ヤロスラーフ・フセヴォローディチ
Ярослав Всеволодич
ペレヤスラーヴリ(=ユージュヌィイ)公 князь Переяславский (1201-06)
ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ公 князь Переяславский (1212-38)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1215、21-23、24-28、30-36)
トルジョーク公 князь Торжский (1215-16)
キエフ大公 великий князь Киевский (1236-38)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1238-46)
生:1190/91.02.08
没:1246.09.30
父:ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公 (ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ)
母:マリーヤ・シュヴァルノヴナ
結婚①:1205
& ? (ポーロヴェツ人のハーン、ユーリイ・コンチャーコヴィチ)
結婚②:1214
& ロスティスラーヴァ/フェオドーシヤ公女 -1244 (トローペツ公ムスティスラーフ幸運公)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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ロスティスラーヴァ・ムスティスラーヴナと | ||||||
1 | フョードル | 1219-33 | ノーヴゴロド | |||
2 | アレクサンドル | 1220-63 | ペレヤスラーヴリ | パラスケーヴァ | 1221-63 | ポーロツク公ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ |
3 | アンドレイ | 1221-64 | スーズダリ | ドブロスラーヴァ | ガリツィア王ダニイール・ロマーノヴィチ | |
4 | ミハイール | 1229-49 | モスクワ | |||
5 | ダニイール | -1256 | ||||
6 | ヤロスラーフ | 1230-72 | トヴェーリ | クセーニヤ | -1313 | トルーサ公ユーリイ・ミハイロヴィチ |
7 | コンスタンティーン | -1255 | ガーリチ | |||
8 | アファナーシイ | -1239 | ||||
9 | マリーヤ | 1240- | ||||
10 | ヴァシーリイ | 1241-76 | コストロマー | |||
11 | ウリヤーナ |
第10世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。洗礼名フョードル。フセーヴォロド大巣公の三男。
1201年、父によりペレヤスラーヴリ公とされる。1203年、ポーロヴェツ人と戦う。
1205年、ガーリチ=ヴォルィニ公ロマーン偉大公が死去。翌1206年、ガーリチ住民はヤロスラーフ・フセヴォローディチを公として招く。しかし同じくガーリチを狙うイーゴレヴィチ兄弟と同盟したキエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチにより排除された。
さらにペレヤスラーヴリからもチェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公により追われた。
ヤロスラーフ・フセヴォローディチがペレヤスラーヴリ=ザレスキイをもらったのはこの頃だとする歴史書もある。
1208年、リャザニを攻略した父によりリャザニに公として派遣される。これに反発したリャザニ市民が蜂起すると、リャザニ軍を撃破。市民をスーズダリに強制移住させた。ヤロスラーフ・フセヴォローディチ自身はリャザニに代官を残してペレヤスラーヴリ=ザレスキイに帰還する。
父は長年ノーヴゴロドに大きな影響力を行使し、身内を公として派遣していたが、これに反発したノーヴゴロドは1209年、スモレンスク系のムスティスラーフ幸運公を公として招いた。これに対して父は、ヤロスラーフ・フセヴォローディチを派遣する。しかし結局父もムスティスラーフ幸運公のノーヴゴロド公位を認め、ヤロスラーフ・フセヴォローディチは得るところなく帰還した。
1212年、父が死去。父の遺言により、長兄コンスタンティーン賢公ではなく次兄ユーリイがヴラディーミル大公となった。長兄コンスタンティーン賢公はロストーフ、ヤロスラーヴリ、ウーグリチを、ヤロスラーフ・フセヴォローディチはペレヤスラーヴリ=ザレスキイ、トヴェーリ、ヴォロコラムスクを、すぐ下の弟ヴラディーミルはユーリエフ=ポリスキイを、それぞれ分領としてもらった。
