リューリク家人名録

ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ

Ростислав Юрьевич

ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1138-39、41)
ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский (1149-50)

生:?
没:1150

父:ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイキエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ
母:? (ポーロヴェツ人のハーン・アエパ)

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1エヴフロシーニヤ-1179グレーブ・ロスティスラーヴィチ-1178リャザニ公
2ムスティスラーフ-1178ロストーフノーヴゴロド市長ヤクーン・ミロスラーヴィチ
3ヤロポルクヴラディーミルポーロツク系

第9世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。

 ユーリエヴィチ兄弟については、詳細がよくわからない。しかしその経歴からして、ロスティスラーフ・ユーリエヴィチを長男とする点では、おそらくすべての学者が一致しているだろう。その場合、両親の結婚が1108年であるから、ロスティスラーフ・ユーリエヴィチの生年は1109年か1110年辺りではないだろうか。
 ただしこれは一般論。以下、ユーリエヴィチ兄弟の生年に関して私見を述べる。
 純粋に経歴だけから見ると、ユーリエヴィチ兄弟が1120年以降の生まれでも不思議はない。実際、ユーリエヴィチ兄弟の子供たちはみな、1140年代後半以降の生まれとしか思えない。

 ロスティスラーフの息子たちは、年代記への初出が1160年代初頭。娘も1160年代初頭に結婚している。
 アンドレイは1148年に結婚しており、子供たちは当然それ以降の生まれである。
 グレーブは1156年の結婚。子供たちもそれ以降の生まれである。
 ボリースの娘婿の生年は1144年以降(ユーリイ・ドルゴルーキイキエフ大公だった1155年から57年の時期に結婚したとする文献もある)。
 ムスティスラーフの息子は、年代記への初出が1177年である。
 ミハルコの娘は1180年に結婚。
 フセーヴォロトの息子たちは1180年代から90年代に生まれている。

 ミハルコフセーヴォロドの子供の生年が極端に遅いが、これはこのふたり自身の生まれが1150年頃だったからである。
 1140年代後半より前に生まれた者がいないということは、要するにユーリエヴィチ兄弟が結婚適齢期に入ったのがその頃だということではないだろうか。当時の男子の結婚適齢期がいくつかはよくわからないが、40歳前後とはとうてい思えない。常識的に考えれば20代であろう。とすると、ユーリエヴィチ兄弟の生年はやはり1120年代からそれ以降ということになる。
 ユーリエヴィチ兄弟には1150年に結婚したとされる姉妹がふたりいる。このふたりの生年はどう考えても1130年代である。もしユーリエヴィチ兄弟が1110年代の生まれとすると、1110年代のユーリエヴィチ兄弟、1130年代の姉妹、そして1150年代のミハルコフセーヴォロドと、ユーリイ・ドルゴルーキイの子供たちはどうにも整理がつかなくなってしまう(あるいは母親が3人いたか)。これもまたこの私見に従えばすっきりする。
 1120年前後に生まれたロスティスラーフを筆頭に、アンドレイイヴァングレーブボリースムスティスラーフヴァシリコの兄弟が続き、エレーナとオリガの姉妹が1130年代半ばの生まれとなる。こんなところだったのではないだろうか。
 ではアエパ・ハーンの娘は1108年に結婚してから1120年まで子を産まなかったのかということになるが、あるいはそういうことかもしれないし、あるいはアエパ・ハーンの娘は1120年頃に死に、ユーリエヴィチ兄弟の母親は別の女性だったのかもしれない(やはりユーリイ・ドルゴルーキイに妻が3人いたことになってしまうが)。
 以下、私見をまとめておく。

母親生年備考
アエパ・ハーンの娘1120頃ロスティスラーフ1138ノーヴゴロド公
1120s前半アンドレイ1146遠征
イヴァン1146遠征
グレーブ1146兄の遺体引き取り
1120s後半ボリース1146兄の遺体引き取り
1120s末ムスティスラーフ1150兄の葬儀
1130頃ヴァシリコ1149スーズダリに居残り
1130s前半エレーナ1150結婚
オリガ1150結婚
ビザンティン皇女1150頃ヤロスラーフ1164遠征
1150s前半ミハルコ1168遠征
1154フセーヴォロド1169遠征
スヴャトスラーフ

