)
  2. Во вре́мя кани́кул я́ чита́л мно́го кни́г. (不完了体)

 複数性を持つ行為は不完了体で示されるが、1 の場合は、「たくさんの本を読む」という行為を一括して捉え、その結果が達成されたことを示しているために完了体が使われている。
 では 2 はどのような意味になるかと言うと、もちろん本来の複数性を表すこともあるが、単純に「読む」という行為があったという事実そのものを示しているにすぎない場合もある。このような用法を、ロシア語文法では «行為の命名» と呼んでいる。

  1. ─ Ты́ чита́л э́тот рома́н? 「この小説読んだ?」
  2. ─ Са́ша сдава́л экза́мен по фи́зике? 「サーシャは物理の試験は受けたのか?」
    ─ Да́, сдава́л и сда́л на «пя́ть». 「ああ、受けて《優》を取ったよ」
  3. ─ Ты́ бу́дешь сдава́ть экза́мен? 「お前試験受けるの?」
    ─ Да́, бу́ду. 「ああ、受けるよ」

 このように、疑問詞のない疑問文に特に明確に現れるが、不完了体は「そもそも行為があったか否か」を確認する意味を持つ。それは平叙文でも同じことで、このように行為の有無、あるいはその確認を意味するのは不完了体である。これがたとえば完了体動詞を使って Ты́ прочита́л э́тот рома́н? になると、完結という余計なニュアンスが加わる。すなわち、「読んだか否か」という事実の確認ではなく、「読み終えたか否か」、「読み通したか否か」の確認になるのである。
 行為の有無を表現するので、前後のコンテキストによって不完了体は経験を表すこともできる。

  1. Я́ уже́ смотре́л э́тот фи́льм. 「おれこの映画もう観た(ことがある)」

 ここでも смотрел は「観る」という行為があった、という事実確認の意味で不完了体で使われている。もしこれが посмотрел という完了体であったら、「観たことがある」という意味にはならない。「観終えた(観てしまった)」という完結を意味する。

4 ) 不完了体は行為を取り巻く状況に対する関心

 結局、完了体には、単純化すれば «一回の行為の完結(結果の達成)» という意味しかないので、不完了体がそれ以外のあらゆるニュアンスを背負い込むことになる。

  1. Кто́ купи́л э́ти биле́ты? (完了体)
  2. Кто́ покупа́л э́ти биле́ты? (不完了体)

 たとえば、完了体の「誰がチケット買ったの?」に続くのが「おれの分ちょうだい」だとしたら、不完了体の「誰がチケット買ったの?」に続くのは「おれ金出してないんだよね」である。
 完了体は結果の達成(とその結果の持続)を意味しているから、「買った人間がいま持っているはずだから、そいつからチケットをもらわなくちゃ」と続く。あえて言えば、「買った」よりも「誰」を重視するニュアンスである。疑問詞のある疑問文である以上、当然であろう。
 これに対して不完了体は、「買ったのが誰であれ、おれは金出してないから、代金を払わなくちゃ」というコンテキストで使われる。あえて言えば「誰」には二次的な意味しかない疑問文である。

 疑問詞を使った疑問文では、本来疑問詞がもっとも重要な位置にあるはずである。そういう文で、余計なところにニュアンスを持たせるのが不完了体である。以下のような平叙文でも同様である。

  1. Я́ прочита́л э́ту кни́гу. (完了体)
    Я́ чита́л э́ту кни́гу. (不完了体)
  2. Я́ посмотре́л э́тот фи́льм в Москве́. (完了体)
    Я́ смотре́л э́тот фи́льм в Москве́. (不完了体)
  3. О́н написа́л письмо́. (完了体)
    О́н писа́л письмо́. (不完了体)

