リューリク家人名録

ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ

Дмитрий Александрович

ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1259-64、72-73、76-81、85-92)
ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ公 князь Переяславль-Залесский (1263-94)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1276-81、84-92)

生:1250頃
没:1294−ヴォロク

父:ヴラディーミル大公アレクサンドル・ネフスキイヴラディーミル大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ
母:アレクサンドラ (ポーロツク公ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1マリーヤダウマンタス1240?-99プスコーフ公
2イヴァン1268-1302ペレヤスラーヴリロストーフ公ドミートリイ・ボリーソヴィチ
3アレクサンドル-1292
4イヴァン-1290

第12世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。アレクサンドル・ネフスキイの次男。

 1257年、兄ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチが父の怒りをこうむり、追放される。以後、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチが事実上の長男格となる。

 1259年、父によりノーヴゴロド公とされる。
 1262年、叔父のトヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチとともにユーリエフ(ドイツ語名ドルパト/デルプト、現タルトゥ、エストニア)のドイツ人を攻略。

 1263年、父が死去。ヴラディーミル大公位は、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチが継ぐ。父の遺領は兄を除く3兄弟で分割され、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはペレヤスラーヴリ=ザレスキイを受け取った(次弟アンドレイはゴロデーツ、末弟ダニイールはモスクワ)。
 この報せを受けたノーヴゴロド市民により、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチは追放される。ノーヴゴロド公にはヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチが招かれた。ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはまだ幼く、リヴォニアの脅威に対抗するには父の後ろ盾を失った幼児よりもヴラディーミル大公の方がいいとノーヴゴロド市民が判断したのだろう。

 1269年、ノーヴゴロドを支援してリヴォニア騎士団と戦う。
 1270年、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチを追い出したノーヴゴロド市民により公として招かれるが、叔父に配慮したのか、これを拒否。あまつさえヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチノーヴゴロド公位を奪回するのを支援した。

 1272年、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチに従ってサライに伺候。その帰途ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチが死去。叔父のコストロマー公ヴァシーリイ・ミジンヌィイヴラディーミル大公位を継いだ。
 この時、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチとヴァシーリイ・ミジンヌィイは、それぞれノーヴゴロド市民に自らを公として売り込む。ノーヴゴロド市民は、ヴラディーミル大公ノーヴゴロド公を兼ねることは権力集中につながると考えてヴァシーリイ・ミジンヌィイを拒否。他方でドミートリイ・アレクサンドロヴィチに対しても、公権の制限を条件として出してきた。
 ヴァシーリイ・ミジンヌィイトヴェーリ公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチとともにノーヴゴロドに侵攻し、トルジョークを占領。
 1273年、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはノーヴゴロド軍を率いてトヴェーリに侵攻。しかしヴァシーリイ・ミジンヌィイの強硬な態度にノーヴゴロド市民が動揺すると、追放される前に自らノーヴゴロド公位を放棄しペレヤスラーヴリ=ザレスキイに戻った。

 1276年、ヴァシーリイ・ミジンヌィイが死去。父の世代が死に絶え、同世代の中で最年長となったドミートリイ・アレクサンドロヴィチがヴラディーミル大公となる。同時にノーヴゴロド市民もかれを公として承認した。なお、かれはその後もヴラディーミルにもノーヴゴロドにも赴かず、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイに居住し続けた。

 すでに1249年以来、スウェーデンがカレリアに侵攻していたが、1278年、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはカレリアに侵攻し、ノーヴゴロドの覇権を再確立する。
 ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはさらにフィンランド湾岸部を確保するため、ここにコポーリエ要塞を建設した。しかしこれはノーヴゴロドの勢力拡大であると同時に、ノーヴゴロド共和国内におけるドミートリイ・アレクサンドロヴィチ個人の権力拡大にもつながる。このためコポーリエ要塞を巡り、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチとノーヴゴロド市民とが対立することになった。
 1281年、ついにドミートリイ・アレクサンドロヴィチはペレヤスラーヴリ=ザレスキイから兵を集め、ノーヴゴロドに侵攻。ノーヴゴロド主教クリメントの要請に応えてノーヴゴロド市民と和解するものの、コポーリエに自分の軍隊を駐留させた。

 この1281年、ロストーフではこれを共同統治していたボリーソヴィチ兄弟に内紛が勃発。兄ドミートリイが弟コンスタンティーンを追ってロストーフを独り占めにした。ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはロストーフ主教イグナーティイの要請によりこれに介入。ふたりを仲裁し、和解させた。

