イヴァン・ヴァシーリエヴィチ «ボリショーイ»
Иван Васильевич "Большой"
ヤロスラーヴリ公 князь Ярославский (-1426)
生:?
没:1426
父:ヤロスラーヴリ公ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ (ヤロスラーヴリ公ヴァシーリイ雷眼公)
母:?
結婚:
& アンナ公女 (ロストーフ=ボリソグレーブスキイ公イヴァン・アレクサンドロヴィチ若牛公)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ロマーン | |||||
2 | アレクサンドル | -1455 | ||||
3 | ヴァシーリイ | |||||
4 | ヴォイン | -1455 | クールバ | |||
5 | セミョーン | クールバ | ||||
6 | マリーヤ | アレクサンドル・フョードロヴィチ | 1392-1435 | ミクーリン公 |
第17世代。モノマーシチ(ヤロスラーヴリ系)。
生年は不明。父の生年が1339年なので、1370年前後、といったところだろうか。
父の没年は不明だが、おそらくその死後ヤロスラーヴリ公位を継いだ。はっきりはしないものの、おそらくその時に、弟たちにも分領を分け与えたものと思われる。この頃からヤロスラーヴリ公領は小さな分領に細分化されていくことになる。
年代記への初出は1410年。この年、ダニイールとイヴァンのボリーソヴィチ兄弟が、モスクワに奪われた父祖の地ニージュニイ・ノーヴゴロドを奪回しようと軍を興す。イヴァン・ヴァシーリエヴィチは、モスクワ大公ヴァシーリイ1世の派遣した軍に従い、これの鎮圧に赴いた。しかしモスクワ軍は撃退され、ニージュニイ・ノーヴゴロドは一旦ボリーソヴィチ兄弟に奪われる。
1412年には、ヴァシーリイ1世に従ってサライに伺候。
死因は年代記には記されていないが、当時は疫病(おそらく «黒死病»)が流行していた時であり、おそらくイヴァン・ヴァシーリエヴィチもこれにやられたものと思われる。
添え名の «ボリショーイ» は「大きい」という意味。「偉大な」という意味ではなく(それは «ヴェリーキイ»)、ただ単に同じくイヴァンという名の弟がいて、それと区別するため。