ユーリイ・ヴラディーミロヴィチ «ドルゴルーキイ»
Юрий Владимирович "Долгорукий"
ロストーフ・スーズダリ公 князь Ростовский и Суздальский (1096-1155)
ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский (1135)
キエフ大公 великий князь Киевский (1149-51、55-57)
生:1091頃
没:1157.05.15−キエフ
父:キエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ (キエフ大公フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ)
母:?
結婚①:1108
& ? (ポーロヴェツ人のアエパ・ハーン)
結婚②:
& オリガ -1182 (皇帝イオアンネス2世・コムネノス) ※そんな娘はいない
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
ポーロヴェツ公女と | ||||||
1 | ロスティスラーフ | -1151 | ペレヤスラーヴリ | |||
3 | イヴァン | -1147 | クールスク | |||
2 | アンドレイ | 1111-74 | ヴラディーミル | ウリタ | -1175 | ステパン・クチカ |
4 | グレーブ | -1171 | キエフ | ? | チェルニーゴフ公イジャスラーフ・ダヴィドヴィチ | |
5 | ボリース | -1159 | ロストーフ | マリーヤ | ||
ポーロヴェツ公女? ギリシャ人? | ||||||
6 | ムスティスラーフ | ノーヴゴロド | ||||
7 | ヴァシリコ | スーズダリ | ||||
エレーナ | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ | -1180 | ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公 | |||
8 | オリガ | -1189 | ヤロスラーフ・オスモムィスル | -1187 | ガーリチ公 | |
マリーヤ | -1166 | |||||
9 | ミハイール | -1176 | キエフ | フェオドーシヤ | ||
10 | ヤロスラーフ | -1166 | ||||
11 | スヴャトスラーフ | -1174 | ユーリエフ | |||
ギリシャ人と | ||||||
12 | フセーヴォロド | 1154-1212 | ヴラディーミル | マリーヤ・シュヴァルノヴナ |
第8世代。モノマーシチ。洗礼名ゲオルギイ(ユーリイ)。ヴラディーミル・モノマーフの七男。
ヴラディーミル系モノマーシチの始祖。
母親が問題。父は、『原初年代記』に収録されている息子たちへの『教訓』の中で、「ユーリイの母親が死んだ」と記している。これはどういうことだろうか。
一般的に言われるのが、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは兄たちとは母親を異にする、ということだ。兄たちはイングランド王女ギータの子であるが、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは、名も知られない女性を母親にしている、ということだろう。
しかしそれと同時に、弟アンドレイ善良公とも母親を異にするということではないだろうか。もっとも、「ユーリイの母親」は1107年に死に、アンドレイ善良公は1102年に生まれているので、どう考えても母親は同じになるのだが。
ユーリイ・ヴラディーミロヴィチはまた、モノマーシチ兄弟の中で唯一生年がはっきりしない。はっきりしない兄弟はほかにもいるが、せいぜい1、2年の範囲で推測される。ところがユーリイ・ヴラディーミロヴィチの場合、イングランド王女ギータが1090年代初頭まで生きていたと考えられるので、生まれたのはそれ以降、弟アンドレイ善良公の生まれた1102年以前の、約10年間の幅がある。一般的に、1107年に結婚したユーリイ・ヴラディーミロヴィチの生年は1090年代初頭だと考えられている。
なお、イングランド王女ギータの没年は1098年だとする説がある。
1096年、兄のムスティスラーフ偉大公とヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが、ロストーフを蹂躙したオレーグ・スヴャトスラーヴィチを破る。この時父は、ロストーフにユーリイ・ヴラディーミロヴィチを公として派遣した、と一般的に言われている。
しかしその生年を考えてみると、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチはこの時点でまだ生まれたばかりか、あるいはそもそも生まれていないか。従士団が補佐役としてつけられたとしても、すでにハイティーンになっている兄たちがゴロゴロしていたのに、よりによってよちよち歩きの幼児を派遣するというのも道理に合わない。一部にはこの時ロストーフ公となったのは兄のヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチだとする説もあるが、これが妥当だろう。
そのヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、1113年、父がキエフ大公になったのにあわせて、スモレンスク公に転職している。ユーリイ・ヴラディーミロヴィチがロストーフ公になったのは、おそらくこの時だろう(それでもまだ無職の兄がふたりもいたのだが)。
いつの頃からか、ロストーフではなくスーズダリに居住するようになる。ここはボヤーリンの勢力の強い都市で、これがのちのちユーリイ・ヴラディーミロヴィチの勢力基盤となった。
1120年、ヴォルガ・ブルガールに遠征し、多くの捕虜を得る。