 ロシア語では «定性» は通常前後のコンテキストで表現される。ゆえに「この этот」という代名詞は、少なくとも日本語や英語ほど多用されない。それが入っているというだけで、1 の文は一種の強調と言える。完了体を使った文は、まず間違いなく「わたしはこの本を読み終えてしまった」という程度の意味である。これに対して不完了体を使った文は、「この」が入っているがゆえにこれを強調した文と考えるのが一般的だろう。すなわち「わたしが読んだのはまさにこの本だ」である(もちろん前後のコンテキスト次第で別の意味にもなり得るが、それは無視)。
 2 の例文にも「この」が入っているが、加えて「モスクワで」という余計な情報まである。完了体を使った文は「わたしはこの映画をモスクワで観た」でいいだろうが、不完了体を使った文は「わたしがこの映画を観たのはモスクワでだ(サンクトやキエフではない)」、「わたしがモスクワで観たのはこの映画だ(あの映画やその映画ではない)」といった場合に用いられる(もっともその場合語順も問題になるが、それも無視)。
 3 の文には、それら余計な情報がないので、意味の確定は困難である。それでも完了体の文は「かれは手紙を書いてしまった」という意味だろう。このように完了体は、基本的に「〜してしまった」という完結の意味は加わるものの、ある意味ニュートラルな意味合いの文になる。これに対して不完了体の文はさまざまな余計なニュアンスを表現し得る。すなわち、「かれは手紙をもらったのではなく書いたんだ」と言いたいのかもしれないし、「かれが書いたのは日記ではなく手紙だ」と言いたいのかもしれないし、あるいは「この手紙を書いたのはおれではなくかれだ」と言いたいのかもしれない(もちろん前後のコンテキスト次第でほかの意味にもなり得るが、それまた無視)。

 ただしこのような特殊なニュアンスを、完了体が表現できないかと言えば、そんなことはない。とはいえ不完了体の方が適している、とは言える。

5 ) レトリック

 不完了体現在は、過去を表す場合、あるいは不確定な未来を空想する場合に用いられることがある。どちらも、現在形を使うことで、あたかもいま現在起こっているかのように表現しているものであり、話に臨場感を与えるものである。
 完了体過去が現在を表す場合がある。現在時制ばかりが続く文章の中に突然完了体過去が出現すると、単調さが破られ、文章に陰影が生まれる。
 いずれもレトリックとしての用法であり、時制や、ましてや体の意義とは基本的に無関係である。

 例文はどうしても長文になるので、ここでは省略。

6 ) 不完了体は未来

 すなわち、不完了体過去は «過去から見た未来»、不完了体現在は «現在から見た未来» を表す場合がある。

  1. Я́ занима́лся всё воскресе́нье, так как в понеде́льник сдава́л экза́мен. 「わたしは、日曜日はずっと勉強していた。月曜日に試験があったからだ」
  2. О́н вы́ехал в Ка́нны, где́ чѐрез три́ дня́ открыва́лся изве́стный кинофестива́ль. 「かれはカンヌに出かけたが、そこでは3日後に有名な映画祭が始まることになっていた」

 日曜日から見たら月曜日は未来である。かれが出かけた日から見ればその3日後はもちろん未来である。このような «過去から見た未来» を «過去未来» と呼ぶが、ロシア語には過去未来を表す特別な言い方が存在しない。仕方がないので不完了体過去でそれを表す。

 «現在から見た未来» は普通の未来時制であり、当然通常は未来形を使う。しかし、場合によっては不完了体現在が未来を表す場合がある。

  1. Чѐрез ме́сяц я́ возвраща́юсь в Москву́. 「1ヶ月後にわたしはモスクワに戻ります」
  2. Что́ ты́ де́лаешь в че́тверг? 「金曜日は何してる?」

 上掲の例文から、「1ヶ月後」と「金曜日」を除いてみよう。

  1. Я́ возвраща́юсь в Москву́. 「わたしはモスクワに戻っている途中です」
  2. Что́ ты́ де́лаешь? 「お前何してるの?」

 どちらも過程、いわば現在進行になってしまう(もちろんほかの意味にもなり得る)。このように、不完了体現在を単独で使ったのでは、未来の意味なのかほかの意味なのか区別がつけられない。このため、不完了体現在で未来を表したい場合には、未来であることを明確に示す状況語が必要となる。

