帝政時代の国旗

«イコン旗»

 国旗の起源のひとつが戦場に掲げられた旗にあるとすれば、ロシアにおいてもその使用は中世にまで遡る。
 たとえば1164年にヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキイが、1216年にノーヴゴロド軍が、また1380年のクリコーヴォの戦いにおいてもモスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイが、それぞれ旗を掲げて戦場に赴いたとされている。
 これらの旗は、英語で言う standard や banner に相当するもので、イコンを描いたものである。1552年、カザン・ハーン国を征服したイヴァン雷帝の軍もまた、真紅地にイエスのイコンの描かれた旗を掲げていた。
 ちなみにこの頃の旗は、正方形プラス二等辺三角形の奇妙な形をしていた(旗としては一般的なようだが)。
 このように、軍事行動の際にイコンを描いた旗を掲げる習慣は、17世紀末まで続いた。1689年にクリム・ハーン国に遠征したゴリーツィン公は、イヴァン雷帝が掲げた1552年の旗を持ち出してきたという。
 しかし «イコン旗» の使用も、ピョートル大帝の登場(1689)とともにほぼ姿を消したらしい。
 すでにイヴァン雷帝の時代(1534-84)、イコンに代わる意匠が旗に使用されるようになっていたらしい。それが双頭の鷲である。

«双頭の鷲旗»

 厳密に言うと、イコンに代わった意匠は、必ずしも双頭の鷲ばかりではなかった。とはいえ、いずれにしてもモスクワ大公・ツァーリを象徴するデザインが、イコンの代わりに旗に描かれるようになったのである。

 双頭の鷲はイヴァン大帝(1462-1506)がすでに自身のシンボルとして使用しており、イヴァン雷帝の時代にはモスクワ大公・ツァーリを示すシンボルとして定着していた。
 イヴァン雷帝自身が双頭の鷲を描いた旗を掲げたか否かは判然としないが、もし掲げたとすれば、それはモスクワ大公・ツァーリの権威が上昇したことと関連するだろう。
 イコンを描いた旗が、イコンとして描かれた聖人を通じて神の加護を願うものであったとするならば、双頭の鷲を描いた旗はそれとは役割が異なる。これはあくまでも、«ここにツァーリがいる!» ということを敵味方に示すためのものであった。別の言い方をすれば、ツァーリのいない軍隊が «双頭の鷲旗» を掲げることはない。

 双頭の鷲を旗に使用した、確認できる限り最も古い例は、1634年にミハイール・ロマーノフがオスマン帝国の大使と会見した際。白地に黒の双頭の鷲の旗が掲げられたらしい。
 その後徐々に双頭の鷲を描いた旗の使用が一般化し、さまざまな儀式の際に掲げられるようになっていった。
 双頭の鷲を描いた旗が使用されるのは、当初は上述のようにツァーリがいる場のみに限られていたらしい。双頭の鷲がツァーリのシンボルである以上、当然であろう。しかし時代とともにそれも変わっていった。旗というものの有する意味や役割が拡大していくにつれ、続く三色旗や聖アンドレイ旗などと同様の使われ方をするようになる。
 同時に、この頃から旗の形状は長方形が多く見られるようになっていった。

三色旗の登場

 

 «イコン旗» にせよ «双頭の鷲旗» にせよ、色は真紅が多かったが、白や青も使われていた(なおイコンや鷲それ自体は金が多かった)。その他の色の使用もないではないが、これら三色に比較して使用頻度は低かったらしい。これが、白青赤の三色旗を生み出すひとつの背景にあったとも言われる。

 1668年、アレクセイの治世(1645-76)のこと、ロシア最初の軍艦オリョール号が進水した際に、建造を指揮したオランダ人技術者が旗を掲揚する必要性を上申したのに対して、アレクセイが示したものが最初の三色旗だと言われている。
 とはいえ、現物が残っているわけではないし、しかも証言や記録の類も残っていないので、実際にどのようなデザインや色合いであったのか、想像するしかない。現在の国旗のような、白青赤の横三本であったという説もあるが、他方で青十字の右上・左下が赤、左上・右下が白、という不思議なデザイン(☞)であったという説もある。

 そもそも白青赤の三色は、当時のオランダの国旗から借用したものだ、とすら言われる。個人的には、三色を縦に並べるデザインはともかく、色合いはオランダ国旗とは無関係ではないかと思っている(現在のオランダ国旗は赤白青の三色旗)。
 上述のようにこれら三色を使った旗がもともと多かったということもあるし、この三色はまたモスクワの紋章色でもある。すなわちモスクワの紋章は、赤地に青いマントをまとった白銀の騎士を描くのが慣習として定着していた。

