リューリク家の分流の1。
ヤロスラーフ賢公(5)の三男スヴャトスラーフ(6)の子孫。まれにチェルニーゴフ系と呼ばれることもある。なお、スヴャトスラーヴィチという言葉それ自体は「スヴャトスラーフの子ら、子孫」といった程度の意味なので、ほかの使い方がされる場合もある。
スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ(6)は、父の死後、兄イジャスラーフ(6)、弟フセーヴォロド(6)とキエフ・ルーシを分割し、大雑把に言って南東部を相続した。以後、スヴャトスラーヴィチはセーヴェルスカヤ・ゼムリャー(チェルニーゴフとノーヴゴロド=セーヴェルスキイ)、ムーロム=リャザニ、トムタラカーニを本領とする。
しかしスヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの死後、本領は次々に失われ、キエフ・ルーシの本流から爪弾きにされて、トムタラカーニに逼塞する。本領の奪還と勢力の回復をはかり、キエフ・ルーシの覇権を握っていたイジャスラーヴィチとモノマーシチに挑戦。
11世紀末、スヴャトスラーヴィチ兄弟(7)の活躍で、本領をすべて回復することに成功。さらに12世紀前半にはキエフ大公位をも獲得し、以後モノマーシチの仇敵となって(イジャスラーヴィチが脱落したため)、キエフ・ルーシの一方の雄として活躍した。
とはいえ、すでにこの頃にはモノマーシチもヴォルィニ系、スモレンスク系、ヴラディーミル系に分裂。同じくスヴャトスラーヴィチも、ダヴィドヴィチ兄弟(8)とオーリゴヴィチ兄弟(8)、そしてムーロム系の3つに分裂していた。オーリゴヴィチ兄弟(8)の子孫(オーリゴヴィチ)とムーロム系は存続するが、ダヴィドヴィチ兄弟(8)はオーリゴヴィチとの覇権争いに敗れ、のち断絶する。
オーリゴヴィチはスヴャトスラーヴィチの分流であり、スヴャトスラーヴィチに含まれることも多いが(あわせて «チェルニーゴフ系» と呼ばれることも多い)、ここでは分けて扱う。
また、ダヴィドヴィチ兄弟(8)とその子孫は «ダヴィドヴィチ» と呼ばれることもある。
以下、スタイルシートで家系図を示す。環境次第では(正確に)表示されない。悪しからず。(正確に)表示されない場合は、こちらの画像を。
赤枠はチェルニーゴフ公。