イズャスラーフ・ムスティスラーヴィチ
Изяслав Мстиславич
クールスク公 князь Курский (1125-29)
ポーロツク公 князь Полоцкий (1129-32)
ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский (1132、42-46)
トゥーロフ公 князь Туровский (1132-34)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1134-41、49-51)
キエフ大公 великий князь Киевский (1146-49、51-54)
生:1096
没:1154.11.13
父:キエフ大公ムスティスラーフ偉大公 (キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ)
母:クリスティーナ (スウェーデン王インゲ1世年長王)
結婚①:1129/30
& アグネス? 1115-51 (皇帝コンラート3世)
結婚②:
& ? (リトアニア人)
結婚③:1154
& ? (グルジア人?)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
アグネーサ・コンラードヴナと | ||||||
1 | ムスティスラーフ | -1170 | ヴォルィニ | アグニェシュカ | 1137-82 | ポーランド王ボレスワフ3世曲唇王 |
2 | ヤロスラーフ | -1180 | ルーツク | |||
? | ローグヴォロド・ボリーソヴィチ | ポーロツク公 | ||||
3 | エヴドキーヤ | ミェシュコ3世老王 | -1202 | ポーランド王 | ||
4 | ヤロポルク | -1169 | ブージュスク | マリーヤ | 1149-89 | チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ |
第9世代。モノマーシチ。洗礼名パンテレイモーン。ムスティスラーフ偉大公の次男。
ヴォルィニ系モノマーシチの始祖。
1125年、祖父ヴラディーミル・モノマーフが死に、父ムスティスラーフ偉大公がキエフ大公となる。
ムスティスラーヴィチ兄弟の長男はフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチで、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは次男だった。しかしフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチはノーヴゴロド公で、しかもノーヴゴロドは当時民会に結集した市民が公の支配からの脱却傾向を強めており、言わば足元に火がついた状態にあった。このため、南ルーシで父に従って活動するのは、もっぱらイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの役割となる。
1127年、叔父ペレヤスラーヴリ公ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチにより、クールスクを与えられる。叔父とともに、最前線で対ポーロヴェツ戦に従事することになる。
1127年、父によりポーロツクに派遣され、ダヴィド・フセスラーヴィチに替えてローグヴォロド・フセスラーヴィチをポーロツク公とする。
1129年、父はポーロツク諸公にポーロヴェツ人遠征への従軍を要請。これを拒絶されると、ポーロヴェツ人遠征を終えた父が、ポーロツク諸公をキエフに召喚。ダヴィド & スヴャトスラーフのフセスラーヴィチ兄弟とその家族をコンスタンティノープルに派遣(ていのいい追放)。代わりにイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがポーロツク公となった。
最初の結婚はこの頃と考えられる。すでにイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチも立派な大人になってはいたが、おそらく父による政略結婚だったろう。
その結婚相手だが、ロシア側の文献では「不明」とされていたり、「コンラート3世の妹」とされていたりもするが、少なくともわたしの確認した限り、ドイツ側の文献ではしっかり「コンラート3世の娘」となっていた(ただし名前は不明)。年齢的には「妹」でもおかしくはないが。
この当時ドイツでは、ザクセン公ロタールとシュヴァーベン公コンラート(コンラート3世)がそれぞれ «ドイツ王» を名乗り対立していた(対立状態は1138年まで続く)。さて、この結婚はどちら側のどんな思惑で実現したのだろう。
1130年、兄フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチに従ってチューディ人遠征。
1132年、父が死去。叔父ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチがキエフ大公位を継ぐ。
兄フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチはヤロポルク・ヴラディーミロヴィチにペレヤスラーヴリ公とされた。言わば «皇太子» の地位を与えられたものと言っていいだろう。ところがこの措置は、叔父たちがキエフ大公位を継ぐ権利を無視するものであったから、トゥーロフ公ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ、ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公アンドレイ善良公という3人の叔父たち(ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチの弟)の反発を招く。
フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチはユーリイ・ドルゴルーキイによってペレヤスラーヴリから追われ、ユーリイ・ドルゴルーキイを追ったヤロポルク・ヴラディーミロヴィチによって、今度はイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがペレヤスラーヴリ公とされた。
しかし当然事態は沈静化せず、叔父たちの反発は続く。しかもイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの後任としてポーロツク公となった弟のスヴャトポルク・ムスティスラーヴィチが市民に追われ、ポーロツクはミンスクを除いてかつてのポーロツク系一族に奪還されてしまう。
事ここに至って事態の収拾を図ったヤロポルク・ヴラディーミロヴィチにより、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはミンスクとトゥーロフを与えられ、代わってヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチがペレヤスラーヴリ公となった。
«キエフ大公位の後継者» の地位を与えられたヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチだったが、ポーロヴェツ人との最前線に位置して落ち着かないペレヤスラーヴリを嫌い、1134年、トゥーロフを奪還する。ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはユーリイ・ドルゴルーキイにペレヤスラーヴリを、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチにはロストーフを与えた。
しかしペレヤスラーヴリは、その公位こそ一種 «皇太子» 的な高い地位にあったが、実際の公領はポーロヴェツ人との最前線で安定的な領地経営が進んでおらず、勢力基盤としては脆弱この上ない。ユーリイ・ドルゴルーキイはロストーフを手放そうとはしなかった。このためミンスク周辺のわずかな領土しか手元に残らないイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、甥の権利を無視した叔父たちを見限り、ノーヴゴロドの兄フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチに泣きついた。
