君主の家系

1797年の勅令は、皇位継承権について以下のように定めている。

相応しい称号(достоинство)を持たない者、すなわちいかなる царствующий ないし владетельный な家系にも属さない者との婚姻関係から生まれた皇帝家の子供たちは、皇位継承権を有さない。
Дети, происшедшие от брачного союза лица Императорской фамилии с лицом, не имеющим соответственного достоинства, то есть не принадлежащим ни к какому царствующему или владетельному дому, на наследование Престола права не имеют.

 достоинство とは、こんにちは一般的に «美点» とか «尊厳・品位»、あるいは «自尊心» や «体面» といった意味で使われているが、帝政時代には «称号(爵位)» という意味で使われていた。いずれにせよ «相応しい достоинство を持たない者» では不十分と考えたのだろう。«царствующий ないし владетельный な家系に属さない者» と言い換えている。
 しかしそう言い換えられたからといって、必ずしもコトがより明確になったわけではない。«царствующий ないし владетельный な家系» の定義が欠けているからである。

 一般的には、царствующий とは «(いま現在)ツァーリの位にある»、«(いま現在)支配・統治している» という意味であり、владетельный とは«владетель(領主・支配者)の» という意味である。
 しかし、たとえば当時の日本ではこれは天皇家のことなのか将軍家のことなのかその両方なのか。
 王とその一家だけなのか分家やそのまた分家なども含むのか(ロシア語の дом は family 同様、«家族» と «一族» の両方の意味を持つ)。当時のフランスの王家はブルボン家だったが、その分家のオルレアン家は含まれるのか。
 もし分家も含むとすれば、当時ハプスブルク家は男系が断絶し、女系を通じてロレーヌ(ロートリンゲン)公家が継いでいたが、その初代フランツ1世以前にロレーヌ公家から分かれた分家はどう扱うのか。
 さらには、当時すでに王位を失っていた家系(革命で位を追われたステュアート家、国を失ったバグラティオン家)はどうするのか。これを問題とする所以は、19世紀を通じて多くの王家があるいは位を失い、あるいは国を失ったからである。
 そして何よりも、国家君主ならぬ貴族の家系は含まれるのだろうか?(一般論として言うなら、царствующий は王や皇帝など一国の君主を指し、владетель はドイツの領邦君主を指して、一般の貴族は含まない)

君主の家系

 «царствующий ないし владетельный な家系» が定義されていないのは、特に定義が必要とは考えられなかったからだろう。慣習に基く概念であるだけに厳密性を求めると上記のようなボロが出るが、それでも実用上はほとんど問題のない «一般通念» が存在していたと思われる。
 つまり、«царствующий ないし владетельный な家系» とは «独立国家(ないしそれに準ずる領邦)の君主» の家系であり、あえて言えば1648年のヴェストファーレン条約で独立の認められた国家・領邦のことである。具体的に言えば、イギリス、フランス、ロシアなどは当然として、ドイツとイタリアの諸領邦もまた独立、あるいは事実上の独立が認められた。つまり、パルマ公領、トスカーナ大公領、マントヴァ公領、モデナ公領、サヴォイア公領などの北イタリア諸領邦は神聖ローマ帝国からの独立が認められ、オーストリア大公領(ハプスブルク家)、バイエルン選帝侯領、ザクセン選帝侯領、ブランデンブルク選帝侯領、プファルツ選帝侯領、バーデン辺境伯領、ヴュルテンベルク公領、ブラウンシュヴァイク公領、ケルン大司教領、トリール大司教領、マインツ大司教領などのドイツ諸領邦は外交権をも含む国家主権が認められた。
 もちろん、1648年から1797年までの間に多少の変遷はある。イギリス王家はステュアート家からハノーヴァー家に替わったし、ポーランド王国は地上から姿を消したし、国家と言うより私的領地と呼ぶべきドイツ諸領邦にあっては新たな領邦が生まれたり古い領邦が消えたりと異同が激しい。アルテンブルク、ヴァイマール&アイゼナハ、ゴータの3家だったテューリンゲン系ザクセン公家が、ヴァイマール&アイゼナハ、ゴータ&アルテンブルク、マイニンゲン、ヒルドブルクハウゼン、コーブルク&ザールフェルトの5家に組み替えられているし、アンハルト侯家はエカテリーナ2世をもってツェルプスト系が途絶えているし、といった具合である。

