フセーヴォロド・フセヴォローディチ
Всеволод Всеволодич
チェルヴェン公 князь Червенский (1207)
生:?
没:?
父:ベリズ公フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ (ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:?
第12世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。
史料上は、父称が欠けているので、父が誰かは正確には不明。年代記でアレクサンドルの弟とされているので、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチの子であろうとされているにすぎない。
なお、アレクサンドルとの関係についても、弟かどうかははっきりしない。記述内容から見てそうだろうと考えられているだけである。厳密に言えば、当時は「兄弟(ブラート)」という言葉を「従兄弟(ドヴォユーロドヌィイ・ブラート)」だの「又従兄弟(トロユーロドヌィイ・ブラート)」だのに対しても使ったりしていたようなので、フセーヴォロドとアレクサンドルの関係も兄弟ではなく従兄弟だったりする可能性はある(諸公も通常お互いを「ブラート」と呼んでいた)。
なぜ血縁関係にこだわるかと言うと、父と名前が同じ、というのは当時のリューリコヴィチでは非常に珍しかったからだ。
これ以前にはローグヴォロド・ボリーソヴィチ(ローグヴォロド・ログヴォローディチ)とヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチ(ヴラディーミル・ヴラディーミロヴィチ)のふたりがいるが、いずれも問題が多い(それぞれの父親の項を参照)。それどころか、これ以降のスヴャトスラーフ・スヴャトスラーヴィチもイングヴァーリ・イングヴァーレヴィチも、必ずしも父子関係が明らかではない。イングヴァーリ・イーゴレヴィチにしても、果たして本当にイングヴァーリとイーゴリは同じ名なのかという問題がある。イヴァン・イヴァーノヴィチについてはよくわからない。
フセーヴォロド・フセヴォローディチと同時期のムスティスラーフ幸運公(ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ)では父子関係が明らかだが、父の死後に生まれたのではないかと考えられている。それほど、当時のリューリコヴィチにおいては父と同じ名を子が持つということはあり得ないことだった。と言うのも名前には呪術的な意味が込められ、生者(父に限らず)と同じ名を新生児につけるのは禁忌とされていたからである。フセーヴォロド・フセヴォローディチも、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチの子だとしても、その死後に生まれたということも考えられる。
ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチが、1300年以前で、父子関係が文献上明らかで、かつ父の生前に生まれたことが確実な、父子で全く同じ名前を共有する唯一の例である。14世紀以降は、父子で名前を共有するのはむしろ一般的となった。
1207年にチェルヴェン公として年代記に登場する。
1213年、アレクサンドル・フセヴォローディチとともに、ポーランド軍に従ってガーリチに侵攻する。