スヴャトスラーフ・ダヴィドヴィチ/聖スヴャトーシャ
Св. Святослав Давыдович, "Святоша"
ルーツク公 князь Луцкий (1099)
生:1080頃
没:1143.10.14
父:チェルニーゴフ公ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ (キエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ)
母:?
結婚:
& アンナ公女 (キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ)
子:?
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
アンナと | ||||||
1 | ? | フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ | -1138 | ノーヴゴロド公 |
第8世代。スヴャトスラーヴィチ。
1080年頃とされる生年については、確たる根拠はない。ただ、父がおそらく1050年頃の生まれと思われる点なども考慮すると、おおよそ間違いではないだろう。
むしろ兄弟間の長幼の順こそ問題であり、一般にスヴャトスラーフ・ダヴィドヴィチは年少の弟だったと見られているようだが、長男と見る方が自然なのではないかと思われる。
1099年、キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチがヴォルィニに侵攻。スヴャトスラーフ・ダヴィドヴィチも(おそらく父に派遣されて)、これに従軍していた。
スヴャトポルク・イジャスラーヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ダヴィド・イーゴレヴィチを追ってヴォルィニを占領し、スヴャトスラーフ・ダヴィドヴィチはルーツクをもらった。
しかしダヴィド・イーゴレヴィチはポーロヴェツ人と結んで反撃し、さらにスヴャトポルク・イジャスラーヴィチがガーリチに侵攻したことから、ガーリチを支配するロスティスラーヴィチ兄弟をも敵にまわして戦う羽目に陥った。
スヴャトスラーフ・ダヴィドヴィチは一旦はスヴャトポルク・イジャスラーヴィチとともにダヴィド・イーゴレヴィチを撃退してヴォルィニを護るが、ポーロヴェツ人を率いてダヴィド・イーゴレヴィチが帰還し、ルーツクを攻囲するに及び、結局講和。ルーツクを棄ててチェルニーゴフの父のもとに逃亡した。
1106年、妻の死後、世俗を棄て、キエヴォ=ペチェールスキイ修道院にて修道士に。修道士名ニコライ。
おそらくただ1度だけ、1142年にキエフ大公フセーヴォロド・オーリゴヴィチの要請により、世俗に介入。フセーヴォロド・オーリゴヴィチに反発するその弟ふたり、そしてスヴャトスラーフ・ダヴィドヴィチ自身の兄弟ふたりを、フセーヴォロド・オーリゴヴィチと和解させる。