 ロシア語では、«赤い красный (krasnyy)» と «美しい красивый (krasivyy)» は同語源である(ゆえに «赤の広場» は «美しい広場» の意なのだ)。青はロシアでは伝統的に «神の母» 聖母マリアの色であった。白は自由と独立の象徴であり、ここから民話の «白いツァーリ белый царь (belyy tsar')» という言い回しが出てきた。

 のち、白青赤は汎スラヴの色とされ、この三色、あるいはそのうち二色がポーランド(白赤)、チェコ(白青赤)、スロヴァキア(白青赤)、スロヴェニア(白青赤)、クロアティア(赤白青)、セルビア(青白赤)、モンテネグロ(青白赤)、ブルガリア(白緑赤)の国旗でも採用されている(ボスニア、マケドニア、ウクライナ、ベラルーシだけが異色)。
 この三色が汎スラヴの色と見なされるようになったのがいつかは判然としないが、あるいはこの考えに基いてロシアの国旗がつくられたのかもしれないし、逆にロシア国旗が白青赤の三色旗であった事実が拡大されてこの三色が汎スラヴの色とされるにいたったのかもしれない。
 もっとも、白青赤の組み合わせは別にスラヴのみに限られない。国旗だけを取ってみても、上記オランダのほかにフランス、ノルウェー、アイスランド、ルクセンブルク(青が淡いが)にも使われている(ヨーロッパ外にも目を向ければその数はさらに増える)。
 なお、のちの時代には白青赤はそれぞれベラルーシ、ウクライナ、ロシアを象徴するものとされたりもした。確かにベラルーシという国名は «ベーラヤ・ルーシ Белая Русь (Belaya Rus')(白いルーシ)» という意味だが、青がウクライナで赤がロシアというのはあくまでも «後知恵» である。

聖アンドレイ旗

 1693年、白海に進水した軍艦に初めて白青赤の三色の中央に黄金の双頭の鷲を描いた旗が掲げられた。以後、双頭の鷲を描いた «だけ» の旗より以上に、三色旗などに双頭の鷲が描かれる、というデザインが広く普及していく(双頭の鷲 «だけ» の旗もしぶとく生き残りはする)。

 以後、ピョートル大帝は北方戦争(1700-21)までの時期に、一説には30以上とも言われる種類の旗を、船舶用だけに限ってもつくっては棄てている。
 とはいえ、その中でも中心的であったのが三色旗(双頭の鷲のあるなしにかかわらず)と聖アンドレイ旗であった。

 

 聖アンドレイは12使徒のひとり聖アンデレのことで、ロシアに最初に福音を伝道した聖人としてロシアではその守護聖人とされていた。ピョートル大帝は、最初に制定した勲章に聖アンドレイ勲章と名付けるなど聖アンドレイに対する信仰が篤かった。
 聖アンデレがばってん形(×)の十字架で殉教した、との伝説から、この形状は «聖アンデレの十字架 Андреевский крест (Andreevskiy krest)» と呼ばれているが、ロシアでは白地に青い聖アンドレイ十字を描いたものが «聖アンドレイ旗 Андреевский флаг (Andreevskiy flag)» と呼ばれている(☞)。
 ちなみに、青地に白い聖アンデレ十字だと、スコットランドの国旗 St. Andrew's Cross になる。

 ピョートルはロシアを世界の海洋大国にするのが夢であった。«ロシア海軍の生みの親» と言われ、自身造船技術を学び、白海・バルト海・黒海・カスピ海の4つの海の制圧に生涯を懸けたピョートルだけに、海軍の旗についてもこだわりがあったのだろう。前述のように30以上もの旗をとっかえひっかえした挙句、ロシアの守護聖人聖アンドレイにちなむ聖アンドレイ旗を海軍に与えた。1712年のことである。
 以後、聖アンドレイ旗は軍艦の掲げる旗として定着し、ために19世紀には一時三色旗ではなく聖アンドレイ旗がロシアの国旗として諸外国に認識された時期があった(日章旗ではなく旭日旗が外国で日本の国旗と勘違いされたのと一緒だ)。
 聖アンドレイ旗(のバリアント)は、こんにちでもロシア海軍の旗として使用され続けている。

 ただし、三色旗も消え去ったわけではない。ピョートル大帝が優先したのが聖アンドレイ旗であったとしても、三色旗もしぶとく生き残った。特に1705年、商船に三色旗を掲げることを義務付ける勅令が出されて以来、民間船舶によって使用されることになった。

«紋章色旗»