 ただし、過去から見た未来であれ現在から見た未来であれ、不完了体過去や不完了体現在が未来を表す場合、その未来とは «近未来» である(不完了体未来は «遠未来» も表す)。もちろん «近» というのは相対的な概念であって、何時間後、何日後までが «近» で何時間後、何日後から «遠» なのかの明確な区別はない。とはいえ、「1年後」とか、ましてや「10年後」はどう考えても近未来とは呼べまい。よって「10年後にモスクワに戻ります」などという文で不完了体現在を使うと、文法的にもともかく感覚的におかしい。そういう場合は不完了体であれ完了体であれ、未来形を使う。

7 ) 未来形

 不完了体にせよ完了体にせよ、未来形には少々特殊なニュアンスがある。
 そもそも未来時制とは、まだ起こっていないことを叙述するものである。すなわち、過去や現在と異なり «事実そのものの描写» はあり得ない。必然的に、話者の予測や希望などが入り込むものである。話者の予測や希望を特に明確に表すのが、一人称である。

  1. По́сле оконча́ния университе́та я́ бу́ду рабо́тать. 「大学を卒業したら、働くつもりだ」
  2. Не огорча́йся, я́ бу́ду ча́сто тебе́ писа́ть. 「がっかりするなよ、手紙書くからさ」
  3. За́втра я́ обяза́тельно встре́чу её и переда́м е́й э́ти кни́ги. 「明日は必ず彼女に会って本を渡します」
  4. Я́ за тебя́ умру́. 「ぼくは君のために死ぬ」
  5. И е́сли в похо́д 「もし遠征へと」
    Страна́ позовёт, 「国が呼ぶなら」(※この完了体は単なる完結)
    За кра́й на́ш родно́й 「我らが母なる大地の外へ」
    Мы́ все́ пойдём в свяще́нный бо́й. 「我らみな神聖なる戦いに赴く」

 これらはいずれも、話者の意図とは無関係に未来において起こるであろう出来事を述べている(単純未来)というわけではない。まったく逆に、話者の意図が明確に込められている(意志未来)。
 ここで不完了体と完了体の使い分けについて見てみると、もちろん体的意義による使い分けという要素もある。しかし図式的に言えば、不完了体が単なる «意図»、«希望»、«予定» を示すのに対して、完了体は «絶対的な決意» を示す、と言ってもいいだろう。あるいは少々違うかもしれないが(英語はよくわからないので)、次のように対比させることもできるかもしれない。

 完了体未来は «話者の確信» という特殊なニュアンスを表すことがある。

  1. То́лько о́н отве́тит на э́тот вопро́с. 「かれだけがこの問題に答えることができる」
  2. За три́ часа́ вы́ пригото́витесь к за́втрашнему семина́ру. 「あなたは3時間で明日のゼミの準備ができますよ」
  3. Войдя́ в ле́с, ты́ поймёшь жи́знь все́й весны́. 「森に入れば、春の命が理解できるだろう」

 これらはいずれも、行為をおこなうかどうかは別問題として、やればできる、という話者 я の確信を表している(ただし文中に я は出てこない)。多くの場合、条件・状況を示す言葉が添えられる(「だけ」、「3時間で」、「森に入れば」)。

8 ) 命令形

 完了体の命令は、言うまでもなく、完結や1回というニュアンスを持つ。不完了体の場合は、もちろん、継続や反復といった意味で用いられる。しかしそれとはまったく無関係に、命令形独特のニュアンスをそれぞれが持っている。
 たとえば友人に「明日うちにあそびに来いよ」と言う場合は、必ず不完了体を使う。

  1. Приходи́ за́втра ко мне́ в го́сти.

 たとえば玄関先でその友人を迎えたとする。その際、ドアを開けて「ほら、中に入れよ」と言う場合にも、必ず不完了体を使う。

  1. Ну, проходи́!