1132年、長兄のムスティスラーフ偉大公が死去。別の兄ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチがキエフ大公位を継ぐ。
キエフ大公となったヤロポルク・ヴラディーミロヴィチには子がなかった。そこでムスティスラーフ偉大公の遺児フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチにペレヤスラーヴリを与え、«皇太子» とした。
この措置に反発したユーリイ・ヴラディーミロヴィチは、弟アンドレイ善良公を語らって、ペレヤスラーヴリからフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチを追う。
ユーリイ・ヴラディーミロヴィチからペレヤスラーヴリを奪い返したヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはペレヤスラーヴリを、今度はフセーヴォロドの弟イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに与える。
しかしユーリイ・ヴラディーミロヴィチ等の反発は強く、これにはもうひとりの兄ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチも加わった。結局弟たちに屈したヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはペレヤスラーヴリをヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチに与える。
キエフ・ルーシにおいては、一族間の最年長者が継承するという慣習が確立していた。兄が死ねば、跡を継ぐのはその子ではなく弟である。つまりヤロポルク・ヴラディーミロヴィチを継ぐべき権利は、甥(たとえそれが兄の子であったとしても)のムスティスラーヴィチ兄弟ではなく、すぐ下の弟ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチが持っていた。当然それに続く権利を、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチとアンドレイ善良公が持ち、ムスティスラーヴィチ兄弟の権利はその次であった。一連の騒動の非は、弟たちの権利を侵害したヤロポルク・ヴラディーミロヴィチにある。
なお、厳密に生年で見ると、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチとムスティスラーヴィチ兄弟と、どちらが先に生まれたか(つまりはどちらが年長か)ははっきりしない。ここでは実際の年齢よりも、叔父と甥という関係にものを言わせたというところだろう。
こうしてすったもんだの挙句にペレヤスラーヴリを獲得したヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチだったが、1134年にはペレヤスラーヴリを棄てて旧領トゥーロフに戻ってしまった。ユーリイ・ヴラディーミロヴィチはロストーフ=スーズダリの代わりにペレヤスラーヴリを獲得する。
ユーリイ・ヴラディーミロヴィチとしては、いずれはキエフ大公を獲得するために、本拠地が辺縁のロストーフ=スーズダリではいかにも分が悪い。そこでキエフの近郊ペレヤスラーヴリが欲しかっただろう。しかしペレヤスラーヴリはポーロヴェツ人との戦いの最前線に当たり、キエフ大公位を巡る争いにも常に巻き込まれ、いささか勢力基盤としては脆弱だ。そこでついでにチェルニーゴフをも奪おうとするが、結局チェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチと講和し、チェルニーゴフもペレヤスラーヴリも諦めてロストーフ=スーズダリに戻った。
ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチはペレヤスラーヴリをアンドレイ善良公に与える。
当時はキエフ大公位を巡りモノマーシチ一族間で内輪揉めがあったが、同時にルーシの覇権を握るモノマーシチ一族にチェルニーゴフのスヴャトスラーヴィチ一族が挑戦していた。1138年、ノーヴゴロド市民はスヴャトスラーヴィチ一族のスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチを公位から追うと、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチに公位を提供。ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは長男ロスティスラーフをノーヴゴロドに派遣した。
1139年、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチが死去。ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチがキエフ大公位を継ぐが、その直後、フセーヴォロド・オーリゴヴィチがキエフを占領する。
これに伴いスヴャトスラーヴィチ一族が巻き返し、ノーヴゴロドではロスティスラーフ・ユーリエヴィチが公位を追われる。怒ったユーリイ・ヴラディーミロヴィチはノーヴゴロドに侵攻し、トルジョークを占領。ノーヴゴロド市民はフセーヴォロド・オーリゴヴィチに接近し、再びスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチがノーヴゴロド公となった。
1146年、フセーヴォロド・オーリゴヴィチが死去。その死に際してかれは、弟イーゴリ・オーリゴヴィチを大公の後継者に指名する。しかしその直後、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがイーゴリ・オーリゴヴィチを捕虜とし、キエフ大公となる。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはユーリイ・ヴラディーミロヴィチの甥であり、当然年長者としての権利を侵害されたユーリイ・ヴラディーミロヴィチはこれに反発した(ただし、上述のように、実際にどちらが年長であったかは不明)。
