リューリク家人名録

ダニイール・アレクサンドロヴィチ «ペンコー»

Даниил Александрович "Пенко", "Пенько"

князь ?
ボヤーリン боярин (1500-)

生:?
没:1520

父:ヤロスラーヴリ公アレクサンドル太鼓腹公ヤロスラーヴリ公フョードル・ヴァシーリエヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1アレクサンドル-1506
2ヴァシーリイ-1552
3イヴァン-1544

第19世代。モノマーシチ(ヤロスラーヴリ系)。モスクワ大公の勤務公。

 生年は不明。
 父は1463年にヤロスラーヴリ公位を失っている。ゆえにダニイール・アレクサンドロヴィチはもはや分領公ではなく、公の称号は持たない。もっとも、父は1463年以降もヤロスラーヴリ公を名乗り続け、ダニイール・アレクサンドロヴィチ(及びその子孫)を公と呼んでいる史料もある。どちらかはっきりしない。

 父はヤロスラーヴリ公領を失った後も、終生ヤロスラーヴリに住み続けたようだが、ダニイール・アレクサンドロヴィチは積極的にモスクワ大公イヴァン3世に仕えた。
 おそらくまだ若かった1469年(父も存命中)、カザン総督に任じられる。以後カザン・ハーン国との関係が深く、1485年には一時期、ダニイール・アレクサンドロヴィチの自宅に、廃位された元カザン・ハーンのムハンマド=アミンとその一家が暮らしていたこともある。1500年には、クリム・ハーン軍がカザンに襲来した際に、救援軍を率いている。

 その一方で、1492年以降はリヴォニアにも何度か派遣され、リヴォニア騎士団やリトアニアと戦う。1501年にはプスコーフ防衛に派遣されるが、3週間を無為に過ごした。このためプスコーフ市民からイヴァン3世に不満の声が寄せられ、イヴァン3世も改めて即座にリヴォニア軍を追うよう命ずるが、それでもダニイール・アレクサンドロヴィチは重い腰を上げなかった。
 1502年にもリヴォニア騎士団と戦い、大敗を喫する。しかし援軍を得て、逆に大勝利を収めた。

 また、ノーヴゴロド代官(1493-95)、父祖の地ヤロスラーヴリの総督(1496-97)を務めた。

 ペニコーフ家(ペンコーフ家)の祖。

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