 それ以上に問題なのが、ナポレオン戦争とヴィーン会議によって、ドイツ諸領邦のほとんどが統廃合されてしまったことである。
 トゥルン&タクシス侯などはその領土をバイエルン王国に併合され、バイエルン王に仕える一貴族と化してしまった。
 このように、それまで «独立» していた諸侯をある国の «一般貴族化» してしまうことを、«メディアツィザーツィヤ медиацизация(ドイツ語で Mediatisierung)» という。
 ロシアでの例を挙げれば、分領公 удельный князь がモスクワ大公の «勤務公 служилый князь» となったことがこれに当たると言えるだろう。また、あえて日本に類例を求めるとするならば、毛利輝元や上杉景勝が豊臣秀吉の軍門に下ったことがそれと言えるかもしれない。天皇、あるいは将軍以外に頭を下げるべき相手のいない立場から、天皇や将軍との間に秀吉という媒体(Media)が介在する立場に格下げされたわけである。
 ヨーロッパでは、このように «メディアツィザーツィヤ» された貴族は、一般の貴族とは別格とされ、君主に準ずる扱いを受ける。イギリス貴族ノーフォーク公は、バイエルン貴族トゥルン&タクシス侯と同格、むしろ爵位からすると上ではあるが(ただし爵位は国によって違うので簡単に比較できない)、社交界では雲泥の差。トゥルン&タクシス侯はむしろイギリス王などに準ずる地位を与えられるというわけである。当然、結婚相手としてトゥルン&タクシス家の娘ならOKでも、ノーフォーク家の娘では貴賎結婚と見なされる、ということにもなり得るのだ。
 ただし、革命前にロマーノフ家の人間がこれら «メディアツィザーツィヤ» された貴族と結婚した例はないので、ロマーノフ家でこのような相手が «相応しい家系» とみなされたかどうかは厳密にははっきりしない。

 1815年、ナポレオン戦争を清算したヴィーン会議で独立国家として認められた国々の君主の家系を以下に挙げる(厳密ではない)。

  1. アスカニア家 : アンハルト=デッサウ侯国、アンハルト=ケーテン侯国、アンハルト=ベルンブルク侯国
  2. ヴァルデック家 : ヴァルデック&ピルモント侯国
  3. ヴィッテルスバハ家 : バイエルン王国
  4. ヴェッティン家 : ザクセン王国、ザクセン=ヴァイマール&アイゼナハ大公国、ザクセン=ゴータ&アルテンブルク公国、ザクセン=マイニンゲン公国、ザクセン=ヒルドブルクハウゼン公国、ザクセン=コーブルク&ザールフェルト公国
  5. ヴェルフェン家 : イギリス王国&ハノーファー王国、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公国
  6. ヴュルテンベルク家 : ヴュルテンベルク王国
  7. オスマン家 : トルコ帝国
  8. オルデンブルク家 : デンマーク王国&ラウエンブルク公国、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン公国、スウェーデン王国、ロシア帝国&ポーランド王国&フィンランド大公国、オルデンブルク大公国
  9. グリマルディ家 : モナコ公国
  10. サヴォイア家 : サルデーニャ王国
  11. シュヴァルツブルク家 : シュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼン侯国、シュヴァルツブルク=ルドルシュテット侯国
  12. ツェーリング家 : バーデン大公国
  13. ナッサウ(オラニエ)家 : オランダ王国&ルクセンブルク大公国、ナッサウ公国
  14. ハプスブルク家 : オーストリア帝国&ロンバルド=ヴェネト王国、トスカーナ大公国、モデナ公国
  15. ブラガンサ家 : ポルトガル王国
  16. ブルボン家 : フランス王国、スペイン王国、両シチリア王国、パルマ公国
  17. ヘッセン家 : ヘッセン大公国、ヘッセン選帝侯国、ヘッセン=ホンブルク方伯国
  18. ホーエンツォレルン家 : プロイセン王国、ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯国、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国
  19. メクレンブルク家 : メクレンブルク=シュトレーリツ大公国、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国
  20. リヒテンシュタイン家 : リヒテンシュタイン侯国
  21. リッペ家 : シャウムブルク=リッペ侯国、リッペ=デトモルト侯国
  22. ロイス家 : ロイス侯国

