皇位継承法(一般論)

中世以降のヨーロッパにおける王位継承法を、試みに以下の諸点に分けて論じてみる。

I. 領土の分割とそれに伴う王位の分散

  1. 一括
  2. 分割

 ゲルマン社会では領土は分割相続が一般的だった。そのため、王位・王国すらも兄弟によって分割相続されている(カロリング帝国がそうだ)。
 ドイツでは、領邦によって大きく異なるが、早くても16世紀頃まで、遅ければ19世紀までは分割相続が一般的な相続法であった。たとえばザクセン公に男子が複数いれば、ザクセン公領は全員によって分割された。それどころか、ザクセン公の称号すらも全員が継承した。かれらを区別するために各所領の主都の名を付して、ザクセン=ヴァイマール公、ザクセン=ゴータ公、ザクセン=マイニンゲン公などと呼んだ。ドイツの貴族の肩書きが長ったらしいのは、これが最大の要因である。
 キエフ・ルーシやポーランドが王家に属する諸公により細分化されたのも、これと同じであろう。
 ただし、王位を複数の男子が継承するという慣行は、ドイツ・フランスではカロリング家の断絶とともになくなった。皇位はそもそも地上に唯一のものであるから、複数の人間が継承するということはあり得ない。キエフ・ルーシやポーランドでも «王位»(当時は «王» を名乗っていなかった)を継承したのはただひとりである。
 王の領土を私有地ととらえるか公有地ととらえるかで、王国を分割して相続するか一括して相続するかの違いが生じるのだろうと思うが、他方で王という地位を «共同体のボス» ととらえるならば、その地位が分割されることはあり得ない。«ボス» の地位すらも複数の子が継承した例は、ヨーロッパではメロヴィング家・カロリング家のフランク王国以外にはあまり見られない。

II. 男系と女系

  1. 男系限定
  2. 男系優先
  3. 男女同権
  4. 女系

 たとえばピクト人の国(スコットランド)では女系による王位継承が行われていたらしいが、それ以外には女系継承の例は(少なくともわたしは)知らない。
 男系限定の継承とは、つまりは女性による継承、および女性を経由した継承を完全に否定したもの。いわゆるサリカ法がこれにあたる。かつてのフランスがそうだったが、現在この方式を採っているのは世界でも日本だけである(イスラーム諸国もそうかもしれない)。
 しかしこの方式では継承権者が途絶する危険性が高いので、通常は女系を認めつつ男系優先の継承法を採っている。男系優先と言っても、男系が絶えた時のみ女系を認めるという方式は廃れてしまい(いまだこの方式を採るのはおそらくリヒテンシュタインのみ)、こんにちでは兄弟内で女性より男性を優先するという程度である(娘しかいない場合は弟や従兄弟よりも娘を優先)。イギリス、スペインなどがそうだ。
 男女同権の継承法は、20世紀後半に入って一般化した。弟よりも姉の権利を優先するものである。スウェーデンに始まり、ノルウェー、ベルギー、オランダに広がっている。

