ムスティスラーフ・イズャスラーヴィチ
Мстислав Изяславич
ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский (1146-49、51-55)
ルーツク公 князь Луцкий (1155-57)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1157-70)
キエフ大公 великий князь Киевский (1168-69、69-70)
生:?
没:1170.08.19−ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ
父:ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ (キエフ大公ムスティスラーフ偉大公)
母:アグネス (神聖ローマ皇帝コンラート3世)
結婚:1149/51
& アグニェシュカ 1137-82 (ポーランド王ボレスワフ3世唇曲王)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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アグネーサ・ボレスラーヴォヴナと | ||||||
1 | スヴャトスラーフ | -1173 | ヴォルィニ | |||
2 | ロマーン | -1205 | ヴォルィニ | プレツラーヴァ | キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチ | |
アンナ | ビザンティン皇女? ハンガリー王女? | |||||
3 | フセーヴォロド | -1195 | ベリズ | |||
ヴラディーミル | ブレスト |
第10世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。洗礼名フョードル。
生年は不明だが、両親の結婚が1130年頃である以上、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチの生年もそれ以降でしかあり得ない。ただし結婚が1120年代後半にずれる可能性はあるし、よって、その経歴から長男と想像されるムスティスラーフ・イジャスラーヴィチの生年も1120年代である可能性は否定できない(何に依ったか1125年頃とする文献もある)。
1146年、キエフ大公となった父からペレヤスラーヴリを与えられる。
父のキエフ大公就任には、大叔父のロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイが異議を唱え、さらにノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチも父と対立していた。両陣営の戦いが激しく繰り広げられるが、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはこれといった活動をしていないようだ。あるいはまだ若かったということなのか。
1149年、父がユーリイ・ドルゴルーキイによりキエフを追われると、ペレヤスラーヴリもあっさり奪われた。
1150年、ユーリイ・ドルゴルーキイに奪われたペレヤスラーヴリを奪回するために派遣されるが、これは果たせず。また1151年には父の支援にかけつけたハンガリー軍を率いるが、ユーリイ・ドルゴルーキイの同盟者であるガーリチ公ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチに敗北する。しかし父はキエフ大公位を奪回し、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチも再びペレヤスラーヴリ公とされた。
なお、この頃父からドロゴブージュとルーツク(ともにヴォルィニ内)を分領としてもらったとも言われる。
1153年、2度にわたりポーロヴェツ人を破る。
1154年、父が死去。
ペレヤスラーヴリ公と言えば、曾祖父ヴラディーミル・モノマーフ、大叔父ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ、そして父も、キエフ大公になる前に占めていた座である。一昔前までは、誰がペレヤスラーヴリ公になるかを巡って内紛が起こっていた。1146年にはそのような事態には陥らなかったものの、おそらく依然としてペレヤスラーヴリ公が «次期キエフ大公筆頭候補» であっただろう。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチがペレヤスラーヴリ公とされたのも父の長男だからだろうし、1149年にキエフ大公となった際にはユーリイ・ドルゴルーキイも長男(?)ロスティスラーフをペレヤスラーヴリ公としている。
であってみれば、父の死で、当然ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチがキエフ大公の有力候補となったはずだし、かれ自身にも野心はなかったわけではあるまい。
しかしその一方、当時のキエフ・ルーシでは、依然として父子相続は稀で、兄弟相続、正確には年長者相続が一般的だった。モノマーシチ一族内の最年長者の権利は、別の大叔父ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチに、ムスティスラーヴィチ一族(祖父ムスティスラーフ偉大公の子孫)内の最年長者の権利は、叔父ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチにあった。そのヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、父の最晩年に父と権力を分け合っていた。
ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチと協議し、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチをスモレンスクから招聘した。そして無事ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフに来て、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチとの二頭体制を発足させると、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはペレヤスラーヴリに帰還した。
この時、ペレヤスラーヴリにポーロヴェツ人が来襲。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの支援も得てこれを撃退する。
他方ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは、チェルニーゴフ公イジャスラーフ・ダヴィドヴィチと戦っており、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはその救援に駆け付ける。しかしロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはイジャスラーフ・ダヴィドヴィチに講和を提案。これに反発したムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはペレヤスラーヴリに帰還した。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはイジャスラーフ・ダヴィドヴィチに敗北し、キエフを追われた。
ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチもペレヤスラーヴリを去り、ルーツクに逃亡した。
なぜルーツクなのか少々不思議ではある。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはヴォルィニの公になったことはないし、父がヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公だったのもほんの一時期だけだ。しかし父は1146年にキエフ大公になって以来(あるいは1135年に自らがヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公となって以来)、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公には自らに忠実な近親を配し、言わば本拠地として勢力の扶植に努めてきていた。おそらくそういうことなのだろう。
1155年、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチからキエフ大公位を奪ったユーリイ・ドルゴルーキイは、ルーツクにガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルを差し向ける。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはルーツクに弟ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチを残し、ポーランドへ。ポーランド王ボレスワフ4世巻毛王に救援を要請する。
チェルニーゴフ系諸公との同盟に不安を覚えるユーリイ・ドルゴルーキイは、ポーランドまで加わって争いが長期化しては事態の収拾がつかなくなると考えたのか、イジャスラーヴィチ兄弟と講和。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチのルーツク公位を認めた。
