リューリク家人名録

フセーヴォロト・ユーリエヴィチ «ボリショーエ・グネズドー»

Всеволод Юрьевич "Большое Гнездо"

キエフ大公 великий князь Киевский (1173)
ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ公 князь Переяславский (1176-77)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1177-1212)

生:1154
没:1212.04.15

父:ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイキエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ
母:ギリシャ人

結婚①:
  & マリーヤ・シュヴァルノヴナ -1206 (北カフカーズ)

結婚②:
  & リューボン公女 (ヴィテブスク公ヴァシリコ・ブリャチスラーヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
マリーヤ・シュヴァルノヴナと
1ズブィスラーヴァ/ペラゲーヤ
2フセスラーヴァロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ1174-1214(チェルニーゴフ系)
3ヴェルフスラーヴァロスティスラーフ・リューリコヴィチ1173-(スモレンスク系)
4エレーナ-1205
5コンスタンティーン1186-1219ロストーフアガーフィヤ-1220スモレンスク公ムスティスラーフ老公
6グレーブ1187-89
7ボリース1187-88
8ユーリイ1189-1238スーズダリアガーフィヤ-1238チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公
9ヤロスラーフ1191-1246ペレヤスラーヴリユーリイ・コンチャーコヴィチ
フェオドーシヤ-1244トローペツ公ムスティスラーフ幸運公
10ヴラディーミル1193-1229スタロドゥーブチェルニーゴフ公グレーブ・スヴャトスラーヴィチ
11スヴャトスラーフ1196-1252ユーリエフエヴドキーヤ-1228ムーロム公ダヴィド・ユーリエヴィチ
12イヴァン1198-1247スタロドゥーブ
アンナヴラディーミル・リューリコヴィチ1187-1239

第9世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。洗礼名ドミートリイ。ユーリイ・ドルゴルーキイの末男。

 母親はビザンティン皇女オリガとされることがあり、皇帝イオアンネス2世・コムネノスの娘だとされることもある。しかしビザンティン側の史料によれば、この頃ルーシに嫁入りした娘はいない。どこかに伝承の間違いがあるのだろう。
 とはいえのちのことを考えると、どうやらビザンティン帝国出身であったことは確かなようだ。

 フセーヴォロド・ユーリエヴィチの生まれた1154年は、キエフ大公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの死んだ年。父は早速キエフ獲得のため南下。ロストーフ=スーズダリにはまだ幼少のミハルコとフセーヴォロドの兄弟を残した。父としては、生き残った息子たちのうちの長男アンドレイ・ボゴリューブスキイキエフ大公位を継承させ、ほかの弟たちにその周辺を固めさせて、本領ロストーフ=スーズダリはミハルコとフセーヴォロドに与えようと考えていたとされる。
 しかしアンドレイ・ボゴリューブスキイは1155年には南ルーシを棄ててロストーフ=スーズダリに戻ってきてしまう。

 1157年、父が死去。ロストーフ=スーズダリは異母兄アンドレイ・ボゴリューブスキイが継承し、フセーヴォロド・ユーリエヴィチは兄のもと、母とともに暮らす。

なお、アンドレイ・ボゴリューブスキイがヴラディーミルに遷都したため、ロストーフ=スーズダリはこれ以降ヴラディーミル=スーズダリと呼ばれることになる。

 1161年頃(1162年?)、アンドレイ・ボゴリューブスキイにより、母や兄たちとともに北東ルーシから追放される。おそらく母の伝手を頼って、その故郷ビザンティン帝国へ。
 この時追放された兄弟が、フセーヴォロド・ユーリエヴィチのほかに具体的に誰だったのかはっきりしない。兄ヴァシリコ・ユーリエヴィチなどは皇帝マヌエル1世・コムネノスから領土をもらったとも言われているが、フセーヴォロド・ユーリエヴィチのギリシャでの生活についてはまったくわからない。
 すでに1169年には、フセーヴォロド・ユーリエヴィチはアンドレイ・ボゴリューブスキイにより派遣されたキエフ遠征軍に従軍している。それ以前に帰国していたものと考えられる。兄ミハルコ・ユーリエヴィチからゴロデーツ=オステョールスキイをもらった、とする説もある。

