ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチ «ベズオーキイ»
Мстислав Ростиславич "Безокий"
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1160-61、77、77-78)
ロストーフ公 князь Ростовский (1175-76)
生:?
没:1178.01.20−ノーヴゴロド
父:ペレヤスラーヴリ公ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ (ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイ)
母:?
結婚:1175
& ? -1178 (ノーヴゴロド市長ヤクーン・ミロスラーヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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ヤクーン・ミロスラーヴィチの娘と | ||||||
1 | スヴャトスラーフ |
第10世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。
生年は不明。父の生年も母親が誰かも不明なので推測のしようがないが、個人的には1140年代末の生まれではないかと思っている。
いずれにせよ、父が1150年に死んでいるので、それ以前の生まれであることは間違いない。すると、少なくとも1154年に生まれた叔父のフセーヴォロド大巣公よりも年長の甥だったということになる。同じく叔父のミハルコ・ユーリエヴィチよりも年長だったのではないだろうか。
1150・51年に父が死去。1157年には祖父が死去。父が祖父の長男であったので、単純な長子相続制であればムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチが祖父の後を継ぐべきであったが、当時のルーシにはまだ長子相続制は存在せず、存命中の最年長の叔父アンドレイ・ボゴリューブスキイがヴラディーミル=スーズダリを継いだ。
1160年、アンドレイ・ボゴリューブスキイによりノーヴゴロドに公として送り込まれる。しかし早くも翌年にはスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと合意したアンドレイ・ボゴリューブスキイにより、ノーヴゴロド公位を取り上げられた。
キエフ・ルーシでは «ヴォーッチナ(父祖の地)» は諸子で分割するのが通例であったが、アンドレイ・ボゴリューブスキイはヴラディーミル=スーズダリを一括支配し、弟や甥たちには一切の分領を与えなかった。あまつさえ1161年には、かれらをそろってビザンティン帝国に追放した。
ビザンティン帝国では、ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチはパレスティナに領土をもらったとも言われるが、よくわからない。
しかし、どうやら1169年頃までにはルーシに戻っていたようだ。
1169年、アンドレイ・ボゴリューブスキイの軍に従い、キエフに侵攻。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチを追う。
1173年、アンドレイ・ボゴリューブスキイの軍に従い、キエフに侵攻。リューリク・ロスティスラーヴィチを追おうとするが、結局敗退。ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチは、弟ヤロポルク・ロスティスラーヴィチ、叔父ミハルコ & フセーヴォロドのユーリエヴィチ兄弟とともに、チェルニーゴフに逃亡し、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの庇護を受けた。
もっとも、史書によっては全然別のことを言っているものもある。
それによると、ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチは1169年頃にトリポーリ公となった。しかしその年のうちにロスティスラーヴィチ兄弟(ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子ら)に追われ、ペレヤスラーヴリ公だったミハルコ・ユーリエヴィチのもとに逃亡。しかし受け入れてもらえず、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチのもとに身を寄せたのだという。
1174・75年、アンドレイ・ボゴリューブスキイ死去の知らせがチェルニーゴフに届く。同時にヴラディーミル=スーズダリのボヤーリンたちはロスティスラーヴィチ兄弟を公として招聘した。
これに対してロスティスラーヴィチ兄弟は、あるいはチェルニーゴフでの居候生活で共感が芽生えたか、叔父のユーリエヴィチ兄弟と4人でヴラディーミル=スーズダリを支配することを提案し、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチとミハルコ・ユーリエヴィチが先発した。しかしロストーフとスーズダリのボヤーリンはヤロポルク・ロスティスラーヴィチのみを認め、ミハルコ・ユーリエヴィチはヴラディーミルに依って対抗したが、結局チェルニーゴフに逃げ帰った。
こうして一旦はムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチがロストーフを、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチがヴラディーミルを支配した。この対立には、主都の地位をヴラディーミルに奪われたロストーフとスーズダリが復権を果たそうとする意図もあったようだ。兄であるムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチがロストーフ公となったという点にも、このような背景があるように思われる。だから、ロスティスラーヴィチ兄弟の肩書きをそれぞれ「ロストーフ公」、「ヴラディーミル大公」とするのはおそらく間違い。ヤロポルク・ロスティスラーヴィチがムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチに対して宗主権を行使した、という事実はない。
なお、ロスティスラーヴィチ兄弟はユーリエヴィチ兄弟の甥ではあったが、上述のように、まず間違いなく叔父たちよりも年上。年上の甥と年下の叔父とが年長権を争うこの構図は、かつてのイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとユーリイ・ドルゴルーキイの対立の再現である(ユーリイ・ドルゴルーキイの生年が1096年以降だとして)。
1175・76年、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチに反発したヴラディーミル市民がミハルコ・ユーリエヴィチを招聘。ミハルコ・ユーリエヴィチがチェルニーゴフから軍を率いて北上してくると、ヤロポルク・ロスティスラーヴィチも軍を率いてこれを迎え撃つ。ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチも弟の援軍に赴くが、ミハルコ・ユーリエヴィチの軍と偶発的に遭遇。ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチは敗北し、ノーヴゴロドに逃亡した。
ノーヴゴロドではムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチは市長ヤクーン・ミロスラーヴィチの娘と結婚し、公位を獲得した。
1176・77年、ミハルコ・ユーリエヴィチが死去。その弟フセーヴォロド大巣公が後を継ぐ。
しかし懲りないロストーフのボヤーリンは、再びムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチを公として招聘。ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチは従士団とロストーフ軍を率いて叔父と戦うが、敗北。
ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチは再びノーヴゴロドに逃亡するが、一旦公位を棄てたムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチをノーヴゴロドは今回は迎え入れようとせず、ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチは義兄のリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチのもとに身を寄せる。
グレーブ・ロスティスラーヴィチのもとにはヤロポルク・ロスティスラーヴィチもいた。合流したロスティスラーヴィチ兄弟は、義兄を唆してフセーヴォロド大巣公との戦いを始めさせる(もっとも、以前から干渉を繰り返していた)。しかし1177年、ヴラディーミルに侵攻したリャザニ軍は敗北を喫し、3人の公はいずれも捕虜となった。
ヴラディーミルの市民は3人の公、特にロスティスラーヴィチ兄弟の処罰を強硬に主張したが、どうやらフセーヴォロド大巣公は乗り気ではなかったらしい。とりあえず監禁したまま、チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチやムスティスラーフ勇敢公の取り成しに反発して処罰要求を激化させた市民に屈して、ようやく兄弟の目をつぶして釈放した。
ロスティスラーヴィチ兄弟はスモレンスクに送られたが、聖ボリース・グレーブ教会にて、突然視力を取り戻した。タティーシチェフによれば、市民の要求に屈したふりをして、フセーヴォロド大巣公は、甥たちのまぶたの皮膚をちょろっと切っただけで市民を騙していたのだという。
1177年、ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチはヤクーン・ミロスラーヴィチのおかげでノーヴゴロド公に返り咲く。
しかし翌年には早くも死んだ。死因はわからない。聖ソフィヤ大聖堂に葬られた。
添え名の «ベズオーキイ» とは「眼がない」という程度の意味。ここでは、日本語としては少々おかしいが、«無眼公» としておいた。
なお、こういう添え名で知られているということは、やはり視力を回復したというエピソードは作り話なのだろう。