 その後新たに誕生した国は、

  1. アルバニア王国 : ヴィート家、ゾグー1世
  2. イタリア王国 : サヴォイア家
  3. ギリシャ王国 : ヴィッテルスバハ家、オルデンブルク家
  4. セルビア王国 : カラジョルジェヴィチ家、オブレノヴィチ家
  5. ドイツ帝国 : ホーエンツォレルン家
  6. ノルウェー王国 : オルデンブルク家
  7. ブルガリア王国 : ヘッセン家、ヴェッティン家
  8. ベルギー王国 : ヴェッティン家
  9. モンテネグロ王国 : ニェゴシュ家
  10. ルーマニア王国 : クーザ家、ホーエンツォレルン家

 王家が入れ替わった国は、

  1. イギリス王国 : ヴェッティン家
  2. スウェーデン王国 : ベルナドッテ家
  3. フランス王国 : オルレアン家
    フランス帝国 : ボナパルト家
  4. ポルトガル王国 : ヴェッティン家

 結局、王家として新たに登場したのは、

  1. ヴィート家 : アルバニア王国
  2. オブレノヴィチ家 : セルビア王国
  3. カラジョルジェヴィチ家 : セルビア王国
  4. クーザ家 : ルーマニア王国
  5. ゾグー家 : アルバニア王国
  6. ニェゴシュ家 : モンテネグロ王国
  7. ベルナドッテ家 : スウェーデン王国
  8. ボナパルト家 : フランス帝国
  9. ※オルレアン家 : フランス王国

 ※オルレアン家はブルボン家の分家。

 あえて言うならば、最低でも以上30の家系が «царствующий ないし владетельный な家系» であると言っていいだろう。
 ただし、1代だけのクーザ家やゾグー家、ヴィート家が «царствующий ないし владетельный な家系» と見なされ得るかは、個人的には大いに疑問だと思う。いやそれを言ったらオルレアン家も1代だし、ニェゴシュ家もボナパルト家も似たようなもんだけど。
 また、リッペ侯家、ロイス侯家、リヒテンシュタイン侯家、シュヴァルツブルク侯家、ホーエンツォレルン侯家、ヴァルデック侯家は、一応ドイツの領邦君主として認められはしたが、実際には «メディアツィザーツィヤ» されたトゥルン&タクシス侯家、ライニンゲン侯家、ザイン侯家、ホーエンローエ侯家などと大差なく、現実問題としてこれらの家系出身者との結婚が問題なく認められたかどうかも疑問なきにしもあらず、という気がする(革命まではこれらの家系出身者との結婚はなかった)。

«元王家» の扱い

 1890年頃、皇太子ニコライ(のちの皇帝2世)の結婚相手としてオルレアン家のエレーヌ・ド・パリの名が挙がったことがある。彼女はパリ伯フィリップの娘であり、フランス王ルイ・フィリップの直系の曾孫である。問題は、ルイ・フィリップが1848年に王位を失っていたことにある。1890年と言えば第三共和制に移行して20年。貴族制度は廃止されており、いかなる意味でもエレーヌ・ド・パリは «царствующий ないし владетельный な家系に属する» とは言えない。
 つまり、現在王位を保持しておらずとも、元王家は «царствующий ないし владетельный な家系» と見なされた、あるいはそれに準ずると見なされたわけだ。

