リューリク家人名録

イヴァン・フセヴォローディチ

Иван Всеволодич

プスコーフ公 князь Псковский (1399)

生:?
没:1402.03.27

父:ホルム公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチトヴェーリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ
母:ソフィヤ (リャザニ大公イヴァン・コロトポル

結婚①:
  & ? -1395 (ゴロデーツ公ボリース・コンスタンティーノヴィチ

結婚②:1397
  & アナスタシーヤ公女 (モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ

子:?

第15世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。

 生年は不明。あえて想像すると、最初の妻の父ボリース・コンスタンティーノヴィチは1353年に結婚している。当然イヴァン・フセヴォローディチの妻の生年はそれ以降ということになる。初婚で(あったとして)そんなに新郎新婦の年齢差があったとは考えづらい。父フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチの生年が1328年頃と推定されていることからしても、イヴァン・フセヴォローディチの生年は1350年代初頭といったところが妥当だろうか。

 父は1364/65/66年(はっきりしない)、疫病で死去。遺領は兄ユーリイ・フセヴォローディチが継ぎ、イヴァン・フセヴォローディチは兄の下で分領ホルムの一部を支配(1397年まで)。

 1380年、クリコーヴォの戦いでトヴェーリ軍を率いたとも言われる。

 1397年、ホルムを去ってモスクワ大公ヴァシーリイ1世に仕える。事情はよくわからないが、あるいは兄と喧嘩でもしたのかもしれない。しかしむしろ、息子へのトヴェーリ大公位移譲を図る叔父ミハイール・アレクサンドロヴィチが、甥たちへの締め付けを強化したためではないだろうか。
 イヴァン・フセヴォローディチはヴァシーリイ1世の妹アナスタシーヤ・ドミートリエヴナと結婚し、トルジョークをもらう。
 1399年、プスコーフ市民の要請により、ヴァシーリイ1世によりプスコーフ公とされる(実質はモスクワ大公の代官)。しかし同年、モスクワに帰還。
 この年、トヴェーリ大公ミハイール・アレクサンドロヴィチが死去。これを受けてイヴァン・フセヴォローディチは1400年にトヴェーリに帰還した。

 その死に際して、領土としていたホルムの一部を、ミハイール・アレクサンドロヴィチの息子アレクサンドル・オルドィネツに遺したとする文献がある。しかしアレクサンドル・オルドィネツはすでに1389年に死去しており、あるいはミハイールの孫アレクサンドル・イヴァーノヴィチのことか?

 トヴェーリに埋葬された。

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