1135年、ムスティスラーヴィチ兄弟はノーヴゴロド軍を率いてロストーフ=スーズダリに侵攻。しかしノーヴゴロド市民に反フセーヴォロド派の動きが活発化し、軍は瓦解。
イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、キエフ大公位を虎視眈々と狙っているチェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチと同盟し(妹婿でもある)、ペレヤスラーヴリを攻囲。さらにヴィーシュゴロドにも侵攻するが、どちらも陥とせず。一方でユーリイ・ドルゴルーキイもチェルニーゴフに侵攻するが、これを奪えず。
しかしこれが効いたか、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチは改めて諸公を編成し直し、ユーリイ・ドルゴルーキイをロストーフに帰し、アンドレイ善良公をペレヤスラーヴリ公として、その領土ヴラディーミル=ヴォルィンスキイをイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに与えた。
この辺り、少々煩雑なので、とりあえず表にしてみた。
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ | ペレヤスラーヴリ | トゥーロフ | |
---|---|---|---|
アンドレイ善良公 | ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | |
1132 | フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ | ||
1132 | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | ||
1132 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | |
1134 | ユーリイ・ドルゴルーキイ | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | |
1135 | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | アンドレイ善良公 | |
1141 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | |
1141 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ |
1146 | ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ | ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ |
1138年、兄フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチが死去。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがムスティスラーヴィチ兄弟の最年長者となる。
1139年、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチが死去。ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチがキエフ大公位を継ぐ。さすがに年長者に優先権があるという慣習は崩されなかった。しかしイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチにも、叔父たちに対する不満は残っていたことだろう。
この時、チェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチがイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに、自分の後キエフ大公位をイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに譲ることを条件に協力を要請。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはこれを呑み、フセーヴォロド・オーリゴヴィチがヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを追ってキエフ大公となった。
しかし途端にフセーヴォロド・オーリゴヴィチは、従兄弟イジャスラーフ・ダヴィドヴィチをヴラディーミル=ヴォルィンスキイに差し向ける。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、何とか自分の分領を護り抜いた。
1141年、アンドレイ善良公が死去。フセーヴォロト・オーリゴヴィチはペレヤスラーヴリをヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチに与えた。しかしこの措置に、フセーヴォロド・オーリゴヴィチを除くスヴャトスラーヴィチ一族が反発。ペレヤスラーヴリに侵攻した。
イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはフセーヴォロド・オーリゴヴィチとともにヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチの救援に向かい、こうして奇妙な三者連合が成立した。
ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチはペレヤスラーヴリを嫌い、再びトゥーロフに帰還。そして今度こそイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがペレヤスラーヴリ公となった(ヴォルィニはフセーヴォロド・オーリゴヴィチの子)。以後、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはフセーヴォロド・オーリゴヴィチとの友好関係を維持する。
他方、もうひとりの叔父ユーリイ・ドルゴルーキイとも和解しようと、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはスーズダリに赴き交渉するが、決裂。ノーヴゴロド公となった弟スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチを訪ね、ペレヤスラーヴリに帰還した。
1144年、フセーヴォロド・オーリゴヴィチとともにガーリチに侵攻してヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチと戦う。
1145年、フセーヴォロド・オーリゴヴィチは、弟イーゴリ・オーリゴヴィチをキエフ大公の後継者に指名。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、1139年の約束を盾に当初は反発したが、結局これを承諾。
1146年、フセーヴォロド・オーリゴヴィチが死去。イーゴリ・オーリゴヴィチがキエフ大公となったが、キエフ市民はイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを招聘(キエフ市民はフセーヴォロド・オーリゴヴィチを嫌っていたらしい)。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフ大公となり、イーゴリ・オーリゴヴィチをペレヤスラーヴリの修道院に幽閉。そのペレヤスラーヴリは長男ムスティスラーフに与え、また勝手な行動を採る叔父ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチからトゥーロフを取り上げて次男ヤロスラーフに与え、さらにはフセーヴォロド・オーリゴヴィチの息子からヴラディーミル=ヴォルィンスキイを取り上げて従兄弟ヴラディーミル・アンドレーエヴィチに与えた。
