スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ
Святослав Ярославич
プスコーフ公 князь Псковский (1264-66)
トヴェーリ公 князь Тверской (1271-82/85)
生:?
没:1282/85
父:トヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチ (ヴラディーミル大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ)
母:ナターリヤ? クセーニヤ公女 (トルーサ公ユーリイ・ミハイロヴィチ)?
結婚:?
子:?
第12世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。
母親は、父の最初の妻とする説、ふたり目の妻とする説の両説がある。最初の妻が死んだのは1252年、父が再婚したのは1266年とされるので、つまりはスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチがいつ生まれたかよくわかっていないということだ。
もっとも、父の再婚が1266年、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチがプスコーフ公となったのが1264年とする一般論が正しければ、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの母は父の最初の妻でしかあり得ない(スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチがプスコーフ公になったのは1256年とする説すらある)。
であるとすると、父の生年は1230年頃と推測されるので、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチは1250年前後の生まれと見ていいだろう。
スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチがプスコーフ公になったのは、上述のように1264年とするのが一般論だと思われるが、1256年とする説もあるようだ。しかし1256年は父が伯父アレクサンドル・ネフスキイに敗北して逃げ回っている最中だったので、少々考えづらい気がする。
1267年、ノーヴゴロドとプスコーフの対立に絡んで、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチはプスコーフ公位を追われる。
1271/72年、父が死去。スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチがトヴェーリ公位を継いだ。
ヴラディーミル大公位を継いだ叔父ヴァシーリイ・ミジンヌィイは、ノーヴゴロト公位を巡って従兄弟ドミートリイ・アレクサンドロヴィチと争う。ノーヴゴロドはドミートリイ・アレクサンドロヴィチを選ぶが、ヴァシーリイ・ミジンヌィイはこれに反発。この時スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチは叔父を支持し、ノーヴゴロド攻略に加わっている。
1273年、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチはノーヴゴロド軍を率いてトヴェーリに侵攻してきた。しかし結局ノーヴゴロドを棄ててペレヤスラーヴリ=ザレスキイに帰還している。
1276年、ヴァシーリイ・ミジンヌィイが死に、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチがヴラディーミル大公位を継いだ。しかし1281年に、その弟アンドレイ・アレクサンドロヴィチとの間に大公位を巡る内紛が勃発。
1283年、アンドレイ・アレクサンドロヴィチがサライに赴いて不在中、スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチはノーヴゴロド、モスクワ公ダニイール・アレクサンドロヴィチと同盟してドミートリイ・アレクサンドロヴィチと対峙。ドミートロフにも攻め込んだが、結局は講和している。
ドミートロフ攻略は年代記では1282年のこととされているが、この記述を最後にスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチは年代記から姿を消す。