III. 直系と傍系

  1. 父子
    1. 長子 primogeniture
    2. 末子
  2. 兄弟
  3. 年長者

 近代国家で長子継承以外の制度を採っているところを、わたしは知らない。しかし、ヨーロッパに限らず、時代を遡れば遡るほど兄弟による継承が一般的になる。
 ただし兄弟による継承は、I. や II. のような «継承法» と言うよりは、単なる慣習であろう。むしろ継承法の存在しない時代に、弟が実力で甥から王位を奪う、あるいは年少の甥よりも年長の弟を諸侯が選ぶ、という形で、結果として兄弟で継承していた、と見る方がふさわしいかもしれない。
 特に継承法が確立しておらず、実力が大きくモノを言った時代には、一族内部の最年長者が後を継ぐ、という方式も一般的に行われていた。もっとも、これまたそのようなルールがあったと言うよりも、結果としてそうなったと見るべきかと思う。長子継承制というのは、たとえ生まれたばかりであっても先王の長子であれば先王の弟よりも権利が優先される、という、ある意味非合理な制度である。王が誰だろうと(たとえ狂人であっても)お飾りにすぎず、実際には政府や官僚が国家を運営する近代国家であればそれでも構わないだろうが、王に実質的な権力のあった時代には、やはり経験にまさる年長者に継承させる方が合理的だったとは言えるだろう。
 とはいえ時代が下るにつれて、兄弟や年長者による継承は少なくなり、父子による継承が一般化していく。近代以降で父子以外の継承法を採用していた国はおそらくないだろうと思う。
 常に系譜上長子の系統が優先するというのが、英語で言う primogeniture である。兄弟間では誕生の順番が絶対、叔父甥や従兄弟(さらにそれ以下)においては長子の系統か次子の系統かが絶対の継承法である。フランスでは、結果論からすれば10世紀からこの方式が採用されていたことになるが、法的に確立されたのは14世紀である。イングランドでも14世紀に慣習的には確立していたが、これを乱した結果バラ戦争が勃発している。
 ちなみに、«末子相続» は遊牧民でよく見られるが、王位継承にかかわるものではなく領地相続にかかわるものだと思う。しかも、新たに征服した領土を長子から順に与えていき、余った本領を末子に譲る、というのがほとんどで、末子以外が相続しない、というわけではないのではないだろうか。だとすれば、«末子相続» という言葉は語弊を招く言い方であろう。リトアニア大公ゲディミナスは末子ヤウヌティスに首都ヴィリニュスを中心としたリトアニア本領を与えているが、その兄たちにはキエフ・ルーシを分け与えていた。

IV. 正統性の根拠

  1. 武力
  2. 世襲
  3. 指名
  4. 任命
  5. 選挙

 王位継承の正統性をどこに求めるか。

 武力(あるいは広く実力と言ってもいい)は、あるいは正統性とは相反する概念とも思われるが、«実力があるから王になったのだ» というのも立派な正統性だと思う。
 まぁ、とはいえこれは «継承法» とは言えないだろうから、ここで挙げるのも場違いの観はあるが。

 正統性は普通、上位者から与えられるものである。その上位者が神の場合には «王権神授説» などとなるし、王家の始祖をトロイア王家やアダムやカエサルに求めるというのも、歴史上・宗教上の権威に正統性を求めた結果である。
 小さくは「父親が王だったから」というのも立派な正統性の根拠となる。特にその父王が、何らかの意味で秀でた王であったならばなおさらである。こうして、王の子や弟など、その血を引く者が王になる、あるいは王になる資格がある、という «世襲» が始まる。
 もちろん、根源的には財産の相続というものはおしなべて «世襲» であって、特に王位に限ったことではなく、しかも王位の世襲云々よりはるか以前から財産の相続は始まっているので、«世襲» という正統性の起源はここにある、と言うべきかもしれない。特にまだ国家が君主の私有財産と見なされていた時代には、王位の世襲も財産の世襲と同じ感覚で行われていたのだろう。
 I.、II.、III. のいずれにおいても、まさに世襲の原則に基いて継承者が決まるわけである。のみならず、あとに述べる «選挙» の場合でも、具体的な候補者は先王の一族(子や弟)であるのが一般的だし、武力で王位を奪った人間も先王朝との血縁的つながりを強調するのが一般的で、その意味においては «世襲» の原理は王位継承の基本原理であると言ってもいいだろう。

 王が権威を持つならば、その遺志も権威を持つ。となると、先王の遺志により次の王が決まる、という «指名» による継承もまた正統性を持つ。特に、継承法の確立していない時代にあってはしばしば先王の遺志(と称するもの)は王位継承を左右した。
 しかし、諸侯も必ずしも先王の遺志を尊重するとは限らず、特に実力を持ちながら指名から漏れた人間にとっては受け入れがたいものであったろう。その結果、結局は «指名» ではなく «武力» や «選挙» によって継承者が決まる、ということも多々あった。わたしたちに身近なところでは、南北朝動乱の一因ともなった持明院統と大覚寺統の対立がまさにこれにあたる。
 君主があらゆる法の束縛を受けない絶対専制君主制の時代にあっても、王位継承法のみはこのような君主の意思(«指名»)ではなく、長子継承法などを採用していて、この点においては絶対専制君主といえども拘束されていた。(わたしの知る限りで)唯一 «先王による指名» という継承法を採用していたのがロシアである。もっとも、やはり前皇帝の遺志が必ずしも尊重されたわけではない。