 ピョートル大帝以後、双頭の鷲を描いた旗、三色旗、聖アンドレイ旗の3つが、それぞれ様々なバリエーションを伴いつつ競合する時代が続いた。
 このような混乱にさらに拍車をかけたのが、新たな旗の登場である。ここではこれを、«紋章色» を使用した旗、と呼んでおく。«紋章色» が問題となるのは19世紀半ばのことであるが、結果としてできあがったものがこの頃使われたものとほぼ共通なので。
 なお、«紋章色» とは、紋章で中心的に使われている色のことである。この点、後述。

 きっかけは、ピョートル大帝以来増えた «ドイツ人» である。特に女帝アンナ・イヴァーノヴナの治世(1730-40)は宮廷がドイツ人に占拠されたとも見なされたほどだった(実際はさほどでもなかったようだが)。このようなドイツ人の影響力拡大に伴い、ドイツの旗や紋章で一般的だった黒・赤(オレンジ)・金・銀などの色の組み合わせがロシアでも一般化する(現在のドイツ国旗も黒赤金の三色旗である)。
 具体的には、軍の肩章や徽章に黒・オレンジ・金の組み合わせが、すでに女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの時代に現れている。1819年、とある大隊の識別用の軍旗に初めて黒金銀の三色が登場した。

 こうして、18世紀以来徐々に軍に浸透してきた黒・オレンジ・金・銀などの組み合わせは、19世紀に入ると軍から国家機関へと広がり、ニコライ1世の時代(1825-55)には国旗的地位にまで上り詰めた。
 他方、白青赤の三色旗は、ピョートル大帝によって民間船舶用と定められていたが、そこから徐々に一般庶民に浸透していった。市場で、祭りで、庶民が掲げたのはほかでもない白青赤の三色旗であった。
 なお、聖アンドレイ旗がまさに19世紀、外国からロシアの国旗と見なされたことがあったことは上述のとおりである。しかしロシア国内では聖アンドレイ旗は、その使用が事実上海軍にほぼ限定されていたことからも、«国旗として» はあまり馴染みのない旗となっていた。

国旗の制定

 三色旗、«紋章色旗»(それにプラス聖アンドレイ旗)の対立は、アレクサンドル2世の治世(1855-81)になってようやく決着を見る。即位したばかりのアレクサンドル2世に対して、時の紋章院総裁ベルンハルト・ケネーが「白青赤の三色は紋章の色と合致していない。国旗の色は紋章色であるべきだ」と進言したのである。

 

 «紋章色» とは、紋章で使用されている色、紋章で支配的な色のこと。ロシア帝国で言うと、紋章色は18世紀までは必ずしも確定していなかったようだが、19世紀には «金地に黒鷲»、胸には «赤地に青いマントをまとった白銀の騎士» として定着していた(ロシア帝国の紋章についてはこちらのページで説明している)。

 こうして1858年、勅令により、黒黄白の三色旗がロシア帝国の国旗として定められた。すなわち、黒は双頭の鷲、黄は紋章の地の金、白は胸に描かれる銀の騎士である。
 法的に言えば、これがロシア帝国最初の国旗である。

 しかし、黒と黄(金)は18世紀以来、ドイツから輸入された色であった。ロシア人にとっては «紋章色» である以前に、«ドイツ(プロイセン)色» と見えたのだろう。
 以後、法的に黒黄白が国旗とされたものの、一般庶民は相変わらず白青赤を使い続けた。

 なお、ケネーの主張にはふたつ誤りがある。
 白青赤は、確かに双頭の鷲の紋章色ではないかもしれないが、聖ゲオルギオスの紋章色である。
 そもそも、国旗の色が紋章色である国など、ほんの数えるほどしかない。確かにオーストリアとプロイセンはいずれも金地の黒鷲に基く黒金の国旗だが、赤地に金獅子を描くイングランドの国旗は白地に赤十字である。

 

 アレクサンドル2世の治世はまた、旧い双頭の鷲を描いた旗も復活した時期である。このタイプは18世紀から19世紀前半にかけて特殊な用途を除いてあまり使われなくなっていた。

大逆転

 いったんは決着のついたふたつの三色旗の対立を逆転させたのは、ドイツ嫌いのアレクサンドル3世(1881-94)であった。
 1883年、アレクサンドル3世の勅令により、黒黄白の代わりに白青赤が国旗とされた。
 1896年、ニコライ2世の即位式に先立つ問い合わせに対して法務省は、「白青赤だけが国旗であり、それ以外の旗は国旗に非ず」と回答した。これにより最終的に白青赤の三色旗がロシア帝国の唯一の国旗となった。白青赤の三色旗が法的に国旗であったのはわずか34年間でしかないのだ。

 なお、黒黄白は廃止されたわけではないが、ロマーノフ家の «プライベートな» 旗と見なされることになる。

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最終更新日 17 01 2013

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