 1170・71年にキエフ大公グレーブ・ユーリエヴィチが死去。当時キエフ公領に勢力を張っていたスモレンスク系のロスティスラーヴィチ兄弟と、ヴラディーミルから南ルーシに影響力を及ぼしていた異母兄アンドレイ・ボゴリューブスキイとの合意により、ロスティスラーヴィチ兄弟のロマーン・ロスティスラーヴィチキエフ大公となった。
 しかしアンドレイ・ボゴリューブスキイとロスティスラーヴィチ兄弟の協調体制は長続きせず、1173年(?)、アンドレイ・ボゴリューブスキイロマーン・ロスティスラーヴィチを追い出し、ミハルコ・ユーリエヴィチキエフ大公に任じた。しかしミハルコ・ユーリエヴィチは自身の分領トルチェスクを離れず、代わりにフセーヴォロド・ユーリエヴィチと甥ヤロポルク・ロスティスラーヴィチをキエフに派遣した。
 しかしわずか5週間後には、反撃に転じたロスティスラーヴィチ兄弟のリューリク・ロスティスラーヴィチにより、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチとともに捕らえられている。その後リューリク・ロスティスラーヴィチミハルコ・ユーリエヴィチと和解し、フセーヴォロド・ユーリエヴィチは釈放された。
 その年さらにユーリエヴィチ兄弟はキエフに侵攻するが、敗北し、ミハルコ・ユーリエヴィチとフセーヴォロド・ユーリエヴィチはチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチのもとに身を寄せた。ここには当時ヤロポルク・ロスティスラーヴィチとその兄ムスティスラーフ無眼公のロスティスラーヴィチ兄弟もおり、分領を持たないヴラディーミル系諸公のたまり場となっていた。

 1174・75年、アンドレイ・ボゴリューブスキイが死去。
 アンドレイ・ボゴリューブスキイには息子がおらず、ふたりの弟ミハルコ・ユーリエヴィチとフセーヴォロド・ユーリエヴィチ、さらにふたりの甥ムスティスラーフ無眼公ヤロポルクのロスティスラーヴィチ兄弟がいただけだった。年長権からするとミハルコ・ユーリエヴィチが後を継ぐべきであったが、アンドレイ・ボゴリューブスキイを嫌うロストーフやスーズダリのボヤーリンたちは、その弟よりも甥を選んだ。フセーヴォロド・ユーリエヴィチは当然ミハルコ・ユーリエヴィチを支持した(叔父の権利が甥の権利に優先するとすれば、ミハルコ・ユーリエヴィチの死後は自分にお鉢が回ってくることになるから)。こうして叔父たちと甥たちとの間に内紛が勃発。
 年代記によれば、ロスティスラーヴィチ兄弟をロストーフとスーズダリが、ユーリエヴィチ兄弟をヴラディーミルとペレヤスラーヴリ(=ザレスキイ)が支持して、北東ルーシは分裂したらしい。
 一旦はヴラディーミルを追われたユーリエヴィチ兄弟は、チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチと同盟。1175・76年、ロスティスラーヴィチ兄弟を追い、北東ルーシを確保した。フセーヴォロド・ユーリエヴィチは兄からロストーフを領地としてもらう(ペレヤスラーヴリとの史書も)。
 1176・77年、ミハルコ・ユーリエヴィチが死ぬ。ヴラディーミルはフセーヴォロド・ユーリエヴィチを支配者として認めるが、懲りないロストーフはムスティスラーフ無眼公を公として招いた。フセーヴォロド・ユーリエヴィチはユーリエフ=ポリスキイ近郊の戦いで甥を破り、ロストーフのボヤーリンたちを屈服させて、北東ルーシにおける支配権を確立した。これに伴い、ロストーフの没落も決定的となった。

