フョードル・ボリーソヴィチ・ゴドゥノーフ
Федор Борисович Годунов
ツァレーヴィチ царевич (1598-1605)
ツァーリ царь всея Руси (1605)
生:1589−モスクワ
没:1605.06.10/06.20−モスクワ
父:ボリース・フョードロヴィチ・ゴドゥノーフ 1552-1605
母:マリーヤ -1605 (グリゴーリイ・ルキヤーノヴィチ・スクラートフ=ベリスキイ)
結婚:なし
子:なし
ボリース・ゴドゥノーフの第二子(長男)。
ツァーリとしてはしばしば «フョードル2世» と呼ばれる。
1594年頃から、外国使節の歓迎式典にかれの名が見えたり、外国君主への贈り物がかれの名でおこなわれたり、政府の文書に父の名に並んでかれの名が署名されたりするようになる。
1598年、父がツァーリに即位。その直後から、フョードル・ボリーソヴィチは外国使節との会見や貴族会議などに参列している。
早くから父により、非常に高い教育を受けていたようだ。まだローティーンだった頃、ロシアの地図を書くが(実際に線を引いたのがかれ本人か他人かは不明)、これは1619年にアムステルダムで出版されている(ロシア人自身が書いた最初のロシア地図のひとつ)。カラムジーンはかれを、「ロシアにおける西欧教育の最初の果実」と呼んでいる。
1603年、イングランド女王エリザベス1世から、さるイングランド女性との結婚が提案された。もっともこの直後にエリザベス1世が死んだため、この話は立ち消えになった。
1604年、父が使節をカルトリに派遣。カルトリ王ギオルギ10世の娘エレーナとの結婚を提案し、ギオルギ10世もこれに同意した。しかしこの話が具体化する前に、フョードル・ボリーソヴィチはこの世を去った。
1605年、父の死でツァーリとなる。
ツァーリとして、臣下から忠誠の誓いを受けたが、この際、貴族たちは、セミョーン・ベクブラートヴィチや偽ドミートリイ1世をツァーリとしない、という誓いも要求されたらしい。
フョードル・ボリーソヴィチは、当時まだ16歳。政治にも軍事にも何ら経験はなく、慣例に従って母后マリーヤ・スクラートヴァが «摂政» 格となったが、実際にはセミョーン・ニキーティチ、ステパーン・ヴァシーリエヴィチ、イヴァン・イヴァーノヴィチといったゴドゥノーフ一族、フョードル・ムスティスラーフスキイ公、ヴァシーリイ & ドミートリイのシュイスキイ公兄弟といった大貴族たちが政治に大きな影響力を持った。また、特に軍においてはピョートル・バスマーノフが父以来の大立者として控えていた。
しかし父の代以上にゴドゥノーフ一族が政治の前面に現れてきたことで、父の代から潜在していたかれら «成り上がり者» に対する大貴族たちの不満を顕在化させることになった(セミョーン・ゴドゥノーフなどはその点に無頓着に権力を振るっていた)。
フョードル・ボリーソヴィチは支持基盤を強化しようと、父が追放したボグダーン・ベリスキイなどを呼び戻す(一説によればかれは母后の従兄弟)。
フョードル・ボリーソヴィチ即位の時点で、偽ドミートリイ1世はプティーヴリを拠点とする東ウクライナの一角に逼塞していた。しかしザポロージエやドンのコサックがこれに合流し、これとクロームィ要塞にて政府軍とが対峙していた。この政府軍を率いていたのが、ミハイール・カトィレフ=ロストーフスキイ公、ヴァシーリイとイヴァンのゴリーツィン公兄弟、そしてイヴァン・ゴドゥノーフであった。
ここでセミョーン・ゴドゥノーフは、致命的な過ちを犯す。ピョートル・バスマーノフに替えて自身の娘婿アンドレイ・テリャーテフスキイ公を主力軍の司令官に据え、ピョートル・バスマーノフをクロームィに派遣したのである。
クロームィ要塞にてピョートル・バスマーノフは、政府軍にフョードル・ボリーソヴィチへの忠誠を誓わせる。しかしピョートル・バスマーノフ自身、今回の人事に不満を覚えていた。父フョードル・バスマーノフがイヴァン雷帝時代にテリャーテフスキイ公の祖父より上の地位についていたからである。クロームィ要塞の政府軍の中にも、反ゴドゥノーフ派がいた(その中心人物がリャプノーフ兄弟であった)。
こうしてピョートル・バスマーノフは、ゴリーツィン兄弟とともに偽ドミートリイ派に寝返る。イヴァン・ゴドゥノーフはかれらに捕らえられ、ミハイール・カトィレフ=ロストーフスキイ公は逃亡して、クロームィ要塞の政府軍は完全に偽ドミートリイ派に押さえられた。
形成は逆転。偽ドミートリイ1世はプティーヴリからモスクワを目指して北上し、トゥーラに達した。
トゥーラから、偽ドミートリイ1世はモスクワに使節を派遣する。これはフョードル・ボリーソヴィチに宛てたものではなく、貴族やモスクワ市民に宛てたものである。かれら(ニキータ・プレシチェーエフとガヴリーラ・プーシュキン)はモスクワ市民を煽動し、暴動を起こさせた。他方で大貴族たちもフョードル・ボリーソヴィチと無関係に偽ドミートリイ1世と交渉を始めていた。かれらは市民の暴動に乗じて、フョードル・ボリーソヴィチ、母と姉、さらにゴドゥノーフ一族や親族サブーロフ家、ヴェリヤミーノフ家などを捕らえた。
こうして6月1日、ゴドゥノーフ王朝は呆気なく崩壊。フョードル・ボリーソヴィチの治世は2ヶ月に満たなかった。
偽ドミートリイ1世の名の下にモスクワで権力を握ったのは、事もあろうにボグダーン・ベリスキイだった。しかし偽ドミートリイ1世はかれを信用せず、ヴァシーリイ・ゴリーツィン公を派遣してこれに替えた。
そうこうする間、フョードル・ボリーソヴィチと母は、偽ドミートリイ派によって自室で窒息死させられた。
下手人については諸説あり、プーシュキンは『モスクワ年代記』にならってヴァシーリイ・ゴリーツィン公、ヴァシーリイ・モサーリスキイ=ルベーツ公、ミハイール・モルチャーノフ、シェレフェディーノフとしているが、当時モスクワに滞在中のスウェーデン人の証言によれば偽ドミートリイ1世に派遣されたイヴァン・ボグダーノフなる役人だった。
フョードル・ボリーソヴィチ、母、そしてアルハンゲリスキイ大聖堂から掘り出された父の遺骸は、ヴァルソノフィエフスキイ修道院に埋葬された。1606年、ツァーリとなったヴァシーリイ・シュイスキイにより、セールギエフ・ポサードの聖三位一体セールギイ大修道院に改葬された(1783年に霊廟が建てられた)。
戴冠式をおこなっていない唯一のツァーリである(ただし戴冠式をおこなっていない皇帝は3人いる)。