アンドレイ・フョードロヴィチ
Андрей Федорович
スタロドゥーブ公 князь Стародубский (1363-)
生:?
没:?
父:スタロドゥーブ公フョードル・イヴァーノヴィチ (スタロドゥーブ公イヴァン・ミハイロヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
フョードル | ||||||
1 | ヴァシーリイ | ポジャールスキイ | ||||
イヴァン | リャポロフスキイ | |||||
ダヴィド | パレツキイ |
第14世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。
1363年、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイと対立した兄イヴァン・フョードロヴィチがスタロドゥーブを追われ、アンドレイ・フョードロヴィチに公位が与えられた。モスクワの意向に従順な存在と見られたのだろう。
1375年、ドミートリイ・ドンスコーイのトヴェーリ遠征に従軍。1380年のクリコーヴォの戦いでは、モスクワ軍の右翼を指揮した(ちなみにかれと共に右翼を指揮したのは、同名のロストーフ=ウスレティンスキイ公アンドレイ・フョードロヴィチ)。
その没年等、不明。
おそらくスタロドゥーブ系で最後の分領公であったと考えられる。ただし、学者の中には、かれの息子フョードル・アンドレーエヴィチ、孫フョードル・フョードロヴィチ、そして曾孫ヴラディーミル・フョードロヴィチまでもスタロドゥーブ公であったと考える者もある。いずれにせよ、子、孫、曾孫の代にスタロドゥーブ公領は細分化されていき、分領としての実体はなくしていく。