リューリク家人名録

ヴラディーミル・ダヴィドヴィチ

Владимир Давыдович

チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1139-51)

生:?
没:1151.05.12

父:チェルニーゴフ公ダヴィド・スヴャトスラーヴィチキエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ
母:?

結婚:1144
  & ? (グロドノ公フセーヴォロド・ダヴィドヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
グロドノ公女と
1ヴャチェスラーフ
2スヴャトスラーフ-1166ヴシチージュロスティスラーヴァヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリュープスキイ

第8世代。スヴャトスラーヴィチ。

 一般に弟とされる聖スヴャトーシャは1080年頃の生まれと考えられており、1106年に妻を亡くしたのが出家の契機となったことからも、ほぼその生年は妥当だろうと考えられる。
 とすると、ヴラディーミル・ダヴィドヴィチはその兄とされるからにはそれより早い生まれということになる。ふたりの間にイジャスラーフ等ほかの兄弟もいたらしいことからすると、1、2年の歳の差ではなかっただろう。
 しかしその場合、ヴラディーミル・ダヴィドヴィチは1151年に70代にもなって自ら戦場に赴いていることになる。しかも1139年までは年代記に登場しないのだから、ずいぶん遅咲きであったわけだ。結婚も(何度目かは不明だが)1144年のこととされているのだから、これまたずいぶん晩婚である。
 以上のことを考えると、むしろヴラディーミル・ダヴィドヴィチは聖スヴャトーシャの、かなり年の離れた弟と考えた方が妥当な気もする。
 なお、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはヴラディーミル・ダヴィドヴィチの後を継いでチェルニーゴフ公となっているので、このふたりの長幼の順は通説のとおりであると考えていいだろう。

 1123年、父が死去。この時にはすでに聖スヴャトーシャが修道士となって17年が経っていた。しかしヴラディーミル・ダヴィドヴィチが年代記に登場するのは、このさらに16年後のことである。チェルニーゴフ公位は叔父ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチが継いだとしても、ヴラディーミル・ダヴィドヴィチに(弟イジャスラーフ・ダヴィドヴィチにも)分領が与えられていないのは、一族と不和であったらしい形跡も特段ないだけに不審である。もっとも、従兄弟のオーリゴヴィチ兄弟もこの時点では分領を与えられていない。スヴャトスラーヴィチ一族伝来の領土は、チェルニーゴフもノーヴゴロド=セーヴェルスキイも、まとめてヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチが領有することになったのである。

 1127年、従兄弟のフセーヴォロド・オーリゴヴィチヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチからチェルニーゴフ公位を奪った。しかしこの時もヴラディーミル・ダヴィドヴィチには、それどころかダヴィドヴィチ兄弟にもオーリゴヴィチ兄弟(フセーヴォロドの弟たち)にも、分領は与えられていないようだ。
 ここでヴラディーミル・ダヴィドヴィチの生年についての議論を蒸し返すと、フセーヴォロド・オーリゴヴィチの公位そのものに特段の不満を示していないことからして、ヴラディーミル・ダヴィドヴィチはかれより年少だったのではないだろうか。つまり、スヴャトスラーヴィチ一族の最年長者としてフセーヴォロド・オーリゴヴィチの公位を認めたということだったのではないだろうか。だとするとヴラディーミル・ダヴィドヴィチの生年は1094年以降となる。

 1139年、従兄弟フセーヴォロド・オーリゴヴィチとともにキエフに侵攻。ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチを追い出し、フセーヴォロド・オーリゴヴィチキエフ大公に就ける。フセーヴォロド・オーリゴヴィチは褒章として、ヴラディーミル・ダヴィドヴィチをチェルニーゴフ公とした。
 しかしこれに、フセーヴォロド・オーリゴヴィチの弟イーゴリ・オーリゴヴィチが反発。ヴラディーミル・ダヴィドヴィチとイーゴリ・オーリゴヴィチとの間に、チェルニーゴフを巡って争いが始まる。

