リューリク家人名録

ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチ «キルデャーパ»

Василий Дмитрьевич "Кирдяпа"

スーズダリ公 князь Суздальский (1383-93)
ニージュニイ・ノーヴゴロド大公 великий князь Нижегородский (1387-93)
シューヤ公 князь Шуйский (1393-1403)

生:?
没:1403−ゴロデーツ

父:ニジェゴロド=スーズダリ大公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチスーズダリ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ
母:ヴァシリーサ (ロストーフ=ボリソグレーブスキイ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1イヴァン
2ダニイール-1412
3ユーリイ
4フョードル

第15世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。

 ドミートリエヴィチ兄弟については詳細はよくわからないが、その経歴からしてヴァシーリイ・ドミートリエヴィチが長男だったろう。生年も不明だが、姉妹のエヴドキーヤ・ドミートリエヴナが1353年の生まれとされているので、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチの生年もその前後だろう。

 1365年、伯父アンドレイ・コンスタンティーノヴィチが死去。その遺領ニージュニイ・ノーヴゴロドを叔父のゴロデーツ公ボリース・コンスタンティーノヴィチが奪うと、ヴァシーリイと弟セミョーンは父に派遣されて叔父と交渉するが、埒が明かず、サライに赴いてハーンに父のニージュニイ・ノーヴゴロド領有を認めてもらった。この時ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは、同時に、ヴラディーミル大公位の認可状ももらっている。
 父ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチは1359年に一旦ハーンによりヴラディーミル大公位を認められていたが、モスクワ公ドミートリイ・ドンスコーイが実力で大公位を奪取。両者間には争いが起こったが、その後和解し、以後父はドミートリイ・ドンスコーイと友好関係を維持していた。
 この時も父は、ニージュニイ・ノーヴゴロド獲得のためドミートリイ・ドンスコーイの支援を仰いでおり、それもあって、ハーンから提示されたヴラディーミル大公位を拒否。ドミートリイ・ドンスコーイの軍事的圧力を背景に、ニージュニイ・ノーヴゴロドを獲得した。
 ちなみにこの時ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは父からスーズダリを譲られたとも言われる。

 1367年、ブラト=ティムールの率いるタタール軍がニージュニイ・ノーヴゴロド公領辺境を攻略。ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは父や叔父とともにこれを撃退した。

 1370年、父の命令で、叔父とともにタタール軍によるヴォルガ・ブルガール遠征に従軍。

 1376年、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイはヴォルガ・ブルガール遠征に総督ドミートリイ・ボブロク=ヴォルィンスキイ、ヴァシーリイ & イヴァン・ドミートリエヴィチ兄弟を派遣した。遠征軍はカザンを攻囲。アサンとマフメト=ソルターンは屈服し、金を支払う。

 1382年、キプチャク・ハーンのトクタミシュがモスクワに侵攻。ヴァシーリイ & セミョーン・ドミートリエヴィチ兄弟は父によりハーンのもとに派遣される(父は1380年のクリコーヴォの戦いに従軍せず、親タタール的立場を維持していた)。
 ドミートリエヴィチ兄弟はトクタミシュとともにモスクワを攻囲。防衛軍をだまし討ちし、クレムリンを攻略した。
 その後ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはサライにて人質生活を送る。ちなみに1383年に人質仲間となったのが、ドミートリイ・ドンスコーイの長男ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチ(のちのヴァシーリイ1世)。名・父称まで同じだったのは偶然だが、あるいはこの時期、両者の間に何らかの関係が結ばれたのかもしれない。

 1383年、父が死ぬと、トクタミシュはニージュニイ・ノーヴゴロド公位を叔父ボリース・コンスタンティーノヴィチに与える。
 1386年、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはサライから脱走。しかし逃亡途中で捕らえられ、再びサライに抑留された。

 1387年、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはトクタミシュからゴロデーツ(ボリース・コンスタンティーノヴィチの分領)の領有を認められるた上で釈放される。
 5年振りに帰国したヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは、弟セミョーン・ドミートリエヴィチとともに、ドミートリイ・ドンスコーイの支援を得て、ボリース・コンスタンティーノヴィチを追いニージュニイ・ノーヴゴロドを獲得。ただしゴロデーツはボリース・コンスタンティーノヴィチに残した(ゴロデーツもヴァシーリイ・ドミートリエヴィチが奪ったとする文献もある)。
 こうしてドミートリエヴィチ兄弟がニージュニイ・ノーヴゴロドとスーズダリとを領有することになったわけだが、ニージュニイ・ノーヴゴロドとスーズダリではあまりに距離がありすぎ、しかも途中では南からモスクワ大公領が突き刺さっている。父もスーズダリを棄ててニージュニイ・ノーヴゴロドに居住していたが、おそらくドミートリエヴィチ兄弟も実際にはそれぞれ分担していただろう。その場合、文献の中にはヴァシーリイ・ドミートリエヴィチをスーズダリ公、セミョーン・ドミートリエヴィチをニージュニイ・ノーヴゴロド公としているものもあり、そのように分割していたのかもしれない。もっとも、もしヴァシーリイ・ドミートリエヴィチがゴロデーツも獲得していたとするならば、スーズダリと、ニージュニイ・ノーヴゴロド北隣にあるゴロデーツとの両方をひとりで統治できたとはとても思えない。

 1390年、トクタミシュからニージュニイ・ノーヴゴロド公位を認められたボリース・コンスタンティーノヴィチにより、ドミートリエヴィチ兄弟はニージュニイ・ノーヴゴロドから追われた(この時代償としてゴロデーツを獲得したとする文献もある)。
 しかし1393年、モスクワ大公ヴァシーリイ1世がトクタミシュからニージュニイ・ノーヴゴロドの認可状を買収。ボリース・コンスタンティーノヴィチを追放してニージュニイ・ノーヴゴロドを併合した。この時さらにゴロデーツも併合したらしい。ドミートリエヴィチ兄弟にはスーズダリだけが残された。
 1394年、ヴァシーリイ1世にスーズダリも取り上げられ、スーズダリ公領のはずれにあるシューヤだけが分領として残された(ただしニジェゴロド=スーズダリ大公の名乗りは認められたようだ)。

 ドミートリエヴィチ兄弟は1394年のうちにトクタミシュのもとに赴き、ニージュニイ・ノーヴゴロドの奪還を目論んだが、ヴァシーリイ1世に阻まれた。
 ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチのその後は不明。セミョーン・ドミートリエヴィチは活発にヴァシーリイ1世への反抗を繰り返していたようだが、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチは記録に登場しない。そのセミョーン・ドミートリエヴィチも1401年には死に、ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチはいつかヴァシーリイ1世と和解したらしい(死んだのはモスクワ領となっていたはずのゴロデーツ)。

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