 これは体的意義とは無縁の、命令法独特のニュアンスで決定される。
 不完了体は、命令形では «勧誘» のニュアンスを持つ。言わば、相手がしたがっていること、しなければならないことを「さあ、やりなさい」と促すのが不完了体である。
 これに対して完了体は «指示» や «要求» といったニュアンスを持つ。こちらは相手の意図やら必要性とは無関係で、ひたすらこちら、話者の希望を述べている。

  1. ─ Мо́жно откры́ть окно́? 「窓を開けてもいいですか?」
    Открыва́йте! 「開けてください」
  2. Откро́йте, пожа́луйста, окно́. 「すいませんが窓を開けてください」

 これらの例文が如実に示していると思うが、1 では相手が開けていいか聞いてきた(すなわち相手が開けたがっている)のに対して、「どうぞ開けてください」と返事をしているわけである。2 では相手の意向にはおかまいなしに、こちらの希望を述べているだけである。

  1. Вы́ хоте́ли меня́ о чём-то спроси́ть? Спра́шивайте. 「わたしに何か聞きたいことがあったんでしょ? どうぞ聞いてください」
  2. Встава́й, уже́ по́здно. 「起きなさい、もう遅いわよ」
  3. Что́ же вы́ замолча́ли? Расска́зывайте! 「なぜ黙り込むんですか? 続きを聞かせてください」

 この 1 においても、相手は聞きたがっている。ゆえに「聞きなさい」という命令形は不完了体で示されているのである。
 2 では、明らかに相手は起きたがっていない。しかし起きなければならない。よってここでも「起きなさい」は不完了体で示されている。
 3 は少々特殊だが、このように相手が一旦中断したものを再開しろと勧める場合にも、やはり不完了体が用いられる。これまた促しだからである。

 他方で完了体の命令形は相手の意向や必要性とは無関係だから、そんなものを忖度せずにこちらの都合や判断を一方的に押し付ける場合に用いられる。

  1. Вста́нь за́втра на полчаса́ ра́ньше, чѐм обы́чно. 「明日はいつもより30分早く起きなさい」
  2. Оде́нься потепле́е, сего́дня на у́лице хо́лодно. 「もう少し暖かくしなさい。今日は外は寒いわよ」

 2 の場合はさらに特殊で、«忠告» のニュアンスがある。相手の意向に無頓着という点ではほかの完了体命令形と同じだが。

9 ) 疑問文

 既述の内容と重複するが、確認と整理。

 原則として、疑問文における完了体は完結、特に結果の達成を問題としている(そういう場合に用いられる)。
 他方で不完了体は、疑問詞がない場合は行為そのものの有無の確認。しかし疑問詞がある場合には、状況の方に関心があることを示す。

  1. Ты́ позвони́л Ка́те? (完了体)
  2. Ты́ звони́л Ка́те? (不完了体)

 上は疑問詞のない疑問文だが、完了体は結果・目的の達成を確認する。すなわち、「カーテャに電話するという目的は達成されたか?」というニュアンスである。ということは、たとえば相手がすでにカーテャに電話をするという意図を表明しており、その意図を達成したか否かを確認するような場合に完了体が使われるというわけである。
 これに対して不完了体は、単なる事実の確認である。
 次のようなコンテキストを考えてみよう。

  1. 「お前カーテャに電話した?」
    「え、何でおれがカーテャに電話しなくちゃならないの?」
    「あれ、カーテャに電話するとか言ってたのお前じゃなかったっけ?」
  2. 「お前カーテャに電話した?」
    「え、何でおれがカーテャに電話しなくちゃならないの?」
    「いや、今日あいつの誕生日らしいんだけど」

 「お前カーテャに電話した?」という疑問文はどちらも共通だし、それに対する相手の反応も同じだが、3つ目のセリフで明らかなように、1 では、質問者は相手が電話をするものと思っていた。しかし 2 ではそんな想定はしていない。ゆえに最初の疑問文で、1 では完了体が、2 では不完了体が使われる。

