ミハイール・ダヴィドヴィチ
Михаил Давыдович
モローガ公 князь Моложский (1321-62)
生:?
没:1362
父:ヤロスラーヴリ公ダヴィド・フョードロヴィチ (ヤロスラーヴリ公フョードル・ロスティスラーヴィチ黒公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | フョードル | -1408 | モローガ | |||
2 | イヴァン | -1380 | ||||
アレクサンドル | ||||||
レフ |
第15世代。モノマーシチ(ヤロスラーヴリ系)。
1321年、父の死で遺領を兄ヴァシーリイ雷眼公と分割。モローガを分領とした。
1345年、ヴァシーリイ雷眼公が死去。当然ミハイール・ダヴィドヴィチがヤロスラーヴリ公位を継ぐはずだったが、なぜか遺児ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチが継いでいる。そしてこれ以降、ヤロスラーヴリ系では兄弟相続がなく、常に長子相続。
あるいは当時北東ルーシでようやく兄弟相続から長子相続に移行しようとしていたのかもしれない。もっとも、例えばトヴェーリで長子相続になったと言えるのは80年後だし、スーズダリは結局最後まで兄弟相続。モスクワでも、本家スモレンスクでも、系図だけ見るとこの頃から長子相続に移行しているかに思えるが、これはたまたま代々叔父たちが早世していただけのこと。
それを考えると、なおさらなぜこの時ミハイール・ダヴィドヴィチがヤロスラーヴリ公位を継がなかったのか不審である。
モスクワ公セミョーン傲慢公によりトルジョークに代官として派遣される。しかしノーヴゴロド軍の反撃を受け、捕虜となった。
1362年、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイとともにサライに赴いたらしい。
これらからすると、モローガを領有する分領公であったとはいえ、ミハイール・ダヴィドヴィチは実質的にモスクワ公の勤務公となっていたのかもしれない。