モノマーシチと同様スヴャトスラーヴィチも内紛を抱えていたが、この時、チェルニーゴフを領有するヴラディーミル & イジャスラーフのダヴィドヴィチ兄弟がイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと同盟する。イーゴリ・オーリゴヴィチの弟スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチはスヴャトスラーヴィチ一族内で孤立し、ノーヴゴロド公位を巡るかつての対立があったにもかかわらず、支援を求めてユーリイ・ヴラディーミロヴィチに接近した。
こうしてモノマーシチ vs スヴャトスラーヴィチという図式は崩れ、それぞれが分裂して同盟することになった。
公領 | 公 | 血縁関係 |
---|---|---|
ノーヴゴロド | スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの弟 |
ロストーフ | ユーリイ・ヴラディーミロヴィチ | |
スモレンスク | ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの弟 |
ポーロツク | ローグヴォロド・ボリーソヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの娘婿 |
ムーロム=リャザニ | ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ | |
チェルニーゴフ | ヴラディーミル・ダヴィドヴィチ | |
セーヴェルスキイ | スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ | |
ペレヤスラーヴリ | ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子 |
キエフ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | |
トゥーロフ | ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子 |
ヴォルィニ | ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの従兄弟 |
ガーリチ | ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチ |
上の表のように、1146年の時点ではユーリイ & スヴャトスラーフ連合は完全な劣勢に置かれていた。しかしここからユーリイ・ヴラディーミロヴィチの巻き返しが始まる。
ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは、息子たちを南方に派遣。ロスティスラーフとアンドレイが1146年にイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと同盟するリャザニ公ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチからリャザニを奪い、グレーブが1147年にスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチとともにダヴィドヴィチ兄弟からノーヴゴロド=セーヴェルスキイを奪取する。
1147年、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチ自身もノーヴゴロドに遠征し、自身の影響力を確保する。遠征から帰還すると、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチを招いた「来たれ、兄弟よ、モスクワのわれのもとへ!」。これが年代記におけるモスクワの初出である。
ダヴィドヴィチ兄弟も1147年にユーリイ & スヴャトスラーフ連合と講和するが、1148年には再びイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ側に寝返る。1148年にはノーヴゴロドに対する支配権も失い、勢力拡大は一旦頓挫した。
1149年、ついにユーリイ・ヴラディーミロヴィチは自ら南ルーシへ。スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチとポーロヴェツ人も加わり、ペレヤスラーヴリ近郊でイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの軍を破る。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはキエフを棄てて逃亡し、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチはキエフを占領した。
この時ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは、ロスティスラーフをペレヤスラーヴリ公としたほか、アンドレイにヴィーシュゴロドを、グレーブにカーネフを、ボリースにベールゴロドを与えて、キエフ周辺を息子たちで固めた(ムスティスラーフも連れてきていたらしいが、分領を与えた形跡はない)。なおロストーフ=スーズダリにはヴァシリコを残した。
公領 | 公 | 血縁関係 |
---|---|---|
ノーヴゴロド | ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子 |
ロストーフ | ユーリイ・ヴラディーミロヴィチ | |
スモレンスク | ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの弟 |
ポーロツク | ローグヴォロド・ボリーソヴィチ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの娘婿 |
