ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチ
Василий Александрович
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1252-55、55-57)
生:1240頃
没:1271
父:ヴラディーミル大公アレクサンドル・ネフスキイ (ヴラディーミル大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ)
母:アレクサンドラ (ポーロツク公ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ)
結婚:?
子:?
第12世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。アレクサンドル・ネフスキイの長男。
1252年、父がヴラディーミル大公に。ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチはその後任としてノーヴゴロド公とされる。
その直後、リトアニア軍が侵攻。ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチはトローペツ近郊でこれを破った。さらにリヴォニア騎士団と戦うプスコーフの救援にノーヴゴロド軍を派遣する。
1255年、反アレクサンドル・ネフスキイ派のノーヴゴロド市民がヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチを追放し、叔父トヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチを公として招く。ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチはトルジョークに避難。父はノーヴゴロドに侵攻し、軍事的圧力をかけてヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチを公として復帰させた(ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチは逃亡)。
1256年、スウェーデンが、おそらくナルヴァ(チューディ湖北岸部)に都市の建設を始める。ノーヴゴロド市民は父に救援を要請。父はノーヴゴロド軍に加えてニージュニイ・ノーヴゴロド軍も加えてこれを撃退した。ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチがノーヴゴロド公に復帰したのはこの時だとも言われる。
1257年、モンゴルがノーヴゴロドへの課税を要求し、父がこれを呑む。ノーヴゴロド市民が父に反抗すると、これにはヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチも同調。
父がモンゴル軍とともにノーヴゴロドに来ると、ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチはプスコーフに逃亡。その後ニージュニイ・ノーヴゴロド方面に追放された。
1263年に父が死去。しかし最後まで父の信頼が回復することはなく、父の遺領はふたりの弟ドミートリイとアンドレイによって分割された。