ミハイール・ペトローヴィチ・レプニーン
Михаил Петрович Репнин
公 князь
ボヤーリン боярин (1558-)
生:?
没:1565
父:ピョートル・イヴァーノヴィチ・レプニーン公 (イヴァン・ミハイロヴィチ・オボレーンスキイ=レプニャー公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
? | アレクサンドル | |||||
? | エレーナ | -1592 | ヴァシーリイ・シュイスキイ | 1553-1612 |
第20世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。ロシア貴族。
1545年、51年、53年とプロンスク総督に任じられ、クリム・タタール軍との戦闘に従事。1544年と49年にはカザン遠征にも従軍している。1558年にはリヴォニアに派遣され、レーヴェリ(現タリン、エストニア)を攻囲している。
その後もリヴォニア戦争で活躍したが、1565年、イヴァン雷帝の命により、「土曜日の教会で、福音書の朗読中に」殺された。
なお、息子アレクサンドル・ミハイロヴィチは、従兄弟アンドレイ・ヴァシーリエヴィチの子かもしれない。
また、レプニーン家の家系図によれば、かれにエレーナなる娘は存在しない。