歴代君主人名録

マリーナ・ムニーシェク

Maryna / Marianna / Maria Mniszech / Mniszchówna, Марина Юрьевна Мнишек

ツァリーツァ царица всея Руси (1606-)

生:?
没:1614?

父:イェジ・ムニシェフ -1613
母:ヤドヴィガ・タルウォ

結婚①:1606−モスクワ
  & 偽ドミートリイ1世 -1606

結婚②:
  & 偽ドミートリイ2世 -1610

結婚③:
  & イヴァン・マルティノヴィチ・ザルーツキイ -1614

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
偽ドミートリイ2世と
1イヴァン1611-14

ポーランド貴族。カトリック。
 ポーランド語では名の表記にいくつかのヴァリエーションがあるようだが、ロシア語では一貫して «マリーナ・ムニーシェク» と表記される。

 1603年、父のもとに義兄(姉の婿)コンスタンティ・ヴィシュニョヴェツキが偽ドミートリイ1世を連れてくる。マリーナはここで初めて偽ドミートリイと出会ったが、やがて偽ドミートリイはマリーナとの結婚を考えるようになったらしい。しかしマリーナがかれをどう思っていたかはわからない。

 1605年、偽ドミートリイはモスクワでツァーリとなる。翌1606年、マリーナはモスクワに赴き、偽ドミートリイと結婚した。結婚式にあわせてマリーナの戴冠式もおこなわれたが、ツァリーツァの戴冠式はロシアでは初となった。
 結婚式・戴冠式は5月8日。5月17日には、偽ドミートリイは殺された。マリーナがツァリーツァだったのは、わずかに9日間のことでしかなかった(ただし形式上、マリーナはツァリーツァであり続けた。夫を亡くしたツァリーツァはロシア語では «未亡人となったツァリーツァ» と呼ぶが、ツァリーツァでなくなるわけではない)。

 マリーナと家族は、新たにツァーリとなったヴァシーリイ・シュイスキイにより、ヤロスラーヴリに追放された。
 1608年、ヴァシーリイ・シュイスキイは、偽ドミートリイ2世を支援していたポーランド=リトアニア王ジグムント3世と講和に達したが、これによりマリーナと家族は帰国を赦された。ただしこの時をもって、マリーナはツァリーツァと呼ばれなくなる(少なくとも中央政府からは)。

 しかしマリーナは、偽ドミートリイ2世のトゥーシノ陣営に姿を現す。トゥーシノにてマリーナは偽ドミートリイ2世を彼女の夫と認め、自身再びツァリーツァとなった。しかし偽ドミートリイ2世との関係は劣悪だったらしく、1609年暮れに偽ドミートリイ2世陣営が瓦解して偽ドミートリイ2世自身もトゥーシノからカルーガに逃亡すると、マリーナはポーランド軍の占領するドミートロフへ赴いた。しかしここも1610年にはロシア軍に占領され、マリーナもカルーガの偽ドミートリイ2世に合流する。
 1610年、偽ドミートリイ2世はモスクワを目指して北上するが、モスクワではヴァシーリイ・シュイスキイが廃位され、実権を握った «セミボヤールシチナ» はツァーリ位をジグムント3世の息子ヴワディスワフに提供。こうしてジグムント3世には偽ドミートリイ2世は不要の存在となった(この年、偽ドミートリイ2世は殺されている。なお、息子イヴァンの誕生は偽ドミートリイ2世の死後)。
 ツァーリ位を巡って、ヴワディスワフを支持するポーランド、そしてセミボヤールシチナと、さらにはかつて偽ドミートリイ陣営に属したロシア貴族たち、すなわちロシア勢の大部分が一方に存在し、これに抵抗する偽ドミートリイ勢の残党という対立の構図が生まれ、この中でマリーナは後者に属した。と言うのも、マリーナは生まれたばかりの息子イヴァン・ヴォリョーノクをツァーリにしようと考え、カトリックのポーランドに反発するドン・コサックがこれを支持したのである。

偽ドミートリイ2世は «トゥーシノの賊(ヴォール) тушинский вор» と呼ばれたが、息子イヴァンは «イヴァン・ヴォリョーノク Иван Воренок» (「子供の賊」の意) と呼ばれる。

 以後、マリーナは、偽ドミートリイ2世に仕えていたドン・コサックのアタマーンであるイヴァン・ザルーツキイと行動をともにする。
 ザルーツキイは «反ポーランド» という共通項から «第一次国民軍» に参加するが、これは半年ともたずに瓦解。これはコサックと貴族層とが対立したのが一因である。その後もザルーツキイはドミートリイ・トルベツコーイ公とともにモスクワ近郊にとどまり、モスクワに駐屯するポーランド軍との戦いを継続した。マリーナもザルーツキイのもとで、イヴァン・ヴォリョーノクをツァーリとする画策を続けている。
 1612年、«第二次国民軍» がモスクワに進軍。これと折り合いが悪かったこともあり、マリーナとザルーツキイはリャザニに、次いでアーストラハニに逃亡した。
 1614年、中央政府軍との戦いに破れたザルーツキイとともに、マリーナはヤイク(ウラル)上流域に逃亡したものの、最後には追っ手に捕らえられ、モスクワに送られた。
 ザルーツキイは串刺し、息子イヴァン・ヴォリョーノクは絞首刑に処されたが、マリーナの処遇については不明。

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最終更新日 30 11 2012

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