この措置には当然コンスタンティーン賢公が反発。コンスタンティーン賢公とユーリイとの対立が勃発するが、ヤロスラーフ・フセヴォローディチはユーリイの側に立った。
1214年、ムスティスラーフ幸運公の娘と結婚。ノーヴゴロドを巡るヴラディーミル系とスモレンスク系の対立を終わらせる意味合いがあったのだろう。
1215年、そのムスティスラーフ幸運公からノーヴゴロドを与えられる。ムスティスラーフ幸運公はガーリチ征服を目論んでおり、また党派の対立が続くノーヴゴロドに嫌気が差したということもあったのだろう。
なお、この1215年、ノーヴゴロドの、と言うよりルーシのリヴォニアにおける長年の拠点であったユーリエフ(ドイツ名ドルパト/デルプト、現タルトゥ、エストニア)がリヴォニア騎士団に奪われている。
しかしヤロスラーフ・フセヴォローディチはノーヴゴロド民会と対立してトルジョークに移り、ユーリイ・フセヴォローディチと共同してノーヴゴロド商人を捕らえ、ノーヴゴロドを兵糧攻めにする。ノーヴゴロド民会はムスティスラーフ幸運公を再度招聘。義理の父子はノーヴゴロドを巡って対立することとなった。
1216年、ムスティスラーフ幸運公率いるノーヴゴロド軍が、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチ率いるプスコーフ軍、ヴラディーミル・リューリコヴィチ率いるスモレンスク軍とも合流し、トヴェーリを、さらにはペレヤスラーヴリ=ザレスキイを攻略。あまつさえコンスタンティーン賢公と同盟した。
これに対し、トルジョークを出て帰還したヤロスラーフ・フセヴォローディチにはユーリイのほかに、ヴラディーミル、スヴャトスラーフの弟たち、さらにはムーロム公ダヴィド・ユーリエヴィチも合流。こうして義理の父子の対立は、フセヴォローディチ兄弟の内紛とも絡んで、北ルーシにおける覇権を賭けた争いとなった。
ユーリエフ=ポリスキイ近郊のリピツ河畔で行われた戦いでは、スモレンスク & コンスタンティーン連合軍が勝利。ユーリイ・フセヴォローディチはヴラディーミル大公位を棄てて逃亡。ヤロスラーフ・フセヴォローディチもペレヤスラーヴリ=ザレスキイに逃げ帰った。
ヤロスラーフ・フセヴォローディチはコンスタンティーン賢公と講和。さらにその仲介で、ムスティスラーフ幸運公とも和解する。しかしこの時ムスティスラーフ幸運公に妻を連れ戻され、以後いくらヤロスラーフ・フセヴォローディチが義父に妻を返してくれるよう頼んでも聞き入れられなかったという。
1221・22年、ノーヴゴロド民会の要請により、ユーリイ・フセヴォローディチは息子フセーヴォロトを公として送り出す。しかし党派対立に明け暮れて公の言うことを聞こうともしないノーヴゴロドが気に入らなかったのか、フセーヴォロト・ユーリエヴィチは公位を棄てて出奔。ユーリイ・フセヴォローディチは代わりにヤロスラーフ・フセヴォローディチをノーヴゴロド公とした。
同年、レーヴェリ(ドイツ語レヴァル、現タリン、エストニア)に遠征してリヴォニア騎士団と戦う。さらに1223年には、リヴォニア騎士団・デンマークに対して叛乱を起こしたエスト人を支援し、8年前にリヴォニア騎士団に奪われていたユーリエフを奪還する。その防衛には、コクネセを追われていたヴャーチコと従士団を派遣した。
いったい何がどう違ったのか、今回はノーヴゴロド民会はヤロスラーフ・フセヴォローディチが気に入ったようで、1223年にユーリイ・フセヴォローディチが再びフセーヴォロド・ユーリエヴィチをノーヴゴロド公として送り込んだ時には、ヤロスラーフ・フセヴォローディチに公位にとどまるよう泣いて頼んだという。
なお、ユーリエフは1224年にはリヴォニア騎士団に奪回され、以後ドイツ都市となる。
1224・25年、リトアニアの脅威にさらされたノーヴゴロド民会に要請され、3たびノーヴゴロド公となる。
1225年、トルジョークとトローペツを攻略したリトアニア人を破る。1227年にはフィンランドに遠征し、カレリア人に宣教を行う。この年、プスコーフへの遷都を計画するが、民会の反発を買った。
1228年、ノーヴゴロド市民と対立したヤロスラーフ・フセヴォローディチは、半ば追われるような形でペレヤスラーヴリ=ザレスキイに帰還。ノーヴゴロドには息子フョードルとアレクサンドルを残した。
1228年、ヤロスラーフ・フセヴォローディチはユーリイ・フセヴォローディチとともにモルドヴァー人に対する遠征に従軍。
しかしノーヴゴロドにおける党派対立に兄がかかわっていたのではないかと疑ったヤロスラーフ・フセヴォローディチは、甥のコンスタンティーノヴィチ兄弟とともにユーリイ・フセヴォローディチに反抗。1229年、スーズダリで兄弟(と甥)は会談し、和解した。
1230年、またしてもノーヴゴロド民会から公として招かれる。
1234年、リヴォニア騎士団がノーヴゴロド領に侵攻。ヤロスラーフ・フセヴォローディチはこれを破り、ユーリエフを攻略(するが陥とせなかった)。