 ムスティスラーフ無眼公は当初ノーヴゴロドに逃亡したが、その後義弟のリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチのもとに身を寄せる。
 1176年、グレーブ・ロスティスラーヴィチはモスクワを焼き打ち。これに対してフセーヴォロド・ユーリエヴィチにはオレーク & ヴラディーミルのスヴャトスラーヴィチ兄弟(チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの子)、さらには甥ヴラディーミル・グレーボヴィチが合流。グレーブ・ロスティスラーヴィチはポーロヴェツ人と同盟してヴラディーミルに侵攻。ヴラディーミル軍はリャザニ軍を破り、グレーブ・ロスティスラーヴィチ、その子ロマーン・グレーボヴィチ、そしてムスティスラーフ無眼公を捕虜とした。さらにヴラディーミル軍はフセーヴォロド・ユーリエヴィチとは別行動でヴォローネジュに侵攻し、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチを捕虜とする。
 フセーヴォロド・ユーリエヴィチはロスティスラーヴィチ兄弟の目をつぶす一方、グレーブ・ロスティスラーヴィチにはリャザニを棄てることを要求。それを拒否し続けたまま、グレーブ・ロスティスラーヴィチは獄死。その子ロマーン・グレーボヴィチは、以後フセーヴォロド・ユーリエヴィチの傀儡となることを条件に釈放した。
 残る甥ユーリイ・アンドレーエヴィチを追放し、フセーヴォロド・ユーリエヴィチは、かつての異母兄アンドレイ・ボゴリューブスキイとまったく同じく、北東ルーシの絶対的支配者となった(例外が甥のヤロスラーフ赤公。別の甥ヴラディーミル・グレーボヴィチの領土は南ルーシのペレヤスラーヴリ=ユージュヌィイ)。

 1178年、対リャザニ戦で支援をしなかった懲罰として、ノーヴゴロドに侵攻。トルジョークを焼き払い、公ヤロポルク・ロスティスラーヴィチを捕虜とした。

 おそらくこの頃に結婚したものと思われる(娘ふたりが1180年代末に結婚しているので、常識的に考えて1180年以前に生まれていたと推定される)。北東ルーシにおける支配権を確立して、ホッと一息ついて嫁取り、というところだったのだろう。
 その妻は、マリーヤ・シュヴァルノヴナとして知られ、ボヘミア王女とされてきた。しかしこの時期ボヘミアにルーシに嫁入りした王女はおらず、シュヴァルンなどという名の王もいない。こんにちでは、一般に北カフカーズ系の出身だったとされているようだ。どのような伝手で、またはどのような思惑でそのような相手と結婚したのかよくわからない。
 なお、妻の妹がヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチ(?)と結婚している。

 1180年、リャザニのグレーボヴィチ兄弟に内紛が勃発。ロマーン・グレーボヴィチの支援に、その義弟グレーブ・スヴャトスラーヴィチチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの子)が駆け付け、ロマーン・グレーボヴィチの弟たちはフセーヴォロド・ユーリエヴィチに泣きついた。フセーヴォロド・ユーリエヴィチはリャザニに侵攻。ロマーン・グレーボヴィチを追放し、グレーブ・スヴャトスラーヴィチを捕虜とした。
 アンドレイ・ボゴリューブスキイ死後一貫してフセーヴォロド・ユーリエヴィチを支援してきたスヴャトスラーフ・フセヴォローディチはこれに激怒。フセーヴォロド・ユーリエヴィチとチェルニーゴフ・リャザニ連合の対立となった。
 しかしスヴャトスラーフ・フセヴォローディチは、ヴィテブスク公ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチと組んでスモレンスク系のリューリク & ダヴィドのロスティスラーヴィチ兄弟とも対立している最中で、結局フセーヴォロド・ユーリエヴィチとの全面戦争は回避された。
 1182年、リューリク・ロスティスラーヴィチの仲介で、フセーヴォロド・ユーリエヴィチとスヴャトスラーフ・フセヴォローディチは和解した。

 1184年、ヴォルガ・ブルガールに遠征。軍事行動は成功していたが、甥イジャスラーフ・グレーボヴィチの戦死を契機に遠征を中断し、ヴォルガ・ブルガールと講和した。
 1186年にも遠征軍を派遣し、この時は大量の捕虜や戦利品を持ちかえった。

 かの «イーゴリ公» が南方でポーロヴェツ人と戦っていた頃だが、フセーヴォロド・ユーリエヴィチはポーロヴェツ人を傭兵として積極的に活用している。
 とはいえ、1198年には南方ステップに遠征し、ポーロヴェツ人を黒海沿岸まで追い払っている。

 1186年、リャザニ諸公間で内紛が再発。グレーブ・ロスティスラーヴィチの遺児たちが、イーゴリ & ヴラディーミルと、フセーヴォロド & スヴャトスラーフとに分かれて対立。リャザニ公であった長兄のロマーンには収拾することができず、後者がフセーヴォロド・ユーリエヴィチの救援を要請したことから、フセーヴォロド・ユーリエヴィチが介入。以後、20年にわたってリャザニはフセーヴォロド・ユーリエヴィチの «属国» となった。