しかしヴォルィニでは、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公の叔父ヴラディーミル・マーチェシチが、父の死後、ユーリイ・ドルゴルーキイの側に立っていた。ブレスト公ヴラディーミル・アンドレーエヴィチの支持も得たムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは、1157年、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイに侵攻し、ヴラディーミル・マーチェシチをヴォルィニからハンガリーに追う。
こうしてヴォルィニを掌握したムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは、スモレンスク公のロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチに加えて、チェルニーゴフ公イジャスラーフ・ダヴィドヴィチとも同盟し、ユーリイ・ドルゴルーキイに対する包囲網を固めていった。
1157年、ユーリイ・ドルゴルーキイが死去。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチがキエフ大公となる。
ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはイジャスラーフ・ダヴィドヴィチとの同盟を破棄し、仇敵であった隣国のヤロスラーフ・オスモムィスルと結んだ。1158年には揃ってキエフに侵攻し、ベールゴロドを占領する。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチの反撃を打ち破り、これをステップのポーロヴェツ人のもとに追いやった。
キエフを占領したムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを呼び寄せる。1159年、ようやくキエフに赴いたロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチから、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはベールゴロド、トルチェスク、トリポーリ(いずれもキエフ公領)をもらうが、依然としてヴラディーミル=ヴォルィンスキイに居住を続けた。
1162年、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチがキエフを奪回し、ベールゴロドを攻囲。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは再びヤロスラーフ・オスモムィスルとともに救援に向かう。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチは逃亡するが、その途中でテュルク人に殺された。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフ大公に返り咲く。
3度にわたって叔父にキエフ大公位を確保してやったムスティスラーフ・イジャスラーヴィチと、甥に大公位をもらったロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチとの間に、やがて対立が生じる。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子らのうち、ダヴィドがトルチェスクを、ムスティスラーフがベールゴロドを占領。さらに諸公を味方につけたロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチに対抗するすべを持たず、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは1163年に屈服。トルチェスクとベールゴロドを返還してもらった。
以後は、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはヴォルィニで大人しくしていたようだ。
1167年、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。
当時キエフ大公位を要求し得る者は、大きく3人いた。ひとりはイジャスラーフ・ダヴィドヴィチで、キエフ大公の子ではないながらも自らキエフ大公になったことがあり、しかも(おそらく)全リューリコヴィチの最年長者でもあった。もうひとりはヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキイで、ユーリイ・ドルゴルーキイの子であり、(おそらく)モノマーシチ一族の最年長者であった。最後が、モノマーシチ一族の一部であるムスティスラーヴィチ一族の最年長者であった、叔父たちの唯一の生き残りであるヴラディーミル・マーチェシチだった。
ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは父の死後、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと協調しつつ、ムスティスラーヴィチ一族によるキエフ大公位独占を図って他の勢力と戦ってきた。当然ここでもヴラディーミル・マーチェシチを支持すべきであったが、以前からユーリイ・ドルゴルーキイの同盟者としてムスティスラーフ・イジャスラーヴィチと対立していたヴラディーミル・マーチェシチには、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとしても大公位を譲る気にはなれるはずもない。
ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルの支援も得たムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは、自らキエフに乗り込み、キエフ大公となる。
しかしムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチとの晩年のぎくしゃくした関係を引きずったのか、あるいはヴラディーミル・マーチェシチの最年長者としての権利を尊重したのか、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの遺児たち(ロスティスラーヴィチ兄弟)は、ヴラディーミル・マーチェシチと結んでムスティスラーフ・イジャスラーヴィチと対立。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはヴラディーミル・マーチェシチをヴィーシュゴロドに攻囲するが、ロスティスラーヴィチ兄弟と結んだヴラディーミル・マーチェシチの抵抗に遭い、講和を余儀なくされた。
なおこの時、空位であったノーヴゴロド公に息子ロマーンを据える(翌年の対ポーロヴェツ戦勝の後?)。
1168年、12人の公を招集してポーロヴェツ人に対して遠征。大勝利を得て帰還した。
しかしこの頃、アンドレイ・ボゴリュープスキイが北東での覇権を確立。ノーヴゴロド公に息子を派遣したムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに反発し、モノマーシチ一族内での年長権を主張して南ルーシへの介入を始めていた。ロスティスラーヴィチ兄弟もこれに接近。さらに、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに追われたヴラディーミル・マーチェシチもアンドレイ・ボゴリューブスキイのもとに逃亡。
こうしてアンドレイ・ボゴリューブスキイが徐々に勢力を拡大していくと、これに力を得た南ルーシ諸公もムスティスラーフ・イジャスラーヴィチから離反していく。かつてのユーリイ・ドルゴルーキイとイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの対立が、そのままそれぞれの息子に引き継がれた形となった。
1169年、アンドレイ・ボゴリューブスキイが息子ムスティスラーフを派遣すると、10人の南ルーシ諸公がこれに合流する。
ヴィーシュゴロドに結集した反ムスティスラーフ連合軍がキエフに侵攻すると、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは籠城して抵抗するが、結局キエフから逃亡。弟ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチと合流してヴラディーミル=ヴォルィンスキイへと逃げた。
アンドレイ・ボゴリューブスキイは弟グレーブ・ユーリエヴィチをキエフ大公とした。
ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチとヤロスラーフ・オスモムィスルの支援を得たムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは、1170年、まずはヴラディーミル・マーチェシチのドロゴブージュに侵攻。これは陥とせなかったものの、グレーブ・ユーリエヴィチがポーロヴェツ人と戦うためにペレヤスラーヴリに出陣した隙を衝いてキエフを攻略。さらにヴィーシュゴロドにダヴィド・ロスティスラーヴィチ(ロスティスラーヴィチ兄弟のひとり)を攻める。
しかし攻囲戦が続く間にグレーブ・ユーリエヴィチが帰還した。劣勢に立たされたムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイに逃げ帰った。
さらにキエフ奪回を図るが、果たせぬまま死去した。