Д04:AはEにある・いる(続)
さて話を戻す。
Д03で述べたことからして、「AはEにいる・ある」という文は、A、つまり「何・誰が」を問題としている場合と、E、つまり「どこに」を問題としている場合とで、語順が逆転する、ということになる。Aを問題としている場合には「EA」、Eを問題としている場合には「AE」という語順になるのである。
- Та́м е́сть соба́ка.
- Соба́ка е́сть та́м.
1. は собака が文末に置かれているので、「何・誰が」を問題としている文である。日本語的には、普通に「あそこにイヌがいる」となろう。あるいは「あそこにいるのはイヌだ」でもいい。
これに対して 2. は、там が文末に置かれているので、「どこに」を問題としている文である。「イヌはあそこにいる」、「イヌならあそこにいる」、さらには「イヌがいるのはあそこだ」という感じになるだろうか。文頭に置かれた собака は文の主題(テーマ)なので、イヌがどこかにいるのは前提となっている。それがどこか、が、この文の言いたい点である。
#83 A есть E はE(どこに)を問題にしている。E есть A はA(何が)を問題にしている。
ちなみに、言うまでもないとは思うが念のため。そもそも存在の有無、すなわち「あるかないか」、「いるかいないか」を問題にする文は、すでに確認した「Aはある・いる」。
さて、以上のような語順の基本原則を踏まえると、「Aはある・いる」の語順についても、次のようなことが言える。すなわち、
- Бо́г е́сть.
- Е́сть бо́г.
の両者は、実は必ずしもイコールではない。繰り返すが、この手の文は、基本的に「あるかないか」、「いるかいないか」が言いたい文である。ゆえに一般的な語順は 1. であり、「神」を問題としている 2. の語順はかなり特殊だ、ということになる。
есть の省略
そもそもが、есть という単語それ自体、「あるかないか」、「いるかいないか」を強調するニュアンスで使われる。ゆえに、それをさほど問題としない文では、省略され得る。具体的に言えば、E、つまり「どこに」を問題としている文である。
Соба́ка е́сть та́м. ≒ Соба́ка та́м.
繰り返すが、この文で文頭に置かれている「イヌ」は、この文の主題である。つまり、すでにイヌがどこかにいることが前提となっているのだ。だから есть は省略し得る。
これに対して
Та́м е́сть соба́ка.
の場合、主題は「あそこに・で」である。「あそこにイヌがいる」かもしれないし、「あそこにイヌが死んでいる」かもしれない。逆に「あそこにはイヌがいない」かもしれない。「あそこでイヌが走っている」、「あそこでイヌが吼えている」等々、無限に近い可能性がある。ゆえにこの語順では、基本的に есть を省略することはできない。
もちろん、Там есть、すなわち「あそこにいる」までが主題という可能性もある。日本語では、「あそこにいるのはイヌだ」というニュアンスの場合だ。この場合であれば、前提となっているのは「あそこに何かがある・いる」。その「何か」が実は「イヌ」だった、という文である。このような場合であれば、есть を省略することもあり得る。
つまり、前後の文脈や状況、話者・筆者の意図次第で
- есть が不可欠。
- есть があってもなくてもいい。
が決まってくる。ちなみに、「есть があってはならない」という場面は存在しない。
同様に есть を省略可能なのが、「〜なAがある・いる」という場合。単純に言おう。Aに何らかの余計な情報、具体的には形容詞や名詞などの修飾語がつけ加えられている場合である。
Та́м е́сть чёрная соба́ка. ≒ Та́м чёрная соба́ка.
