ヤロポルク・ロスティスラーヴィチ
Ярополк Ростиславич
ヴラディーミル公 князь Владимирский (1175-76)
トルジョーク公 князь Торжский (1177-78)
生:?
没:?
父:ペレヤスラーヴリ公ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ (ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ)
母:?
結婚:1175
& ? (ヴィテブスク公フセスラーフ・ヴァシリコヴィチ? ドルツク公グレーブ・ロスティスラーヴィチ?)
子:?
第10世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。
生年も、母親も、不明。
1161・62年、叔父のヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキイによって北東ルーシから追放される。おそらくこの時同様に追放された叔父たちと同じく、追放生活をコンスタンティノープルで送ったのだろう。
帰還の時期や経緯は不明。
1173年、アンドレイ・ボゴリューブスキイによって南ルーシに派遣された軍の中に従軍していた。叔父のミハルコ・ユーリエヴィチにより、別の叔父フセーヴォロド大巣公とともにキエフの統治を委ねられる。
しかしこの年のうちにリューリク・ロスティスラーヴィチにキエフを奪われ、叔父ともどもその捕虜となる。ミハルコ・ユーリエヴィチがリューリク・ロスティスラーヴィチと講和すると釈放され、チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチのもとに身を寄せる。
最終的にチェルニーゴフには、兄ムスティスラーフ無眼公、叔父のミハルコとフセーヴォロドのユーリエヴィチ兄弟も避難してきた。
1175年、アンドレイ・ボゴリューブスキイが死去。北東ルーシのボヤーリンはムスティスラーフ無眼公とヤロポルクのロスティスラーヴィチ兄弟を公として招く。しかし叔父たちの権利を無視したくないロスティスラーヴィチ兄弟は、叔父たちとともに赴くことを決意。まずはヤロポルク・ロスティスラーヴィチがミハルコ・ユーリエヴィチとともに北上した。
しかしモスクワに到達したところでミハルコ・ユーリエヴィチは足止めを食らい、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチは単独でペレヤスラーヴリへ。ミハルコ・ユーリエヴィチもヴラディーミル(都市)に赴く。
アンドレイ・ボゴリューブスキイはボヤーリンの勢力の強いロストーフやスーズダリを嫌い、ヴラディーミルを自身の領土の主都としていた。都市間の対立が、ヴラディーミル大公位の継承を巡る問題に大きくからんでくる。
ヴラディーミル市民はミハルコ・ユーリエヴィチを支持。ヤロポルク・ロスティスラーヴィチはペレヤスラーヴリ軍を率いてヴラディーミルを攻囲し、叔父を南に追った。
入れ替わりにムスティスラーフ無眼公がチェルニーゴフから到着し、ムスティスラーフ無眼公が古都ロストーフの、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチが新都ヴラディーミルの公となった。
アンドレイ・ボゴリューブスキイはヴラディーミル=スーズダリ公領で独裁者として君臨していた。ボヤーリンたちのかれに対する反発は根強いものがあり、当然それはボヤーリンたちが根城にしたロストーフとスーズダリと、アンドレイ・ボゴリューブスキイが本拠としてヴラディーミル(さらにはペレヤスラーヴリ)との対立につながる。
しかもロスティスラーヴィチ兄弟は南ルーシで暮らしていたので、その従士団は主に南ルーシの «ルーシ人»(現代ロシア語の «ロシア人 русский» は、この頃は南ルーシ人を指した)から成っていた。
こうしてヴラディーミルでは、ロスティスラーヴィチ兄弟を支持するボヤーリンたちへの反発、ロスティスラーヴィチ兄弟が引き連れてきた南ルーシ人の従士団に対する反発が重なり、ついに市民がミハルコ・ユーリエヴィチを秘密裏に呼び寄せる事態にまで至った。
北上するミハルコ・ユーリエヴィチを迎え撃つためヤロポルク・ロスティスラーヴィチは出撃するが、森の中を行軍するうちに行き違い(当時のモスクワ周辺は森林地帯だった)、モスクワに到達した段階でミハルコ・ユーリエヴィチがすでにヴラディーミルに入城したとの報せを受ける。引き返そうとした時に、今度はムスティスラーフ無眼公のロストーフ軍がヴラディーミル軍に敗北したとの報せを受ける。
ヤロポルク・ロスティスラーヴィチはリャザニに逃亡。ムスティスラーフ無眼公もノーヴゴロドに亡命し、ミハルコ・ユーリエヴィチがヴラディーミル=スーズダリ公領の支配者となった。
ミハルコ・ユーリエヴィチは1176年に死ぬが、跡を弟のフセーヴォロド大巣公が継ぐ。ムスティスラーフ無眼公はロストーフ軍を率いてヴラディーミルに侵攻するが、敗北し、これまたリャザニに逃亡してきた。
フセーヴォロド大巣公はリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチに、ロスティスラーヴィチ兄弟の身柄を引き渡すよう要求。グレーブ・ロスティスラーヴィチはこれを拒否し、あまつさえヴラディーミルに侵攻。しかし敗北し、グレーブ・ロスティスラーヴィチ、ムスティスラーフ無眼公、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチの3人はフセーヴォロド大巣公の捕虜となった。
その後、ロスティスラーヴィチ兄弟は目をつぶされ、釈放された。
1177年、ムスティスラーフ無眼公がノーヴゴロド公となると、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチはトルジョークをもらった。翌1178年にムスティスラーフ無眼公が死ぬと、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチがノーヴゴロド公位を継いだ。
しかしこれはフセーヴォロド大巣公の気に入らなかった。その圧力に屈したノーヴゴロド市民により、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチは公位を追われ、3年ぶりにチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチのもとに身を寄せる。
1180年、ノーヴゴロド公ムスティスラーフ勇敢公が死去。スヴャトスラーフ・フセヴォローディチは息子のヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチをノーヴゴロド公とすると同時に、ノーヴゴロド市民と交渉し、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチにトルジョークを与えた。
しかしまたしてもフセーヴォロド大巣公がこれに反発。今度はトルジョークを攻囲した。ヤロポルク・ロスティスラーヴィチは抵抗したものの、負傷し、市民も降伏。
ヤロポルク・ロスティスラーヴィチはヴラディーミルに送られ、監禁された。
没年はよくわからないが、1181年としている歴史書もある。何に依ったか1196年以降とする文献もある。