 王というのは一国の元首であるから、本来 «上位者» など存在しないはずだ。しかし現実には、«上位者» を持つ王は歴史上ごろごろしている。このような «上位者» による «任命» も、正統性の根拠となる。必ずしも文字とおりの «任命» ではなかったかもしれないが、鎌倉時代後半の皇位継承には幕府の意向が大いに反映された。承久の乱以降実質的な日本の最高権力が天皇ではなく将軍(と言うより執権)にあったからである。
 «タタールのくびき» 時代のルーシ諸公にとって、キプチャク・ハーンこそがむしろ絶対的な権威であった。かれらはサライに詣で、ハーンの許可を得てはじめて父祖の地位を継ぐことができた。ハーンが具体的に継ぐべき人間を指名したわけではないにせよ、ハーンという «上位者» によって継承者が決まる、という点では «任命» という継承法の変種と言っていいと思う(ヴラディーミル大公位については実際にハーンが指名した場合もあったようだ)。

 こんにち的には、最高の «外的権威» は国家の主権者たる «国民の意思» である。つまり、その発露たる «選挙» によって選ばれた者が、それを正統性の根拠として権力を行使するわけだ。
 とはいえ、選挙により王を選ぶ、というのはそのような正統性の問題とはおそらく無関係に、王権と貴族との相克から生まれた制度であったろう。王はハナから絶対的権威を有していたわけではないし、権威はあっても実力が伴わなければ仕方ないし、ましてや外敵から護ってくれない王であってみれば仕えても仕方がないし、というわけで、臣下の側にも君主を選ぶ(嫌いな君主の下を去って別の君主に仕える)権利がある、という概念は早くから見られたし、それが嵩じて臣下には君主を廃立する権利がある、というところまで行った場合も多々ある。カペー家初代のフランス王ユーグ・カペーがペリゴール伯アダルベール1世と戦った時、「誰がお前を伯にしてやったと思ってんだ」と難じたところ、「誰がお前を王にしてやったか忘れたのか」と切り返されたという。実際、選挙によって王を選ぶというのは王権が絶対性を失った場合によく見られる。
 ただし現実には、選挙と言ってもその候補者は先王の子や弟である場合が多く、«世襲原理» に縛られていた。フランスでは王位継承は選挙から始まって結局は世襲に到っている。
 しかし時には、君主個人の選挙から進んで «王朝の選挙» にまで到った場合もある。これが制度(たとえ慣習的なものであったとしても)として定着すると、それは «選挙王制» となる。神聖ローマ帝国やポーランドがその典型である。
 そこまで行かずとも、ここで言う選挙をもう少し広く、«被支配者が複数の候補者の中から継承者を選ぶ行為» ととらえるならば、そのような選挙はほとんどの国で、しかも1度や2度のみならず行われている。わたしたちに身近なところでは、紀州慶福と一橋慶喜の将軍継嗣争いなどもそのひとつだと言える。
 さらにこれが過激化すると、«現在の君主を廃して新たな君主を擁立する» 革命や宮廷クーデタとなる。ジェイムズ2世を廃してウィリアム3世を迎えた名誉革命、シャルル10世を廃してルイ・フィリップを擁立した七月革命などがそうだ。

 «世襲原理» は王位継承の基本原理であると言えるだろう。選挙であっても、上述のように、その候補者は «世襲原理» に基いて先王の血縁者に限られるのが一般的だった。しかし選挙というのは究極的にはそのような «制限» に縛られない方向を志向するものだと思うので(この志向が徹底されれば君主制から共和制に移行する)、原理的に言うならば «世襲原理» と «選挙原理» とは王位継承法の対極に位置すると言っていいだろう。

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最終更新日 17 01 2013

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