1236年、ノーヴゴロドに次男アレクサンドル・ネフスキイを残し、ノーヴゴロド軍を率いて南下。キエフ大公イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチを追う。そして兄ユーリイ・フセヴォローディチとヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ダニイール・ロマーノヴィチの合意のもとに、ヤロスラーフ・フセヴォローディチがキエフ大公となる。
1238年、モンゴル軍がヴラディーミル=スーズダリに来襲。報せを受けたヤロスラーフ・フセヴォローディチは北上して救援に赴くが、時すでに遅く、ユーリイ・フセヴォローディチはモンゴルとの戦いで戦死し、ヴラディーミル=スーズダリはモンゴル軍に蹂躙された後だった。ただし、兄を見棄ててノーヴゴロドに逃げ込んだとする歴史書もある。
ヤロスラーフ・フセヴォローディチはヴラディーミル大公位を継承した。
この時ヤロスラーフ・フセヴォローディチがキエフ大公位を棄ててヴラディーミルを選んだという行為に、すでに伯父アンドレイ・ボゴリューブスキイや父フセーヴォロド大巣公にも見られた北東ルーシ諸公の新しいメンタリティが見てとることができる。同時期、スモレンスク系やチェルニーゴフ系でスモレンスク公位やチェルニーゴフ公位を擲ってキエフ大公になっている例と比べると、その意識の落差がわかる。すなわち、ヴラディーミル系一族にとって最高の権威はもはやキエフ大公ではなくヴラディーミル大公になっていたのである。
なお、モンゴル軍はその後ノーヴゴロドに向かうが、一転して南下。その後は南ルーシを蹂躙した(その意味でもヤロスラーフ・フセヴォローディチがキエフ大公位を棄てたのは正解だった)。
1239年、リトアニア人がスモレンスクに侵攻。ヤロスラーフ・フセヴォローディチはこれを撃破し、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチをスモレンスク公に就ける。
1239年、モンゴルがムーロムを攻略。
1243年、バトゥの要求に従い、サライに伺候。バトゥによりサライに召喚されたルーシの公はヤロスラーフ・フセヴォローディチが最初だったという。もっとも、自らサライに赴いたルーシ諸公はすでにいた。最も早い例が1239年にバトゥのもとに伺候したヤロスラーヴリ公ヴァシーリイ・フセヴォローディチだろう。
サライにて、ヤロスラーフ・フセヴォローディチはヴラディーミル大公位だけでなくキエフ大公位をも認められたらしい。少なくともこれは名目だけであって、当時キエフはチェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチが支配していた。しかしのちに長男アレクサンドル・ネフスキイもキエフ大公位を認められていることを考え合わせると、ヤロスラーフ・フセヴォローディチがバトゥから全ルーシの宗主権者の地位を認められた、とは言えるだろう。
これは裏返せば(バトゥによりサライに召喚された最初のルーシの公がヤロスラーフ・フセヴォローディチだったという事実と併せて)、少なくともバトゥの目にはヤロスラーフ・フセヴォローディチが当時のルーシ最大の権威者であり実力者と映ったということだろう。
ヤロスラーフ・フセヴォローディチはさらに息子コンスタンティーンをカラコルムに派遣した。1245年、帰国したコンスタンティーンは、大ハーンがヤロスラーフ・フセヴォローディチ自身の伺候を要求していることを伝えた。
ロシアの文献ではこう記すものが多いが、当時はオゴデイが1241年に死んだ後、後継者の地位を巡って一族間の対立が続いており、大ハーンは不在だった。タティーシチェフもカラムジーンも特に「大ハーンがヤロスラーフ・フセヴォローディチの伺候を要求している」とは書いておらず、ロシアの文献は何を根拠にしているのだろう(当時の年代記は参照していないので、そちらにそれらしい記述があるのだろうか)。
ヤロスラーフ・フセヴォローディチは、弟スヴャトスラーフ、イヴァン、甥ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチ、ボリース & グレーブのヴァシリコヴィチ兄弟、ヴァシーリイ・フセヴォローディチを引き連れてサライに伺候。弟たちは帰国したが、ヤロスラーフ・フセヴォローディチはそこから単身カラコルムに向かった。これについては、タティーシチェフが明確に「バトゥが派遣した」と書いているし、カラムジーンも「赴かなければならなかった」と理由はあいまいながら自発的な行動ではなかったことを示している。
ヤロスラーフ・フセヴォローディチは1246年にカラコルムに到着。グユクの大ハーン即位に立ち会うこととなった。ちなみにこの時、カルピーニもカラコルムでヤロスラーフ・フセヴォローディチと会っている。
カラコルムから帰国しようとした直前、急死。毒殺されたとも言われる。
遺体は持ち帰られ、ヴラディーミルのウスペンスキイ大聖堂に埋葬された。