 1281年、弟ゴロデーツ公アンドレイ・アレクサンドロヴィチがサライへ。ハーンのメング=ティムール(トゥダ=メング?)からヴラディーミル大公位を認められ、モンゴル軍を率いてヴラディーミルへ。
 キプチャク・ハーンの威光を借りたアンドレイ・アレクサンドロヴィチに抗し得る諸公はおらず、ヤロスラーヴリ公フョードル黒公スタロドゥーブ公ミハイール・イヴァーノヴィチ、さらにはドミートリイ・アレクサンドロヴィチに恩義のあるロストーフ公コンスタンティーン・ボリーソヴィチすらアンドレイ軍に合流。
 ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはノーヴゴロドに逃亡。ところがノーヴゴロド市民もドミートリイ・アレクサンドロヴィチを受け入れようとはせず(1282年?)、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはバルト海へと逃れた。スカンディナヴィアに逃亡したとも言われている。ちなみにノーヴゴロドはコポーリエ要塞を破壊した(のち再建)。

 モンゴル軍がステップに戻ったのを受けて1283年、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはペレヤスラーヴリ=ザレスキイに帰還し、軍を集める。アンドレイ・アレクサンドロヴィチは再びモンゴル軍の援助を受けようとサライへ赴く。
 他方ノーヴゴロドはモスクワ公ダニイール・アレクサンドロヴィチトヴェーリ公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチと同盟し、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチと対峙。結局両者間には講和が結ばれた。ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはノーヴゴロド公位を諦める代わりに、ヴラディーミル大公位を認めさせた。
 しかしこれは当然アンドレイ・アレクサンドロヴィチの与り知らぬことである。モンゴル軍を引き連れて戻ったアンドレイ・アレクサンドロヴィチは改めて兄と対峙。ドミートリイ・アレクサンドロヴィチは、またしてもモンゴル軍に抗しきれずに逃亡した。
 ドミートリイ・アレクサンドロヴィチは今度は黒海方面へと逃亡。そこには、キプチャク・ハーン国最大の実力者ノガイがいた。ノガイの実力はハーンの権威を上回るほどになっており、トゥダ=メングの権威とノガイの実力との相克が、たとえばルィリスク公オレーグ・ムスティスラーヴィチリペツク公スヴャトスラーフ・アンドレーエヴィチを巡る騒動(ちょうど1283年に勃発した)にも反映されている。
 結局アンドレイ・アレクサンドロヴィチはノガイの実力に屈服し、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチにヴラディーミル大公位を返還した。

 1285年、アンドレイ・アレクサンドロヴィチは再びヴラディーミル大公位を狙い、モンゴルと結ぶ。ただし、その詳細、そして以後の展開については、参考にした歴史書がそれぞれ異なることを書いているので、よくわからない。
 一方にはトゥダ=メングと結んだアンドレイ・アレクサンドロヴィチをドミートリイ・アレクサンドロヴィチが破り、以後7年間北東ルーシは平穏だったとするものがあれば、他方にはノガイと結んだアンドレイ・アレクサンドロヴィチに敗北したドミートリイ・アレクサンドロヴィチが、プスコーフを拠点に以後7年間アンドレイ・アレクサンドロヴィチとの対立を続けたとするものもある。
 いずれせよ、兄弟間の対立は7年後に最終的な決着を見ることになる。
 なお、この間の1288年にはトヴェーリに侵攻しているが、ミハイール・ヤロスラーヴィチと講和し、以後友好関係を維持する。

 1292年、アンドレイ・アレクサンドロヴィチロストーフ公ドミートリイ & ウーグリチ公コンスタンティーンのボリーソヴィチ兄弟、その従兄弟のベロオーゼロ公ミハイール・グレーボヴィチヤロスラーヴリ公フョードル黒公と同盟し、ともにサライに伺候。トフタにドミートリイ・アレクサンドロヴィチに対する苦情を申し立てた。
 トフタの派遣した軍により、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはペレヤスラーヴリ=ザレスキイも奪われ、プスコーフに逃亡(プスコーフ公ダウマンタスは娘婿)。アンドレイ・アレクサンドロヴィチがヴラディーミルとノーヴゴロドを占領し、フョードル黒公がペレヤスラーヴリ=ザレスキイを獲得した(ドミートリイの子イヴァン・ドミートリエヴィチはコストロマーに追われた)。
 モンゴル軍が撤退すると、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはトヴェーリへ。トヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチ(反ドミートリイ連合には加わっていない)を味方にしてアンドレイ・アレクサンドロヴィチと戦おうと考えたが、従士団がアンドレイ・アレクサンドロヴィチに捕らえられ、断念。
 ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはアンドレイ・アレクサンドロヴィチの大公位を認める代わりに、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイを返還してもらった(フョードル黒公には結局何も残らない)。
 しかしドミートリイ・アレクサンドロヴィチは、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイに戻る途中で死んだ。ペレヤスラーヴリ=ザレスキイに葬られている。

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