ムーロム=リャザニ | (ユーリイ・ヴラディーミロヴィチが支配?) | |
チェルニーゴフ | ヴラディーミル・ダヴィドヴィチ | |
セーヴェルスキイ | スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ | |
ペレヤスラーヴリ | ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ | ユーリイ・ヴラディーミロヴィチの子 |
キエフ | ユーリイ・ヴラディーミロヴィチ | |
トゥーロフ | (ユーリイ・ヴラディーミロヴィチが支配?) | |
ヴォルィニ | イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ | |
ガーリチ | ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチ |
ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは、ヴォルィニに逃げ帰ったイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと講和交渉を開始するが、折り合いがつかず、特にユーリイ・ヤロスラーヴィチの強硬な反対意見に、戦争の継続を決意(ユーリイ・ヤロスラーヴィチはイジャスラーヴィチ一族で、当時特段の分領を持たなかった)。
ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは兄ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチとも結んで、ルーツクに侵攻。
結局両者はガーリチ公ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチの仲裁で講和し、モノマーシチ一族の最年長者ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチをキエフ大公とすることで合意した。
しかしキエフ市民はヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを嫌い(のちにはユーリイ・ヴラディーミロヴィチも嫌うことになるが)、このためユーリイ・ヴラディーミロヴィチがキエフ大公位を維持。ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチにはヴィーシュゴロドを与えた(息子アンドレイはトゥーロフ公とした)。
1150年、講和条件の不履行(ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチをキエフ大公とする)を口実に、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが義弟のハンガリー王ゲーザ2世と同盟してキエフに侵攻。ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは一旦ゴロデーツ(=オステョールスキイ)に逃亡したものの、ここで態勢を整える。スヴャトスラーヴィチ一族、ヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチとも同盟。
これを見たイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、自らヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを担ぎ出してきてキエフ大公に据えるが、ユーリイ軍の侵攻にキエフ市民もあるいは逃亡し、あるいは蜂起したため、揃ってキエフを放棄して自領に逃げ帰った。
しかし講和は結ばれず、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは再びゲーザ2世の支援を得てキエフに侵攻。まったく同じことが繰り返され、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチはゴロデーツに逃亡し、スヴャトスラーヴィチ一族とヴラディミルコ・ヴォロダーレヴィチと同盟してキエフ奪還に進撃する。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチも再びヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチをキエフ大公に据えて迎え撃った。
しかし今回は、スヴャトスラーヴィチ一族は一枚岩ではなかった。スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチとヴラディーミル・ダヴィドヴィチはユーリイ側に立ったとはいえ、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチがイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ側にまわった。
さらに今度は、イジャスラーフ & ヴャチェスラーフ連合軍がユーリイ軍のドニェプル渡河を許さず。このためユーリイ軍は敗退。イジャスラーフ & ヴャチェスラーフ連合軍はさらに、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチの逃げ込んだペレヤスラーヴリを攻囲。結局ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは、ペレヤスラーヴリに息子グレーブ・ユーリエヴィチを公として残すことを条件に、スーズダリに帰還した。
ユーリイ・ヴラディーミロヴィチの南ルーシ支配の野望は、一旦潰えた。