 1187年、再びノーヴゴロドに侵攻。ノーヴゴロド市民は屈して、ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチを追ってヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ(妻がフセーヴォロド・ユーリエヴィチの妻の妹)を公とした。

 1187年、甥のペレヤスラーヴリ公ヴラディーミル・グレーボヴィチが死去。別の甥ヤロスラーフ赤公を後任として送り込む。

 1187年、ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルが死去。その後後継の地位を巡り混乱が続くが、フセーヴォロド・ユーリエヴィチは1190年にヴラディーミル・ヤロスラーヴィチ(甥)の要請に応えてその庇護者を任じ、これを支援した。

 1194年、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチがリャザニ遠征を計画するが、年代記によると事前にフセーヴォロド・ユーリエヴィチに許可を求めたものの、フセーヴォロド・ユーリエヴィチはこれを認めなかったという。リャザニがフセーヴォロド・ユーリエヴィチの勢力圏であったことを如実に物語っている。
 同年スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが死ぬと、キエフ大公位を継いだリューリク・ロスティスラーヴィチは、娘婿のヴォルィニ公ロマーン偉大公に5都市を与えて友好関係を強化した。
 スモレンスク系とヴォルィニ系との結びつきを怖れたフセーヴォロド・ユーリエヴィチはこれに介入し、5都市の割譲を取り消させた(うち1都市をリューリクの子ロスティスラーフ・リューリコヴィチに与えさえた)。
 これが契機となってリューリク・ロスティスラーヴィチロマーン偉大公との間に紛争が勃発したが(おそらくフセーヴォロド・ユーリエヴィチの目論見通り)、フセーヴォロド・ユーリエヴィチは終始リューリク・ロスティスラーヴィチを支持した(ただし言葉で)。
 1196年にリューリク・ロスティスラーヴィチチェルニーゴフ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチと対立した際には、チェルニーゴフに軍を派遣するが、ひとりで勝手に講和を結んで撤退してしまった。これを契機にリューリク・ロスティスラーヴィチはフセーヴォロド・ユーリエヴィチとの協調路線を転換。フセーヴォロド・ユーリエヴィチも逆にロマーン偉大公との友好路線に転じた。

 1195年、ノーヴゴロドがフセーヴォロド・ユーリエヴィチの押しつけたヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチを追い出し、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチはトルジョークに依ってノーヴゴロドと対抗。しかしノーヴゴロドは結局フセーヴォロド・ユーリエヴィチに屈し、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチの復帰を認めた。
 ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチの後は、フセーヴォロド・ユーリエヴィチの子らが10年にわたってノーヴゴロドを支配した。

 1202年、リューリク・ロスティスラーヴィチチェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公と同盟してガーリチ=ヴォルィニ侵攻を計画。しかし逆にロマーン偉大公が先手を打ち、キエフに侵攻。リューリク・ロスティスラーヴィチはキエフを棄て、フセーヴォロド真紅公はチェルニーゴフに逃げ帰った。フセーヴォロド・ユーリエヴィチはロマーン偉大公とともにキエフをイングヴァーリ・ヤロスラーヴィチに与える。
 キエフ奪還を目指したリューリク・ロスティスラーヴィチは翌1203年にもフセーヴォロド真紅公と同盟してキエフに侵攻。イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチを追う。
 キエフに侵攻したロマーン偉大公がオーヴルチにリューリク・ロスティスラーヴィチを攻囲するが、ここでフセーヴォロド・ユーリエヴィチも含む3者の講和が成立。フセーヴォロド・ユーリエヴィチが後見する形でリューリク・ロスティスラーヴィチキエフ大公に返り咲き、ロマーン偉大公もこれを認めた。
 しかしこの年のうちにロマーン偉大公リューリク・ロスティスラーヴィチとの対立が再燃。リューリク・ロスティスラーヴィチは強制的に修道士にさせられ、息子たちはガーリチに拘禁された。フセーヴォロド・ユーリエヴィチは息子たちを釈放させ、その長男ロスティスラーフ・リューリコヴィチキエフ大公に就けた。

