リューリク家人名録

ボリース・ミハイロヴィチ・ルィコフ=オボレーンスキイ

Борис Михайлович Лыков-Оболенский

князь
ボヤーリン боярин (1606-)

生:1576
没:1646.06.02/06.12

父:ミハイール・ユーリエヴィチ・ルィコフ=オボレーンスキイ公 (ユーリイ・ヴァシーリエヴィチ・チャープリャ=ルィコフ=オボレーンスキイ公)
母:?

結婚:
  & アナスタシーヤ -1655 (ニキータ・ロマーノヴィチ・ザハーリイン

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1フェオドーシヤ-1693セミョーン公-1657アンドレイ・ウルーソフ公
2アクーリナ-1615
3ウリヤーナ1617
4エレーナ1624-フョードル公1625-55ユーリイ・フヴォロスティーニン公
5イヴァン1624

第22世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。ロシア貴族。

 宮廷へのデビューはまだフョードル1世時代。ボリース・ゴドゥノーフの庇護下にあったアナスタシーヤ・ニキーティチナと結婚する等、それなりに順調であったようだ(なお結婚が正確にいつかは不明。あるいはもっと後かもしれない)。
 1598年、ボリース・ゴドゥノーフはツァーリに即位。こうなると、フョードル1世とつながるザハーリイン(ロマーノフ)一族はツァーリ位を脅かす存在となる。このためボリース・ゴドゥノーフはザハーリイン一族に対する迫害を開始し、これによりボリース・ミハイロヴィチ公も1600年に失脚した。
 ボリース・ゴドゥノーフの死後は、偽ドミートリイ1世に仕えてクラーフチイ。ヴァシーリイ4世にも仕え、ボロートニコフ軍との戦闘にも加わる。
 1610年、ヴァシーリイ4世が廃位されると、ボリース・ミハイロヴィチ公は «セミボヤールシチナ» の一員となり、ポーランド王太子ヴワディスワフをツァーリとして招くことに同意。さらにポーランド軍をモスクワに招きいれた。

 1613年、ミハイール・ロマーノフがツァーリとして即位すると、その叔父として重用される。カザニ総督(1620-22)、スィスクノーイ・プリカーズ長官(逃亡農民の捜索)(1623-28)、カザニ宮廷プリカーズ長官(1635-43)などを歴任した。

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最終更新日 30 11 2012

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