これに対してイーゴリ・オーリゴヴィチの弟、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチは、ユーリイ・ドルゴルーキイと同盟。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、チェルニーゴフ公ヴラディーミル & イジャスラーフのダヴィドヴィチ兄弟と同盟する。
ダヴィドヴィチ兄弟が苦戦する中、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはプティーヴリに侵攻し、これを占領。スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチがノーヴゴロド=セーヴェルスキイを棄ててヴャーティチ人の地に逃亡すると、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはスヴャトスラーヴィチ一族の «ヴォーッチナ(父祖の土地)» をすべてダヴィドヴィチ兄弟に与える。
こうしてイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、南ルーシ一帯に覇権を確立した。のみならず、ノーヴゴロド、スモレンスク、ポーロツクも一族が押さえ、ムーロムの支持も得て、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの勢力はほぼキエフ・ルーシ全域に及んだ。
公領 | 公 | 血縁 |
---|---|---|
キエフ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | 本人 |
トゥーロフ | ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ | 子 |
ヴォルィニ | ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ | 従兄弟 |
ガーリチ | ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチ | |
ペレヤスラーヴリ | ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | 子 |
チェルニーゴフ | ダヴィドヴィチ兄弟 | |
セーヴェルスキイ | ||
ムーロム | ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ | |
ロストーフ | ユーリイ・ドルゴルーキイ | 叔父 |
スモレンスク | ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ | 弟 |
ノーヴゴロド | スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチ | 弟 |
ポーロツク | ローグヴォロド・ボリーソヴィチ | 娘婿 |
イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに反発する勢力として第一が、キエフ大公位の継承権を奪われた叔父のユーリイ・ドルゴルーキイと、兄の大公位を奪われ自身の分領まで奪われたスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチだった。ふたりは同盟し、1147年、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイを奪還。これに脅威を覚えたダヴィドヴィチ兄弟は、スヴャトスラーフ & ユーリイ側に寝返る。
これに対してイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、ペレヤスラーヴリでグレーブ・ユーリエヴィチ(ユーリイ・ドルゴルーキイの子)を破り、さらにチェルニーゴフに侵攻。ダヴィドヴィチ兄弟の領土を焼き打ちし、キエフに帰還した。
1148年には父と喧嘩したロスティスラーフ・ユーリエヴィチ(ユーリイ・ドルゴルーキイの子)が寝返り、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ、ヴォルィニ、ハンガリーの援軍も得て、チェルニーゴフに侵攻。ダヴィドヴィチ兄弟を講和に追い込んだ。
続いて、キエフに弟ヴラディーミル・マーチェシチを残し、スモレンスクへ。さらに北上し、ノーヴゴロド公を弟スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチから息子ヤロスラーフに替え(スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチにはヴラディーミル=ヴォルィンスキイを与えた)、スモレンスク軍、ノーヴゴロド軍を率いてロストーフ=スーズダリを攻略した。
1149年、ユーリイ・ドルゴルーキイはスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチとともに、ポーロヴェツ人をも率いてキエフに侵攻。イジャスラーフとロスティスラーフのムスティスラーヴィチ兄弟はペレヤスラーヴリ近郊で敗北し、イジャスラーフはヴォルィニへ、ロスティスラーフはスモレンスクへ、それぞれ逃亡した。ユーリイ・ドルゴルーキイがキエフ大公となった。
さらにユーリイ・ドルゴルーキイがヴォルィニに攻め込み、ルーツクを攻囲すると、ガーリチ公ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチの仲介で講和。
しかし講和は当然一時的なもので、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは早速ハンガリー王ゲーザ2世(義弟)、ボヘミア王ヴラディスラフ2世、ポーランド王ボレスワフ4世巻毛王に支援を要請する。しかしヴラディスラフ2世とボレスワフ4世は十字軍から帰国したばかりで、しかもヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチがユーリイ側についたため、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを支援したのはゲーザ2世のみだった。
一旦は再び戦端を開くところまで行ったが、ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチ、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ、さらには息子のアンドレイ・ボゴリューブスキイにも反対されたユーリイ・ドルゴルーキイは、改めてイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと講和。キエフ大公位を、最年長者ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが占めることで全員が合意を見た。
しかしユーリイ・ドルゴルーキイが合意条件を守らず。ゲーザ2世の支援を得たイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、1150年、キエフに侵攻。ユーリイ・ドルゴルーキイはゴロデーツ(=オステョールスキイ)に逃げ、キエフにはヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが残った。しかしキエフ市民はヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを嫌い、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを招聘。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの要請に従い、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチもヴィーシュゴロドに戻った。
そうこうしている間に、ユーリイ・ドルゴルーキイがスヴャトスラーヴィチ一族と同盟。これにヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチも加わっていては、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとしても逃げ出すより手がなかった。
しかし本領ヴォルィニに帰還したイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、再びゲーザ2世の支援を得てキエフに侵攻。ユーリイ・ドルゴルーキイが再びゴロデーツ=オステョールスキイに逃亡すると、キエフに入ったイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを呼び寄せる。
イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチにはキエフ市民の支持があったが、慣習法上の権利はヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチにある。そこで両者が共同でキエフ大公としての権利を行使するという、史上例外的な二頭体制がここに成立した。これによりヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチの弟であるユーリイ・ドルゴルーキイも文句を言えなくなるという利点もあった(それでも大人しくはならなかったが)。実権はイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが握り、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは甥から «父» として敬われるだけで満足していたようだ。
1151年、両陣営は再び結集。一方にイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ、ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチ、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチがいれば、他方にはユーリイ・ドルゴルーキイ、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ、ヴラディーミル・ダヴィドヴィチ、ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチがいて、勢力は伯仲していたが、最終的にはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ側が勝利を収めた。
さらにイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは弟スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチとともにペレヤスラーヴリに侵攻し、ここからユーリイ・ドルゴルーキイを追う。これによりユーリイ・ドルゴルーキイは最終的に南ルーシから追われ、スーズダリに帰還することを余儀なくされた。
残る最大の敵を屈服させるため、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは1152年、ゲーザ2世とともにガーリチに侵攻。ペレムィシュリ近郊の戦いでヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチを破るが、ゲーザ2世が講和に応じてしまう。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチも領土割譲を条件にこれに合意する。
しかしヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチは領土の引き渡しを拒み、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが再度ガーリチ侵攻の準備を進めている最中に死去。息子ヤロスラーフ・オスモムィスルが後を継いだ。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは委細構わずガーリチに侵攻。しかしテレボーヴリ近郊の戦いでは双方多大の被害を出して決着がつかず。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチもキエフへの撤退を余儀なくされた。
東方では、懲りないユーリイ・ドルゴルーキイが1152年にチェルニーゴフに侵攻。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはイジャスラーフ・ダヴィドヴィチを支援してこれを撃退する。しかもヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチが死んだことで、最大の同盟者を失ったユーリイ・ドルゴルーキイはしばらく大人しくなった。
1154年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは2度目(3度目?)の結婚。相手は「グルジア王デメトレ1世の娘ルスダン」などとしている文献もあるが、推測でしかない(北カフカースのテュルク系民族の娘とする説もある)。
同年、弟スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチを亡くす。そしてその直後、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは病に陥り、死亡した。
聖フョードル修道院に埋葬されている。
なお、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは若い頃からあちこちの分領を転々としてきているが、1135年にヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公となって以来、事実上ヴォルィニを本領としているように思える。それはひとつには、1146年以降、キエフを追われるたびにヴォルィニに逃げていっていることからも知られる。
おそらくイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ本人にヴォルィニを本領として確保しておこうという意図があったのだろうと思われるが、1146年にキエフ大公となって以来、常に自身に従属する諸公を公として派遣している。しかもたまたまヴラディーミル・アンドレーエヴィチにもスヴャトポルク・ムスティスラーヴィチにも子がなかったため、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子孫がヴォルィニを «ヴォーッチナ» として継承することになる。
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 | 血縁 | |
---|---|---|
1119 | アンドレイ善良公 | 叔父 |
1135 | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | 本人 |
1141 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | |
1146 | ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ | 従兄弟 |
1149 | スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチ | 弟 |
1149 | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | 本人 |
1151 | スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチ | 弟 |
1154 | ヴラディーミル・マーチェシチ | 弟 |