シュヴァルン・ダニイーロヴィチ
Шварн/Шеварн Даниилович, Švarnas
ホルム公 князь Холмский (1264-69)
リトアニア大公 князь Литовский (1267-69)
生:?
没:1269
父:ガリツィア王ダニイール・ロマーノヴィチ (ガーリチ=ヴォルィニ公ロマーン偉大公)
母:アンナ (トローペツ公ムスティスラーフ幸運公)
子:?
第13世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。
ダニイーロヴィチ兄弟の生年ははっきりしないが、おおよそ1230年頃と考えられているようだ。
シュヴァルン(時にシェヴァルン)というのは、かなり特殊な名である。ロシア語の名前でもなければ、キリスト教的な名前(要するに聖書の登場人物や聖者の名前)でもなさそうだ。
フセーヴォロド大巣公の妻の父が「ボヘミア王シュヴァルン」とされているが、あるいはそれと何か関係があるのか? なお、言うまでもないことながら、ボヘミアにはそんな名前の王もいなければ、そもそもそんな名前もない。近年ではフセーヴォロド大巣公の妻の父は、カフカーズの部族のボスだと考えられている。
ローマの氏族名セウェリヌス Severinus から来た名だ、とする学者もいるが、かなり無理がある気がする。
ダニイーロヴィチ兄弟には、ロマーンやムスティスラーフといった «オーソドックス» な名前もあるが、イラークリイ、レフ、そしてこのシュヴァルンという、リューリコヴィチ一族ではほかに見られない名前もある。イラークリイというのはギリシャの男性名ヘラクレイオスから来た名前だが、なぜかグルジアで多く見られる。フセーヴォロト大巣公の妻の父の素性も考え合わせてみると、シュヴァルンという名前もあるいはカフカーズに由来するのかもしれない(だとしてもなぜカフカーズに由来する名前がつけられたかは不明)。
1245年、父に従い、ガーリチに侵攻したハンガリー軍・ポーランド軍と戦った。
1255年、父とリトアニア大公ミンダウガスとの講和に際して、ミンダウガスの娘と結婚。
1263年、ミンダウガスが、サモギティア公(?)トレニオタとナルシア公(?)ダウマンタスに殺される。トレニオタがリトアニア大公となるが、遺児ヴァイシュヴィルカスがこれに反発。
ピンスクに逃れたヴァイシュヴィルカスは、1264年、在地の従士団、ノーヴゴロドのボヤーリンたち、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヴァシリコ・ロマーノヴィチ、そして妹婿であるシュヴァルン・ダニイーロヴィチの支援を得て、トレニオタを倒し、ダウマンタスをプスコーフに追い、反対派を打倒して、リトアニア大公位を獲得した(ダウマンタスはプスコーフ公となった)。
これ以降シュヴァルン・ダニイーロヴィチは、ヴァイシュヴィルカスの妹婿として、義兄の支配下のリトアニアで大きな影響力を持ったらしい(共同統治していたとする史書もある)。
1264年、父が死去。兄レフ・ダニイーロヴィチがガリツィア・ロドメリア王位を継承するが、シュヴァルン・ダニイーロヴィチもホルム(現ヘウム、ポーランド)を中心とした分領を相続したらしい(おそらくはガーリチ北部だろう)。
ホルムは父が、荒廃したガーリチに代わってもっぱら居住した都市であり、あるいはこれをシュヴァルン・ダニイーロヴィチが相続したためか、Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 などは、ガリツィア・ロドメリア王位を継いだのはレフ・ダニイーロヴィチではなくシュヴァルン・ダニイーロヴィチだ、としている。
ヴァイシュヴィルカスはすでに20年前に正教に改宗しており、修道士として長年暮らしてきていた。アトス山への巡礼も試みていたし(ブルガリアの情勢が悪かったため途中で帰国)、リトアニアに修道院を創設してもいる。
1267年(68年?)、ヴァイシュヴィルカスは、再び修道士生活に戻り、リトアニア大公位をシュヴァルン・ダニイーロヴィチに譲った。ちなみにシュヴァルン・ダニイーロヴィチはリトアニア語では「シュヴァルナス」。
1269年か70年、ケルナヴェ公トライデニスにリトアニア大公位を奪われた。
リトアニアにおけるミンダウガスの権力集中過程は不明だが、1240年代にモンゴル襲来直後のルーシに進出を開始した頃には、すでにミンダウガスが諸侯の上に優越する地位を築いていた。しかしそのほんの20年前までは、リトアニアは諸侯が群雄割拠する国であり、生まれたばかりの «王権» も不安定で、これに反発する諸侯や地方の勢力も根強かった。
加えて、ミンダウガスが北のリヴォニア騎士団、西のドイツ騎士団に対抗するためにキリスト教に改宗すると、これに対する反発も加わった。
ミンダウガスが殺されたのも、このふたつの要素が微妙に交錯した結果と言える(ちなみにトレニオタは «異教徒» で、ミンダウガスの改宗に反発する異教勢力のリーダーだったと考える学者もいる)。
ヴァイシュヴィルカスに続いて、同じくキリスト教徒のシュヴァルンがリトアニア大公となると、«異教» 勢力の反発も強まる。トライデニスが «異教徒» であったことからも、シュヴァルン・ダニイーロヴィチ廃位の背景には宗教問題が大きな要素として存在したことは疑いない。
さらには1269年、シュヴァルン・ダニイーロヴィチとともにリトアニアに大きな影響力を持っていたヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヴァシリコ・ロマーノヴィチが修道士となっている(この年に死んだとも言われる)。これもシュヴァルン・ダニイーロヴィチの権力弱体化をもたらす一因だったであろう。
ちなみに、リトアニアのキリスト教への改宗は120年後のこととなる。
リトアニア大公位を失った年、死亡した年、そしてその状況など、不明な点が多い。
遺骸はホルムに埋葬された。