オーシプ・アンドレーエヴィチ
Осип Андреевич
ドロゴブージュ公 князь Дорогобужский (1437-85)
ボヤーリン боярин (1495-)
生:?
没:?
父:ドロゴブージュ公アンドレイ・ドミートリエヴィチ (ドロゴブージュ公ドミートリイ・エレメーエヴィチ)
母:?
結婚:
& アナスタシーヤ公女 (ヴェレヤー公ミハイール・アンドレーエヴィチ)
子:?
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
母親不詳 | ||||||
? | イヴァン | |||||
? | イヴァン・オフチーナ | -1538 | オボレーンスキイ |
第17世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。
1480年、モスクワ大公イヴァン3世の命に従い、ウグラ河畔に出陣。
1485年、この年イヴァン3世はトヴェーリ大公領を事実上モスクワに併合するが、オーシプ・アンドレーエヴィチは逸早くドロゴブージュを差し出し、事実上モスクワの勤務公となる。代わりにヤロスラーヴリをもらった。
1487年、カザン遠征に従軍。1489年にはダニイール・シチェニャーの下でヴャートカに遠征。1493年にはトヴェーリ軍を率いてリトアニアと戦っている。
1495年、イヴァン3世により、モスクワのボヤーリンとされる。ヤロスラーヴリは失ったものの、ノーヴゴロド地方に封地をもらっている。
1496年、スウェーデンとの戦闘に従事し、ヴィボルク(ヴィープリ)を攻囲。1500年にもダニイール・シチェニャーの下でリトアニアと戦った。その後も連年のようにリトアニアとの戦いに従事している。
孫の代まで続いたとする系図もある。
オーシプという名は、イオーシフが(主に民間で)訛ったもの。年代記作者(修道士)が使うのは珍しく、それだけに実際にイオーシフではなくオーシプという名だったのだろうと推察される。ただしなぜイオーシフではなくオーシプだったかはよくわからない。