ヴァシーリイ・アンドレーエヴィチ・ミクーリンスキイ
Василий Андреевич Микулинский
公 князь
生:?
没:1540
父:ミクーリン公アンドレイ・ボリーソヴィチ (ミクーリン公ボリース・アレクサンドロヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | ||||||
1 | アレクサンドラ | フョードル・イヴァーノヴィチ・ベズズーブツェフ | (ロマーノフ家の分家) | |||
2 | アナスタシーヤ | セミョーン・アラブィシェフ公 | (ヤロスラーヴリ系) |
第19世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。モスクワ大公の勤務公。
アンドレーエヴィチ兄弟の生年は不明だが、単純に考えると1470年代か。
父は1485年にトヴェーリ大公領がモスクワに併合された際に、自身の分領を失い、モスクワ大公イヴァン3世の勤務公となっている。ボヤーリンとされたのだから厚遇されたと言えるだろう。
この時点ではヴァシーリイ・アンドレーエヴィチはまだ若かったと想像される。長兄ヴラディーミル・アンドレーエヴィチが早くも1480年代末から史書に登場しているのに対して、ヴァシーリイ・アンドレーエヴィチが登場するのは世紀が替わってから。言わばヴラディーミル・アンドレーエヴィチの後任格で(ヴラディーミル・アンドレーエヴィチは1506年に死んだ)、西方、対リトアニア戦の指揮を執る。ヴェリーキエ・ルーキ、ヴャージマ、ポーロツクなど、各地に派遣されてリトアニアと戦った。1531年、南方戦線に移り、トゥーラ、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ、コロームナなどで、総督、軍司令官を歴任する。
ヴァシーリイ3世死後も南方で軍の指揮を執る。このため、リトアニアとの戦争には従事していない。
かれの死でミクーリンスキイ公家は断絶した(ただし分家のプーンコフ家の人間がミクーリンスキイと呼ばれることがある)。