ヴァシーリイ・ミハイロヴィチ・ドルゴルーキイ=クルィムスキイ
Василий Михайлович Долгорукий-Крымский
公 князь
生:1722.07.01/07.12
没:1782.01.30/02.09−モスクワ
父:ミハイール・ヴラディーミロヴィチ・ドルゴルーキイ公 (ヴラディーミル・ドミートリエヴィチ・ドルゴルーキイ公)
母:エヴドキーヤ (ユーリイ・ミハイロヴィチ・オドーエフスキイ公)
結婚:
& アナスタシーヤ 1723-1805 (ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ・ヴォルィンスキイ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
アナスタシーヤ・ヴァシーリエヴナと | ||||||
1 | エヴドキーヤ | 1744-1811 | ヴァシーリイ・ヴラディーミロヴィチ・グルシェツキイ | 1743-1813 | ||
2 | ミハイール | 1745-91 | ||||
3 | フェオドーシヤ | 1747-1825 | ||||
4 | ヴァシーリイ | 1750-1812 | ||||
5 | プラスコーヴィヤ | 1754-1826 | ヴァレンティーン・プラトーノヴィチ・ムーシン=プーシュキン | 1735-1804 |
第26世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。ロシア貴族。
1735年には軍に。早くも1736年、露土戦争(1735-39)に従軍している。
その後も、対スウェーデン戦争(1741-43)、七年戦争(1756-63)、露土戦争(1768-71)に従軍し、順調に昇進。
1771年、クリム・ハーン国を占領。ハーンにロシアの宗主権を認めさせた。その功績により、女帝エカテリーナ2世から、クルィムスキイの姓を与えられた。
その後軍務を退き、モスクワ総司令官(1780-82)として生涯を終える。退役の理由は、元帥杖がもらえなかったことに腹を立てたからだとか。ただ、同時代人は、かれの勇敢さは認めつつも、指揮官としての能力には疑問を差し挟む向きも多かったようだ。もっともモスクワ総司令官としては、行政官としての自身の未経験さを自覚しつつ精勤し、尊敬を集めたらしい。