  1. Кто́ пе́рвым дошёл до Севе́рного по́люса? (完了体)
  2. Кто́ после́дним уходи́л из аудито́рии? Вы́ не забы́ли вы́ключить све́т? (不完了体)

 こちらは疑問詞のある疑問文である。この場合、完了体の体的意義は結果・目的の達成であるから、「到達するという目的を達成したか?」というニュアンスである。この場合は単純に、「北極点に最初に到達したのは誰か?」という程度である。
 一方で不完了体は、状況に関心が向いている。極論を言えば、「誰が最後に教室を出たか」はどうでもいいことで、それが誰であれ、「電気を消し忘れてないか」を問題としていることが続く文から明らかである。
 このように疑問詞のある疑問文においては、完了体がある意味ノーマルな疑問文をつくるのに対して、不完了体は聞きたいこと、言いたいことが別にあるような状況に用いられる。

10 ) 否定

 整理しておく。言うまでもないことながら、これは体的意義や非体的意義などとは別に、否定文にのみ見られる特殊なニュアンスを述べたもの。体的意義や非体的意義がなくなるわけではないので、前後のコンテキスト次第では当然意味や使い方も違ってくる。

完了体過去

 遂行されるはずの行為、遂行されると期待されていた行為が未遂ないし未完であること、あるいは想定されていた成果が挙がっていないことを示す。

  1. Э́того стихотворе́ния я́ та́к и не прочита́л, хотя́ давно́ хоте́л э́то сде́лать. 「この詩は、前から読みたいと思っていたが、いまだに読んでいない」(未遂)
  2. О́н не убра́л в ко́мнате ка́к сле́дует. 「かれは部屋をきちんとは片付けなかった」(片付けるには片付けたが、しかるべき成果が挙がっていない)

不完了体過去

 行為そのものが存在しなかったことを示す。

  1. Э́того стихотворе́ния я́ не чита́л. 「この詩は読んでいない」(読んだことがない)

完了体未来

 体的意義として行為の未遂ないし未完、あるいは過去と同じく、完結しても想定される成果が挙がらないことを意味する。ただし未来形では、上述のように話者の確信という特殊なニュアンスが加わる。このため、ある行為を決してすまいという決意を表すこともある。

  1. Учени́к не напи́шет хоро́шего сочине́ния: пло́хо подгото́вился. 「この生徒にいい作文が書けるはずないさ(成果+話者の確信)。ろくに準備していないんだから」
  2. Я́ не ста́ну пла́кать от бо́ли. 「ぼく、痛いからって泣かないよ」(決意)

不完了体未来

 こちらも上述のように、話者の意図や希望が表現されるが、否定であるから「したくない」になる。あるいは、不要・禁止といった話者の判断が加わることもある。

  1. Я́ не бу́ду бо́льше заходи́ть к нему́. 「これ以上かれのところに行きたくない/行くのはよそう」

完了体命令

 望ましくない行為が不注意などによって起こるかもしれないという危惧、およびそれに基づく警告。

  1. Не простуди́тесь, весе́нняя пого́да така́я обма́нчивая. 「風邪ひかないで。春の天気はほんと当てにならないんだから」

不完了体命令

 上述のように不完了体命令は相手の意向を気にしている。このため否定では、相手の意向に逆らう命令というニュアンスが出る。つまり、禁止・不要。

  1. Не объясня́йте, я́ хорошо́ зна́ю э́тот райо́н и легко́ найду́ ва́ш до́м. 「ご説明は結構ですよ。この辺はよく知っているので、お宅はすぐにわかります」

完了体不定形文

 行為遂行の能力がないことを示す。

  1. Ему́ не прочита́ть э́той кни́ги: она́ сли́шком трудна́ для него́. 「かれにはこの本が読めない。かれには難しすぎるから」

不完了体不定形文

 行為遂行の状況にないことを示す。

  1. Ему́ не чита́ть э́той кни́ги: о́н её не смо́жет доста́ть. 「かれにはこの本が読めない。と言うのも入手することができないだろうから」

