リューリク家人名録

ムスティスラーフ・ユーリエヴィチ

Мстислав Юрьевич

ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1154-57)

生:?
没:?

父:ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイキエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ
母:オリガ (ビザンティン皇女)

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1ヤロスラーフ-1199ノーヴゴロド
ロマーンガーリチ
フセーヴォロド

第9世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。

 1150年、長兄ロスティスラーフ・ユーリエヴィチが死んだ時、アンドレイ・ボゴリューブスキイグレーブ・ユーリエヴィチとともにその遺骸をペレヤスラーヴリの聖ミハイール教会に葬った。
 この時点で南ルーシ(ペレヤスラーヴリ)にいたということは、おそらく前年の1149年に父に伴われて南ルーシ遠征に従軍していたということだろう。一説には、ヴォルィニのペレソープニツァを分領として与えられていたとも言われる。

 生年は不明。それどころか、厳密に言えば母親も不明。とはいえ、兄弟の中では年少であるらしいことから、父の後妻を母としていたのではないかも考えられる。
 しかし1150年の時点で成人していたと考えられ、だとすると1154年に末弟フセーヴォロド大巣公を産んでいる父の後妻の子とは少々考えづらい。
 おそらく一般的には先妻の子とする説と後妻の子とする説とが半々といったところではないだろうか。
 もし先妻の子であるとすると、両親の結婚は1108年。母の死がいつ頃かは不明だが、高齢出産であったとしても、ムスティスラーフ・ユーリエヴィチの誕生は遅くてもせいぜい1130年ではないだろうか。常識的に考えれば、兄たちが大勢いたので、1120年前後といったところか。
 他方、もし後妻の子であったとすると、いくら何でも1150年の時点で幼児であったとも考えづらいので、やはり1140年以前に生まれていたと考えた方がいいように思う。末弟フセーヴォロド大巣公が1154年に生まれている以上、かなり年の離れた兄だったということだろうか。
 なお、その経歴からすると、ロスティスラーフアンドレイイヴァングレーブボリースの弟であったことは確かだろう。ヴァシリコとの長幼の順はよくわからないが、1149年の時点でスーズダリに残されたのはヴァシリコだけで、兄たちはすべて南ルーシに伴われている。とすると、1150年の時点で南ルーシにいたムスティスラーフもまた、ヴァシリコより年長だったのではないだろうか。
 私見についてはロスティスラーフ・ユーリエヴィチの項を参照のこと。

 1154年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。キエフ大公で、父の仇敵だったイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの死により、父は精力的に勢力回復に乗り出す。
 これに絡んで、ノーヴゴロドでは内部対立が激化。父を支持する一派がダヴィド・ロスティスラーヴィチを追いだし、ムスティスラーフ・ユーリエヴィチが父によりノーヴゴロドに送り込まれた。
 しかしムスティスラーフ・ユーリエヴィチの公位は、父ユーリイ・ドルゴルーキイの覇権によりかかったものであった。このため1157年に父が死ぬと、ノーヴゴロドは分裂。反ユーリイ派(主にボヤーリン)が結集してムスティスラーフ・ユーリエヴィチの襲撃を計画すると、事前に察知したムスティスラーフ・ユーリエヴィチは商人たちを味方につけ、これに対抗した。一触即発の状況に、スモレンスクのロスティスラーヴィチ兄弟がノーヴゴロドを確保しようと襲来。ムスティスラーフ・ユーリエヴィチは逃亡した。

 その後の消息は不明。
 父の跡を継いだ兄アンドレイ・ボゴリューブスキイは北東ルーシに «個人独裁» を打ち立てようとした。このため、弟たちには分領を分け与えていない。それどころか1162年頃には、継母(父の後妻)とその子たち(ミハルコフセーヴォロド大巣公等)を北東ルーシから追放している。
 ムスティスラーフ・ユーリエヴィチも、しばしばこの時追放された口だとされている。だとすると、やはり父の後妻の子だったのだろうか。それともアンドレイ・ボゴリューブスキイは、同母・異母に関係なく弟たちを軒並み追放したということなのだろうか。
 その後のムスティスラーフ・ユーリエヴィチについては不明。一説ではビザンティン皇帝よりドナウに領土をもらったとも、あるいは1166年にルーシに帰還したとも言われる。

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