リューリク家人名録

ヴァシリコ・ユーリエヴィチ

Василько Юрьевич

スーズダリ公 князь Суздальский (1149-54)
ポローシエ公 князь Поросьский (1155-61)

生:?
没:?

父:ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイキエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ
母:オリガ (ビザンティン皇女)

結婚:?

子:?

第9世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。

 母親については、父の先妻であるアエパ・ハーンの娘とする説と、後妻であるビザンティン皇女オリガ(ビザンティン側の史料には存在せず、おそらく伝承の間違い)とする説とが、おそらく半々といったところ。
 アエパ・ハーンの娘が母親であったとすると、ロスティスラーフアンドレイイヴァングレーブボリースより年少であったことは、経歴の比較からしてまず間違いない。もっとも、単なる経歴の比較から言えば、ムスティスラーフとはどちらが兄でどちらが弟だか。とすると、生年の上限は1110年代の後半といったところか。しかし1120年の生まれであったとしても、1146年の時点ですでに24歳。もう少し活躍していてもおかしくはない。やはり母親はアエパ・ハーンの娘ではなかった、ということか。
 «ビザンティン皇女» が母親であったとすると、こちらもその経歴から考えて、ミハルコフセーヴォロドより年長であったことはまず間違いあるまい。すでに1150年代初頭から軍事面で活動していたところを見ると、その生年はどんなに遅くても1140年より前であろう。
 なお、私見(と言うよりは私的な妄想)についてはロスティスラーフの項を参照。

 1149年、父はついにキエフ大公となった。この時父は南ルーシに兄たちを引き連れていて、本領のロストーフ=スーズダリにはヴァシリコ・ユーリエヴィチが残された。すでに成年に達していたヴァシリコ・ユーリエヴィチがロストーフ=スーズダリを預けられた、ということなのか、あるいは南ルーシに連れていくにはヴァシリコ・ユーリエヴィチがまだ幼すぎたということか。

 1152年、父によりノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチのもとに派遣され、父をキエフから追ったイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとの戦いに従事する。しかしイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに撃退され、ロストーフ=スーズダリに逃げ帰った。

 1155年、父はみたびキエフ大公となる。この時はヴァシリコ・ユーリエヴィチも父のお伴をして南ルーシへ。キエフ公領南端の、遊牧民族との国境にあたるポローシエ地方を与えられた。同年、この地方にいるテュルク系の遊牧民族を率いてポーロヴェツ人を撃退する。

 1157年、父が死去。チェルニーゴフ公イジャスラーフ・ダヴィドヴィチキエフ大公となる。
 父という後ろ盾を失ったヴァシリコ・ユーリエヴィチは、新任のキエフ大公にポローシエから追われてしまってもおかしくはなかったはずだ。しかしどうやらヴァシリコ・ユーリエヴィチは、そのままポローシエ公としてとどまることができたようだ。これはひとつには、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチの娘婿となっていた兄のグレーブ・ユーリエヴィチの口添えもあったのかもしれない。
 しかしそのイジャスラーフ・ダヴィドヴィチもやがてキエフ大公位を追われ、1159年にはロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチキエフ大公となる。この時もヴァシリコ・ユーリエヴィチは、そのままポローシエ公としてとどまることができた。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは父とは対立していたはずだが、あるいはヴァシリコ・ユーリエヴィチはロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチキエフ大公就任を支持したのかもしれない。

 1160年、オーヴルチ公リューリク・ロスティスラーヴィチとともにロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを支援して戦う(誰と? は不明だが、おそらくイジャスラーフ・ダヴィドヴィチ)。

 その後はロストーフ=スーズダリに戻ったらしい。その事情は不明だが、あるいはやはりロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチに叩きだされたのか。
 しかしロストーフ=スーズダリでは、兄のアンドレイ・ボゴリューブスキイが弟たちに分領を与えず、単独の支配権を打ち立てていた。そこにノコノコ戻ってきたヴァシリコ・ユーリエヴィチは、兄にとっては厄介な存在だったろう。
 1162年頃、アンドレイ・ボゴリューブスキイにより、«ビザンティン皇女» や弟たちとともに北東ルーシから追われ、コンスタンティノープルへ。皇帝マヌエル1世・コムネノスからドナウ河畔の4都市をもらう。以後の消息は不明。

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