11 ) 完了体の否定は期待された結果の未了。不完了体の否定は行為の全面的な否定

 上で述べたことを、少し詳しく説明しておこう。

という質問と、これに対する「いいや」という答えは、4通りある。

  1. ─ Ты́ взял мой словарь?  ※イントネーションの山場は主語の Ты
    ─ Не́т, я́ не бра́л. (不完了体)
  2. ─ Ты́ взял мой словарь?  ※イントネーションの山場は主語の Ты
    ─ Не́т, я́ не взя́л. (完了体)
  3. ─ Ты взя́л мой словарь?  ※イントネーションの山場は述語の взял
    ─ Не́т, я́ не взя́л. (完了体)
  4. ─ Ты взя́л мой словарь?  ※イントネーションの山場は述語の взял
    ─ Не́т, я́ не бра́л. (不完了体)

 両者の相違をわかりやすく意訳すると、以下のとおり。

  1. 「お前か、おれの辞書持ってったのは」
    「おれ関係ないよ」
  2. 「お前か、おれの辞書持ってったのは」
    「いや、持ってっちゃいないけど」
  3. 「おれの辞書持ってきてくれた?」
    「ごめん、持ってこようと思ってたんだけど」
  4. 「おれの辞書持ってきてくれた?」
    「あ、すっかり忘れてた」

 ただし注意しておくが、Ты взял мой словарь? だけで上述のようなニュアンスは出ない。上述のようなニュアンスを出すためには、それなりのコンテキストに置くか、状況語なり従属文なりを補う必要がある。しかし返事には、上述のようなニュアンスがある(少なくともあり得る)。ゆえに返事に応じて質問に余計なニュアンスを持たせた(だから «意訳» と言った)。
 1 と 2 の質問は同じである。Ты が強調されているから、「お前か、それともほかの誰かか」を問題としている疑問文である。この質問に、1 では不完了体を使って答えている。不完了体過去の否定には «行為そのものが存在しなかった» という意味がある。この場合、「持ってくる/持っていくなどという行為を自分はしていない、そんな行為とは自分は無関係である」というニュアンスである。
 他方で 2 の答えでは、完了体を使っている。完了体過去の否定は «未遂・未完» という意味である。ゆえに、「持っていってはいないが、持っていこうとはした」、あるいは「何らかのかかわりはある」と白状しているわけである。
 3 と 4 も質問は同じで、こちらでは взял が強調されているから、普通のニュートラルな疑問文である。これに対して 3 では完了体で答えている。完了体過去の否定は «未遂・未完»、特に «想定された成果が挙がっていない» ことを示すから、「しようとはした(あるいはやってみた)が結果を達成できなかった」というニュアンスになる。
 他方 4 では不完了体を使っている。不完了体過去の否定は完全否定である。ゆえに、そもそもすっかり忘れていたような場合には完了体ではなく不完了体を使わなければならない。

  1. Я́ не получа́ла от него́ письма́. (不完了体)
    Я́ не получи́ла от него́ письма́. (完了体)
  2. Я́ не изуча́л ру́сский язы́к. (不完了体)
    Я́ не изучи́л ру́сский язы́к. (完了体)

 1 において、完了体は「もらうはずなのにまだもらっていない」といったニュアンスを持つ(かれったら「手紙書くよ」って約束したくせに)。これに対して不完了体は「もらう」という行為の完全否定を意味するが、完了体との対比で言うと、そもそも特にもらうことを期待していなかった場合に用いられる(かれとは別れたし、くれるはずないでしょ)。
 2 の文は、すでに上で肯定文を紹介した。そこでは、不完了体は「わたしはロシア語を学んだ/学んでいた」、完了体は「わたしはロシア語をマスターした」であった。ところがこれが否定になると、不完了体は完全否定を意味するので、「わたしはロシア語などそもそも学んだことはない」であり、完了体は結果の未遂であるから、「学んだは学んだがマスターできなかった」である。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 13 09 2012

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシア語概説
形態論
inserted by FC2 system