 ただしここで問題が生じる。極端な話、1000年前の王家の末裔は «царствующий ないし владетельный な家系» に属すると言えるだろうか?
 14世紀に2人のビザンティン皇帝を輩出したカンタクツェノス家は、その後いくつかの系統に分かれて存続していたが、そのひとつが18世紀以降ロシア皇帝に仕えるようになった(ロシア語ではカンタクジーン家)。こんなのはどう見なすべきだろうか。
 これについても実例が存在する。皇帝アレクサンドル2世は妃マリーヤ・アレクサンドロヴナの死後、エカテリーナ・ドルゴルーカヤと秘密結婚をしている。これは貴賎結婚と見なされ、子供たちには皇位継承権はおろかロマーノフの姓すら与えられなかった。エカテリーナも皇妃とはされず、«ユーリエフスカヤ公妃» という称号が代わりに与えられている。
 ドルゴルーキイ家はリューリク家の末裔である。リューリク家は言うまでもなくキエフ・ルーシの支配者の家系である。分領公は君主とは見なせないとしても、キエフ大公を君主と呼ぶことに異論のある者はおるまい。エカテリーナの20世代、600年前の祖先はキエフ大公であった。にもかかわらずアレクサンドル2世とエカテリーナの結婚は貴賎結婚とされたのである。
 さらに例を挙げると、革命後にロマーノフ家の多くが結婚相手として選んだゴリーツィン家は、16世紀までポーランド=リトアニアの王家であったヤギェウォ家(ゲディミナス家)の分家である(これまた直系の祖先が支配者だったのはさらに200年前)。しかしゴリーツィン家との結婚は誰もが貴賎結婚と見なしているようだ。

 オルレアン家とドルゴルーキイ家、あるいはゴリーツィン家との違いは、大雑把に言えば «王位を失ってからの年月» だけであると言っていいだろう。となると問題は、王位を失ったのが何年前までなら «царствующий ないし владетельный な家系» と見なし得るか? ということになる。そしてこの点については、答えは存在しない。

 帝政が崩壊するまでにこの問題に該当するような結婚例はもうひとつ、タティヤーナ・コンスタンティーノヴナ公女とバグラティオーン=ムフランスキイ公との結婚があるだけである。ところがこの時は、花嫁の父の日記によると、皇帝ニコライ2世は「この結婚は貴賎結婚には当たらない」と述べたらしい。
 バグラティオーン家がグルジア王位を失ったのは100年前。しかしバグラティオーン=ムフランスキイ家は分家であり、当のバグラティオーン=ムフランスキイ公の祖先にグルジア王を探して遡っていくと、実に400年以上前のことになる。バグラティオーン=ムフランスキイ家の400年前と、ドルゴルーキイ家の600年前とでは五十歩百歩である。
 あるいはニコライ2世としては、400年前ではなく100年前を重視したのかもしれない。であるならば、100年前までぐらいなら許容範囲、ということなのかもしれない。とすると、いまから数えると150年以上前に王位を失ったオルレアン家は、もはや «царствующий ないし владетельный な家系» ではないのだろうか? あるいは150年前ならまだ許容範囲なのだろうか?

参考

 ちなみに1815年に成立したドイツ連邦を構成する諸領邦について、大雑把なデータを以下に示す(1815年時点のもの)。

国名面積(1000平米)人口(1000人)
1オーストリア帝国197.631.36%9,120.031.27%
2プロイセン王国185.529.44%7,617.026.11%
3バイエルン王国76.312.11%3,350.011.48%
4ハノーファー王国38.46.09%1,320.04.53%
5ヴュルテンベルク王国19.53.09%1,340.04.59%
6バーデン大公領15.32.43%1,102.03.78%
7ザクセン王国15.02.38%1,180.04.05%
8ザクセン=ヴァイマール大公領3.60.57%194.00.67%
9ザクセン諸公領5.70.90%350.01.20%
10ヘッセン選帝侯領9.61.52%552.01.89%
11ヘッセン大公領7.71.22%590.02.02%
12ヘッセン=ホンブルク方伯領0.30.05%20.00.07%
13メクレンブルク=シュヴェリーン大公領13.32.11%333.01.14%
14メクレンブルク=シュトレーリツ大公領2.90.46%70.00.24%
15ホルシュタイン公領9.61.52%375.01.29%
16オルデンブルク大公領6.41.02%202.00.69%
17ナッサウ公領4.70.75%290.00.99%
18ルクセンブルク大公領4.80.76%204.60.70%
19ブラウンシュヴァイク公領3.70.59%210.00.72%
20アンハルト諸侯領2.40.37%118.00.40%
21シュヴァルツブルク侯領×21.70.27%98.00.34%
22リッペ侯領×21.60.25%92.00.32%
23ロイス侯領×21.10.17%75.00.26%
24ホーエンツォレルン侯領×21.10.17%52.50.18%
25ヴァルデック侯領1.10.17%48.00.16%
26リヒテンシュタイン侯領0.20.03%5.10.02%
27自由市×41.10.17%259.00.89%

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最終更新日 17 01 2013

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