 1205年、ロマーン偉大公が死去。リューリク・ロスティスラーヴィチキエフ大公に返り咲き、南ルーシ情勢は劇的に変化した。
 1206年、リューリク・ロスティスラーヴィチを筆頭にしたスモレンスク系一族と、フセーヴォロド真紅公を筆頭にしたスヴャトスラーヴィチ一族が、共同してガーリチに侵攻。同盟者の遺児としてフセーヴォロド・ユーリエヴィチが庇護していたダニイール・ロマーノヴィチを追って、ガーリチのみならずヴォルィニをも平定した。
 勢いに乗ったフセーヴォロド真紅公は、息子のヤロスラーフをペレヤスラーヴリから追い、さらにリューリク・ロスティスラーヴィチを追って自らキエフ大公となる。
 わずかの間に、フセーヴォロド・ユーリエヴィチの南ルーシにおける影響力はほとんど失われた。これは、かつての同盟者リューリク・ロスティスラーヴィチと敵対し、その後同盟を結んだロマーン偉大公が死に、比較的友好的な関係にあったチェルニーゴフ公(この時点ではフセーヴォロド真紅公)が独自の動きを起こしたため、南ルーシにおけるフセーヴォロド・ユーリエヴィチの代弁者が失われてしまったことによる。兄アンドレイ・ボゴリューブスキイもロスティスラーヴィチ兄弟と対立した晩年は同じ状況に陥ったが、父のように自ら南ルーシに乗り込まず、北ルーシから南ルーシ情勢を «遠隔操作» しようとする、これが限界であったろう。

 1207年、フセーヴォロド・ユーリエヴィチは一族のほかに、ムーロム=リャザニ系諸公も招集。失われた覇権を再構築しようとチェルニーゴフ遠征に向かおうとするが、リャザニ諸公がフセーヴォロド真紅公に通じている事実が発覚。
 1208年になってフセーヴォロド・ユーリエヴィチはリャザニを攻略し、リャザニとプロンスクを没収。ヤロスラーフにリャザニを、ムーロム公ダヴィト・ユーリエヴィチにプロンスクを与える。リャザニ市民が反発して蜂起すると、軍を率いてリャザニを攻略。リャザニを焼き打ちし、市民をスーズダリに強制移住させた。
 同年、逃亡したイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチミハイール・フセヴォローディチがモスクワに侵攻。しかしこれを息子のユーリイ・フセヴォローディチが撃退する。

 この頃になると、フセーヴォロド・ユーリエヴィチも老齢からかその勢力に陰りが見え始めた。
 1210年、府主教マトヴェーイの仲裁により、オーリゴヴィチ一族(フセーヴォロド真紅公その他)と講和。
 さらに同年、ノーヴゴロドが息子のスヴャトスラーフ・フセヴォローディチを追放し、スモレンスク系のムスティスラーフ幸運公を公として招いたが、フセーヴォロド・ユーリエヴィチはこれをあっさり受け入れた。

 死の直前、長男コンスタンティーン賢公ヴラディーミル大公位を譲り、次男ユーリイには古都ロストーフを分け与えようと考えたらしい。
 ところがフセーヴォロド・ユーリエヴィチは、すでに数年前からロストーフを含む北方の統治をコンスタンティーン賢公に委ねてきた。このため愛着があったのだろう。コンスタンティーン賢公はロストーフを弟に明け渡すことを拒否。怒ったフセーヴォロド・ユーリエヴィチは、ボヤーリンたちにも諮った末に、コンスタンティーン賢公には望みどおりロストーフを保持させる代わりに、ユーリイ・フセヴォローディチに年長権とヴラディーミル大公位を譲り渡すこととした。
 こうして北東ルーシは、父ユーリイ・ドルゴルーキイが公となって以来100年間続いてきた単独支配が崩れ、他の公領と同様に、分領へ細分化していく道を辿る。

 リャザニ、ヴォルガ・ブルガールへの遠征を通じて領土を拡大すると同時に、ノーヴゴロド、スモレンスク、キエフ、チェルニーゴフ、ガーリチにまで影響力を及ぼす。
 その数多くの子女(男10人、女4人)から、«ボリショーエ・グネズドー(大きな巣)» のあだ名を与えられた。
 ヴラディーミルのウスペンスキイ大聖堂に葬られる。

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