リューリク家人名録

フセーヴォロド・ユーリエヴィチ

Всеволод Юрьевич

ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1221、23)
トルジョーク公 князь Торжский (1224)

生:1212/13.10.23
没:1238.02.07−ヴラディーミル

父:ヴラディーミル大公ユーリイ・フセヴォローディチヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公
母:アガーフィヤ (チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公

結婚:1230
  & マリーナ公女 (キエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチ

子:?

第11世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。洗礼名ドミートリイ。ユーリイ・フセヴォローディチの長男。

 1221年、ノーヴゴロド市民の要請を受けた父により、フセーヴォロド・ユーリエヴィチはノーヴゴロドに派遣される。しかしフセーヴォロド・ユーリエヴィチは同年、公位を放擲して出奔。代わりにヤロスラーフ・フセヴォローディチノーヴゴロド公となった。
 1223年、改めてフセーヴォロド・ユーリエヴィチが派遣されるが、1224年、今度もフセーヴォロド・ユーリエヴィチは密かにノーヴゴロドを去り、トルジョークに居住。
 ただ、当時フセーヴォロド・ユーリエヴィチはまだ10歳になったかならずか。一連の行動はフセーヴォロド・ユーリエヴィチの自発的なものではなく、父によってつけられたボヤーリンたちの、あるいはひいては父の意思だったのだろう。ノーヴゴロド内には «親ヴラディーミル派» と «反ヴラディーミル派» とでも言うべき党派対立があったようで、それと関連があるのかもしれない。
 トルジョークには父自身も出陣してきてノーヴゴロドと対峙。結局、ノーヴゴロドが母方の伯父のミハイール・フセヴォローディチを公として招くことで、両者は和解した。
 なお、1222年にはノーヴゴロド軍がリヴォニアに侵攻しているが、これには父方の叔父のスヴャトスラーフ・フセヴォローディチ率いるヴラディーミル軍が従軍していた。
 ちなみに、1224年にはリヴォニア騎士団によってユーリエフ(ドイツ語名ドールパト/デルプト、現タルトゥ、エストニア)が陥落。リヴォニア側の史料によれば、ルーシの軍はプスコーフまでは来たものの、間に合わなかったのか、それとも救援に赴くつもりがなかったのか、ルーシ軍がリヴォニア騎士団と戦う前にユーリエフが陥落したらしい(ちなみに当時ユーリエフを護っていたのはヴャーチコ)。

 1232年、モルドヴァー人遠征に派遣される。ムーロム系・リャザニ系諸公とともにモルドヴァー人を打ち破った。

 1237年、モンゴルがリャザニに襲来。父は救援の依頼を断ったが、リャザニが陥落すると、フセーヴォロド・ユーリエヴィチが南方防衛に派遣された。ヴラディーミル軍を率いたフセーヴォロド・ユーリエヴィチは、リャザニ系のロマーン・イングヴァーレヴィチとともにコロームナ(リャザニ領)に立てこもる。
 1238年、モンゴル軍はコロームナを攻略。ロマーン・イングヴァーレヴィチは殺され、フセーヴォロド・ユーリエヴィチはヴラディーミルに逃げ帰った。
 父は軍勢を集めにヤロスラーヴリへ赴くが、フセーヴォロド & ムスティスラーフ兄弟はヴラディーミル防衛のために後に残された。この間、モンゴル軍はモスクワで、もうひとりの弟ヴラディーミル・ユーリエヴィチを捕らえる。
 2月3日、モンゴル軍はヴラディーミル(都市)に侵攻。門前でヴラディーミル・ユーリエヴィチを殺す。これを見てフセーヴォロドとムスティスラーフはすぐさま出撃しようとしたが、総督ピョートル・オスリャデュコヴィチに留められた。
 モンゴル軍の攻囲を前に、死を覚悟したフセーヴォロド・ユーリエヴィチと妻は修道士に。
 2月7日、モンゴル軍の総攻撃により、新市街が陥落。フセーヴォロド・ユーリエヴィチ等は旧市街に避難した。フセーヴォロド・ユーリエヴィチは供物を携えてバトゥのもとへ。しかしバトゥは赦さず、フセーヴォロド・ユーリエヴィチは殺された。
 この日、旧市街も陥落。母アガーフィヤ・フセーヴォロドヴナ、妻マリーナ・ヴラディーミロヴナ、末弟ムスティスラーフ・ユーリエヴィチ、妹フェオドーラ・ユーリエヴナ(9歳?)も殺された。

 遺骸はヴラディーミルのウスペンスキイ大聖堂に埋葬されている。

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