1152年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがゴロデーツ=オステョールスキイを焼き打ち。この都市はユーリイ・ヴラディーミロヴィチの領土として残されていたので、怒ったユーリイ・ヴラディーミロヴィチは再び南方遠征を決意。スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチとともに、まずはイジャスラーフ・ダヴィドヴィチの支配するチェルニーゴフを攻囲した。しかしイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがその救援に駆けつけてくると、撤退を余儀なくされた。
1154年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。その後ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチが相次いでキエフ大公に就任する。
仇敵の死にじっとしているユーリイ・ヴラディーミロヴィチではなく、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチにキエフを追われたロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと同盟して1155年、南下を開始。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチは一戦も交えることなくユーリイ・ヴラディーミロヴィチにキエフを明け渡した。ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは3度めの正直でキエフ大公位を確立した。しかしもはやルーシの分裂は深刻で、政治的統一は不可能だった。
なお、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチはこの時も息子たちを伴っている。アンドレイをヴィーシュゴロド公とし、いずれは自分の跡を継がせてキエフ大公にしようと考えていたとされる。それを支える東のペレヤスラーヴリ公領をグレーブに、北のトゥーロフ公領をボリースに与え、南方のポローシエ地方(遊牧民族との国境地帯)はヴァシリコに委ねて南ルーシの支配体制も固めた。さらにムスティスラーフをノーヴゴロド公とし、本領ロストーフ=スーズダリにはまだ幼いミハルコとフセーヴォロドを残して、死後の手筈も万端整えた(もっとも肝心のアンドレイは南ルーシを棄ててスーズダリに帰ってしまった)。
公領 | 公 | 血縁関係 |
---|---|---|
ノーヴゴロド | ムスティスラーフ・ユーリエヴィチ | 子 |
ロストーフ | ユーリイ・ヴラディーミロヴィチ | |
スモレンスク | ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ | |
ポーロツク | ロスティスラーフ・グレーボヴィチ | |
ムーロム=リャザニ | ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ? | |
チェルニーゴフ | イジャスラーフ・ダヴィドヴィチ | |
セーヴェルスキイ | スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ | |
ペレヤスラーヴリ | グレーブ・ユーリエヴィチ | 子 |
キエフ | ユーリイ・ヴラディーミロヴィチ | |
トゥーロフ | ボリース・ユーリエヴィチ | 子 |
ヴォルィニ | ヴラディーミル・マーチェシチ | |
ガーリチ | ヤロスラーフ・オスモムィスル | 娘婿 |
ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの遺児ムスティスラーフとヤロスラーフと和解。さらにイジャスラーフ・ダヴィドヴィチとも講和する。
1156年、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは、ユーリイの同盟者であった叔父ヴラディーミル・マーチェシチをヴラディーミル=ヴォルィンスキイから追い出す。ユーリイ・ヴラディーミロヴィチはヴォルィニに侵攻するが、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに敗北。この混乱にポーロヴェツ人が乗じて、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは不利な講和を余儀なくされた。
この頃、ノーヴゴロドでも反ユーリイ派が力を増し、ノーヴゴロド公となっていたユーリイ・ヴラディーミロヴィチの子ムスティスラーフ・ユーリエヴィチはノーヴゴロドから逃亡。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが公として迎えられた。
ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチが反ユーリイで同盟。かれらのキエフ侵攻を目前にし、ユーリイ・ヴラディーミロヴィチは死んだ。キエフのボヤーリンに毒殺されたとも言われる。
死後、市民の暴動が発生した。
ユーリイ・ヴラディーミロヴィチの遺骸はキエフのペチェールスキイ修道院の聖スパース教会に葬られる。
キエフでは嫌われたユーリイ・ヴラディーミロヴィチだったが、ロストーフ=スーズダリでは公国の基礎を築き、多くの都市を建設したことで尊敬されている。かれの建てた都市はモスクワ、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ、ユーリエフ=ポーリスキイ、ドミートロフ等(トヴェーリも?)。ヴラディーミルもこの時代に大きく発展した。ロストーフ=スーズダリと、ノーヴゴロド、チェルニーゴフとの国境が確定したのもこの時代である。
なお、添え名の «ドルゴルーキイ» は «ドールガヤ・ルカー долгая рука» を形容詞化したもので、「長い手・腕をした」という意味。北東の辺境を本拠地としながら南ルーシに執拗に介入したことを示す添え名である。
言っておくと、のちに貴族として活躍したドルゴルーキイ公家とは何の関係もない。