フョードル・アレクサンドロヴィチ
Федор Александрович
生:?
没:1339.10.18−サライ
父:トヴェーリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ (トヴェーリ大公ミハイール・ヤロスラーヴィチ)
母:アナスタシーヤ (ガリツィア王ユーリイ・リヴォーヴィチ)
結婚:?
子:?
第14世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。
アレクサンドル・ミハイロヴィチの子らの長幼の順については必ずしもはっきりしないが、おそらく夭折したレフに次いでフョードルが次男だったろうと考えられている。
父の生まれが1301年であったことから、フョードル・アレクサンドロヴィチは早くても1310年代後半の生まれ、おそらくは1320年代初頭の生まれだったであろう。
父はウズベク・ハーンの怒りを買い、1327年にトヴェーリを追われた。フョードル・アレクサンドロヴィチや家族も、父とともにプスコーフに避難する。以後、しばらくかれらはプスコーフに暮らした。
1336年、フョードル・アレクサンドロヴィチは父によってサライのウズベク・ハーンのもとに派遣される。ウズベク・ハーンの赦しが得られるかどうか、その感触を探るのが目的だった。
翌年、父は自らサライに赴き、ウズベク・ハーンの赦しを得た。こうして父はトヴェーリ大公に返り咲き、フョードル・アレクサンドロヴィチもトヴェーリへと帰還することができた。
なお、フョードル・アレクサンドロヴィチがサライに赴いたのは1333年とする文献もある。その場合、フョードル・アレクサンドロヴィチはまだ10歳前後だったであろうから、サライにおいて任務を遂行したのは同行したボヤーリンたちだったということになるだろう。
しかし父のトヴェーリ帰還とともに、父とモスクワ公イヴァン・カリターとの対立が再燃。1339年、ウズベク・ハーンが父をサライに召喚する。この時父は、再びフョードル・アレクサンドロヴィチを派遣した。しかしウズベク・ハーンは代理ではなく父本人の出頭をあくまで要求したため、父もサライにやって来た。
こうしてウズベク・ハーンの面前で両雄が対決するが、ウズベク・ハーンの裁定はイヴァン・カリターに下った。フョードル・アレクサンドロヴィチは、父ともどもサライで処刑された。
なお、サライにて、フョードル・アレクサンドロヴィチは、かれと同じ立場にあるイヴァン・カリターの長男セミョーン傲慢公に呪いをかけた、と言われる。セミョーン傲慢公の息子がことごとく幼年にして死に、かれの血筋が残らなかったのはそのためだ、と。