 1142年、弟イジャスラーフ・ダヴィドヴィチ、さらにはイーゴリ & スヴャトスラーフのオーリゴヴィチ兄弟とともにキエフに赴き、フセーヴォロド・オーリゴヴィチとスヴャトスラーヴィチ一族の分領について談合。一旦は決裂してダヴィドヴィチ兄弟はフセーヴォロド・オーリゴヴィチとも戦うが、聖スヴャトーシャの仲裁で和解。最終的にフセーヴォロド・オーリゴヴィチはかれらに、キエフ公領から都市を分け与えた。
 これにより一族間のしこりを失くしたスヴャトスラーヴィチ一族は、ペレヤスラーヴリ公となったヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチとの戦いを始めた。
 しかしイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチヴャチェスラーフの甥)に敗北を喫し、和議を余儀なくされた。

 1146年、フセーヴォロド・オーリゴヴィチが死去。その死の直前、弟イーゴリ・オーリゴヴィチに後を譲りたいフセーヴォロド・オーリゴヴィチは、ヴラディーミル & イジャスラーフのダヴィドヴィチ兄弟に、イーゴリ・オーリゴヴィチへの忠誠を遺言した。
 しかしキエフ市民はイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを招く。イーゴリ・オーリゴヴィチはダヴィドヴィチ兄弟に救援を要請。しかし兄弟が駆けつける前にイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフを陥れ、イーゴリ・オーリゴヴィチは捕らえられ、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチキエフ大公となった。
 この段階でダヴィドヴィチ兄弟は寝返り、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと結んだ。
 イーゴリの弟スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチユーリイ・ドルゴルーキイに救援を要請する。ダヴィドヴィチ兄弟はノーヴゴロド=セーヴェルスキイを攻囲。これにムスティスラーフイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子)も駆けつけたが、陥ちず。3人はプティーヴリ攻囲に移り、ここにイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチも駆けつけ、プティーヴリは陥落。スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチはヴャーティチ人の地に逃亡した。

ヴャーティチ人とは、キエフ・ルーシを構成した東スラヴ人の一部族。大雑把に、セーヴェルスカヤ・ゼムリャー(チェルニーゴフ公領とセーヴェルスキイ公領)の北東部、ムーロム=リャザニの西部、ロストーフ公領の南方(モスクワのすぐ南)に住んでいた。キエフ・ルーシへの統合が最も遅れた部族であり、その土地 «ヴャーツカヤ・ゼムリャー» はちょうどこの頃セーヴェルスカヤ・ゼムリャーに併合されつつあった。

 1147年、ユーリイ・ドルゴルーキイから軍を与えられたスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチは、甥スヴャトスラーフ・フセヴォローディチを通じてダヴィドヴィチ兄弟と和解。これにグレーブユーリイ・ドルゴルーキイの子)が加わる。
 これに対してイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは弟スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと同盟して対抗した。

 1148年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチチェルニーゴフ公領に出陣し、各地を焼き討ち。ダヴィドヴィチ兄弟はイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと和解し、クールスクがヴラディーミル・ダヴィドヴィチの領土として認められた。

 1149年に入ると、ユーリイ・ドルゴルーキイが南下。ヴラディーミル・ダヴィドヴィチはチェルニーゴフに留まったが、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと弟イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはペレヤスラーヴリ近郊でユーリイ・ドルゴルーキイと会戦。勝利したユーリイ・ドルゴルーキイイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチをヴォルィニに追い、自らキエフ大公に。ヴラディーミル・ダヴィドヴィチからクールスクを奪い、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチに与えた。
 ヴラディーミル・ダヴィドヴィチはユーリイ・ドルゴルーキイと和解する。変節常なかったヴラディーミル・ダヴィドヴィチも、以後はつねにユーリイ・ドルゴルーキイの側に立つ。1150年にユーリイ・ドルゴルーキイがキエフを追われた際には、その奪還に力を貸した。

 1151年、ヴラディーミル・ダヴィドヴィチとスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチユーリイ・ドルゴルーキイとともにヴォルィニに侵攻。しかしイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとその叔父ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチユーリイ・ドルゴルーキイの兄)に大敗を喫する。
 ヴラディーミル・ダヴィドヴィチも戦死した。遺骸は弟イジャスラーフ(今回はイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ側)によりチェルニーゴフに運ばれ、そこに埋葬された。ヴラディーミル・ダヴィドヴィチの妻は、夫の死の報せにポーロヴェツ人のもとに逃亡し、バシュコロド・ハーンの妻となった。

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