スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチ
Святослав Владимирович
ヴシチージュ公 князь Вщижский
生:?
没:1167−ヴシチージュ
父:チェルニーゴフ公ヴラディーミル・ダヴィドヴィチ (チェルニーゴフ公ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ)
母:? (グロドノ公フセーヴォロド・ダヴィドヴィチ)
結婚:1159
& ロスティスラーヴァ公女 (ヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキイ)
子:?
第9世代。スヴャトスラーヴィチ。
両親の結婚は1144年のことと伝えられる。しかしもしそうだとすると、スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチの生年はそれ以降ということになり、後述の出来事はすべてかれがローティーンの時期に起こったことになってしまう。もちろん全くあり得ないわけではないが、スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチの生年はせめて10年前倒しした方が常識的にはいいように思う。すると両親の結婚年が間違いなのか、母親が誰か別人だったのか。
1156年(57年?)、叔父のチェルニーゴフ公イジャスラーフ・ダヴィドヴィチから与えられた若干の領土に不満を覚え、ベリョーゾフ(チェルニーゴフ近郊)を棄ててヴシチージュへ。デスナ流域を荒らしまわる。
スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチはスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと同盟し、叔父に対抗。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチも手を焼き、講和した。
1157年、キエフ大公となったイジャスラーフ・ダヴィドヴィチから、チェルニーゴフの防衛を委ねられる。あるいはスヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチにチェルニーゴフを譲渡するつもりだったのかもしれない。そこにノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチとスヴャトスラーフ・フセヴォローディチが侵攻。スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチはこれに抵抗してチェルニーゴフを護り抜き、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチも急行してきた。
結局3者間で講和が結ばれ、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチがチェルニーゴフ公に、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが後任のノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公になり、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはチェルニーゴフ公領内に相応の領土を確保して、それをスヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチに分け与えた。スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチとしては、スヴャトスラーヴィチ一族の年長者たちの取り決めを呑まざるを得なかった。
その後もスヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチはイジャスラーフ・ダヴィドヴィチのために働き、1158年にはガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルやヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチと戦っている。
1159年、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチがキエフを追われると、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ、リューリク・ロスティスラーヴィチ(スモレンスク系)がヴシチージュを攻囲。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチに救援を要請されたヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキイが息子イジャスラーフを派遣し、攻囲軍は撤退した。
この年、スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチはアンドレイ・ボゴリューブスキイの娘と結婚し、その庇護を受けることになった。
しかし翌1160年にもスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチとスヴャトスラーフ・フセヴォローディチはヴシチージュを攻囲し、スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチは屈服。その宗主権を認め、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチがチェルニーゴフ公領に覇権を確立した。
イジャスラーフ・ダヴィドヴィチも1162年に死に、スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチは孤立無援状態に陥った。
おそらくこのためだろう、1164年にスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチが死んだ時、後継のチェルニーゴフ公位を巡る争いにはスヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチは関わっていない。年齢的にはおそらくスヴャトスラーヴィチ一族の最年長だったのではないかと思われるにもかかわらず、である。