この文は、「あそこに黒いイヌがいる」という意味だ。「イヌがいる・いない」と、少なくとも同程度に重要なのが、「それが黒いイヌだ」という点である(もし重要でないなら、чёрная という形容詞は省いてしまえばいい)。
このような文でも、есть はあってもなくてもいい。あれば存在の有無がある程度重要だということになるし、なければ存在の有無よりも「黒い」という特徴の方が重要なのだということになる。
#84 есть は「ある・いる」を強調するニュアンスがあるので、「どこに」や「どんな」を問題としている文では省略可。
ここまでに学んだ есть の使い方を、いささか単純になるが図式化して整理しておこう。
есть はあくまでも、「ある・いる」を示すものである。ゆえに
- 「Aはある・いる」という文では、Aの後に置かれ、省略不可。
- 「AはEにある・いる」という文では、AとEの間に挟まれ、省略可。
- Aを問題にしている場合、普通は省略しない(語順は E есть A)。
- ただしAに修飾語がついている場合は、省略することが多い。
- Eを問題にしている場合、省略することも多い(語順は A есть E)。
- どちらにせよ、省略しないと「ある・いる」という意味合いを強調した感じになる。
- Aを問題にしている場合、普通は省略しない(語順は E есть A)。
人称代名詞・固有名詞を使う場合
ここまでの話は、Aが人称代名詞の場合、少し事情が異なってくる。
- есть は使わない。
- 語順はAE。
たとえば、次のようになる。
до́ма(副詞)自宅に・自宅で
- Я́ до́ма. 「わたしは自宅にいる」
- Ты́ в па́рке? 「君がいるのは公園?」
- О́н та́м. 「かれはそこにいる」
このような特徴は、ここまでの説明から十分理解できる。
そもそも人称代名詞は、既知の存在を前提としている。一人称は話し手・書き手であるから、人類の数だけ「わたし」は存在している。少なくとも聞き手・読み手にとっては、目の前の存在なのだから、「わたし」が存在しているのは改めて確認するまでもない。また、二人称とは相手のことだから、人類がふたり以上存在すれば、人類の数だけ「君」も存在していることになる。聞き手・読み手にとっては自分自身のことである。他方で三人称は、前の文に出てきた名詞を受けるものだから、これまたその存在はすでに了解事項である。
このような人称代名詞の特徴からして、人称代名詞が文頭に置かれるのは当然である。しかもその存在はすでに了解事項であるから、いまさら есть を使うこともないのだ。
#85 Aが人称代名詞の場合は、一般的に есть を省いてAEの語順。
またこのことは、固有名詞にもたいていは当てはまる。
Кре́мль(男性名詞)城塞
※大文字で書かれた場合は、モスクワのクレムリン。
- Пу́тин до́ма. 「プーティンは自宅にいる」
- Президе́нт в Кремле́. 「大統領はクレムリンにいる」
- 「どこそこに」という言い方は後で詳しく学ぶが、とりあえず「クレムリンに」は в Кремле́ と言う。
президе́нт 「大統領」は普通名詞だが、ロシアで大統領と言えば現在ではプーティン、以前はメドヴェーデフ、さらに前はエリツィンであった。このように、事実上ひとりしかいない職務を表す名詞は、意味からして固有名詞に準じる。日本語で言えば、「天皇」がわかりやすい例だろう。「明仁天皇」とか「平成天皇」とかいう言い方はしない。「天皇」は「天皇」である。
ただし、もちろん次のような場合は語順が逆転する。
В Кремле́ президе́нт. 「クレムリンには大統領がいる」
とはいえこの語順、「皇居には天皇がいる」と同じく、現実にはほとんど使われることはないだろう。
なお、同じ固有名詞でも地名はまた話が別である。
о́зеро(中性名詞)湖
за́пад(男性名詞)西
от(前置詞)生格から
По́льша(女性名詞)ポーランド
- В Япо́нии е́сть о́зеро Бива. 「日本には琵琶湖がある」
- しつこいようだが、「どこそこに」という言い方は後述。とりあえず в Японии で「日本に」という言い方だ、と理解しておいていただきたい。
- На за́паде от Росси́и е́сть По́льша. 「ロシアの西にはポーランドがある」
- 「西に」という言い方は на западе で、詳しくは後述。「〜の西に」という言い方は、「〜から(見て)西に」という言い方をする。
もちろん、есть を使わず、AEという語順で表現することも可。ただしこれはすでに説明したとおりである。
- О́зеро Бива в Япо́нии.
- По́льша на за́паде от Росси́и.
時制
時制は「Aはある・いる」と同じ。現在時制では есть、過去時制・未来時制では быть の過去形・未来形を使う。
есть は省略可能だが、быть の過去形・未来形は、時制を表現している以上、省略することはできない。
Пу́тин до́ма. ⇔ Пу́тин бы́л до́ма.
#77 「ある・いる」を意味するのは、現在時制では есть、過去時制・未来時制では быть。