 1138年、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチを追ったノーヴゴロド市民の要請に応えた父により、ノーヴゴロド公として派遣される。しかし1139年にスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの兄フセーヴォロド・オーリゴヴィチキエフ大公になると、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチノーヴゴロド公に返り咲いた。
 1141年、再びスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチを追ったノーヴゴロド市民の要請により、ロスティスラーフ・ユーリエヴィチがノーヴゴロド公に。しかしすぐに、今度は従兄弟スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチに公位を奪われる。
 この頃すでにノーヴゴロドはリューリク家による支配から脱しつつあり、そのためロスティスラーフ・ユーリエヴィチのノーヴゴロド公位も安定しなかったのだろう。特に、キエフ・ルーシの覇権を巡るチェルニーゴフ系、ムスティスラーヴィチ兄弟(ムスティスラーフ偉大公の子)、その叔父たちモノマーシチ兄弟(父を含むヴラディーミル・モノマーフの子)の争いが、ノーヴゴロド内の党派争いと絡み合い、それがこの時期のノーヴゴロド公位が猫の目のようにめまぐるしく替わった要因ともなっている。

 1146年、キエフ大公フセーヴォロド・オーリゴヴィチが死去。キエフ市民はその弟イーゴリ・オーリゴヴィチを投獄し(のち殺す)、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチキエフ大公として招いた。
 イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはロスティスラーフ・ユーリエヴィチの従兄弟、父にとっては甥にあたり、その大公位就任は父の権利を侵害するものであった。当然父は自らキエフ大公位を目指し、実兄を殺されたスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチと手を結ぶ。
 ロスティスラーフ・ユーリエヴィチは1146年(1147年?)、弟アンドレイ・ボゴリューブスキイとともにリャザニに派遣され、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを支持するリャザニ公ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチをリャザニから追った。

 1148年、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチを支援するため、父によりノーヴゴロド=セーヴェルスキイに派遣される。
 すでに1146年以来、イヴァングレーブのふたりの弟がノーヴゴロド=セーヴェルスキイに派遣されていたが、イヴァンは病死。グレーブも敗退していた。ロスティスラーフ・ユーリエヴィチは、この方面の局面打開を期待されて投入されたのだろう。
 しかしロスティスラーフ・ユーリエヴィチは、よりによってキエフのイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチのもとに赴き、父がロストーフ=スーズダリに分領を与えてくれない、と訴えた。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはロスティスラーフ・ユーリエヴィチにゴロデーツ(=オステョールスキイ)など6都市を与えた。
 1149年、ロスティスラーフ・ユーリエヴィチがキエフ市民やベレンデイ人(ステップのテュルク系遊牧民族)と謀ってイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに対する叛逆を企んでいる、とボヤーリンたちがイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに密告。ロスティスラーフ・ユーリエヴィチは否定するものの、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチにより追放された。
 父のもとに戻ったロスティスラーフ・ユーリエヴィチは、父を唆し、南ルーシに遠征。父がイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを追い、キエフ大公となると、ロスティスラーフ・ユーリエヴィチはペレヤスラーヴリをもらった。父の長男として、伝統に則り、父の死後キエフ大公を継ぐべき者としてペレヤスラーヴリに配されたということか。
 この一連の出来事の真相はよくわからない。ロスティスラーフ・ユーリエヴィチは、真実父を裏切ったのか、それとも一種の «スパイ» として送り込まれたのか。
 本領ヴォルィニに逃げ帰ったイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが伯父ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを攻撃すると、ロスティスラーフ・ユーリエヴィチはその救援にペレソープニツァに派遣され、さらに父とともにルーツクを攻囲。

 1150年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフに侵攻し、父はゴロデーツ=オステョールスキイ(ペレヤスラーヴリ公領)に逃亡。勢いに乗ったイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、ロスティスラーフ・ユーリエヴィチのペレヤスラーヴリに侵攻してくるが、ロスティスラーフ・ユーリエヴィチは弟アンドレイ・ボゴリューブスキイの支援を得て、これを撃退する。
 一方、その間にスヴャトスラーヴィチ一族と同盟した父がキエフを奪還。この年、さらにもう一度政権が交替し、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチキエフ大公となって年を越した。もっともこの辺り、年代記の記述も整合性を欠き、また不明確であって、はっきりしない。
 いずれにせよ、父とイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの争いが続く中(1150年か51年)、ロスティスラーフ・ユーリエヴィチは死去。弟たちアンドレイ・ボゴリューブスキイグレーブムスティスラーフにより、ペレヤスラーヴリの聖ミハイール教会の、ふたりの伯父スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチアンドレイ善良公の傍らに埋葬された。

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