リューリク家人名録

ヴァシーリイ4世・イヴァーノヴィチ・シュイスキイ

Василий Иванович Шуйский

князь
ボヤーリン боярин (1584-1606)
ツァーリ царь всея Руси (1606-10)

生:1552・53
没:1612.09.12/09.22−ワルシャワ(ポーランド)

父:イヴァン・アンドレーエヴィチ・シュイスキイ公アンドレイ・ミハイロヴィチ・シュイスキイ公
母:アンナ・フョードロヴナ

結婚①:
  & エレーナ公女 -1592 (ミハイール・ペトローヴィチ・レプニーン公

結婚②:1608
  & マリーヤ公女 -1626 (ピョートル・イヴァーノヴィチ・ブイノーソフ=ロストーフスキイ公

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
マリーヤ・ペトローヴナ公女と
1アンナ1609-
2アナスタシーヤ1610-

第21世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。ロシア貴族。モスクワ系以外で唯一のツァーリ。

 1584年のイヴァン雷帝死後は、自身は主役ではなかったものの、権力闘争にからみ、ボグダン・ベリスキイ追い落としに参画。
 その後はボリース・ゴドゥノーフと対立する。しかし1586年、シュイスキイ一門がボリース・ゴドゥノーフにより追放された時には、いまだマイナーな存在でしかなかったためか、一族の中で唯一処分を免れる。

 多くの文献で「ヴァシーリイ・シュイスキイは早くからツァーリ位に野心を抱いており、それと言うのもシュイスキイ公家はモスクワ大公家よりも年長の家系だったから」みたいなことが書かれてあるが、後半は明確に事実関係の勘違い。
 ヤロスラーフ・フセヴォローディチの次男がアレクサンドル・ネフスキイで、その四男がモスクワ大公家の祖ダニイール・アレクサンドロヴィチである。これに対してヤロスラーフ・フセヴォローディチの三男がアンドレイ・ヤロスラーヴィチで、その末裔がシュイスキイ公家である。これではどちらが年長系か間違いようがないはずだが、間違いの基は、アンドレイ・ヤロスラーヴィチと、アレクサンドル・ネフスキイの三男アンドレイ・アレクサンドロヴィチとの混同にある。確かにアンドレイ・アレクサンドロヴィチダニイール・アレクサンドロヴィチの兄だが、その子孫は子の代で断絶している。
 この混同の原因をここで解説する気はないが、いずれにせよ誰かが間違えたものを、その後の学者たちが検証もせずに無批判に繰り返しているのだろう(アンリ・トロワイヤならまだしも、山川出版社『世界歴史体系 ロシア史』すら同じ過ちを犯している)。
 ただし、「モスクワ大公家に次ぐ年長の家系だったから」、あるいは「モスクワ大公家に最も近い家系だったから」というのであれば正しい。当時ほかに存続していたリューリコヴィチの家系は、ヤロスラーフ・フセヴォローディチの五男の家系(トヴェーリ系)、長兄の家系(ロストーフ系)、末弟の家系(スタロドゥーブ系)、そしてはるかに遠い一族(スモレンスク系、ヤロスラーヴリ系、チェルニーゴフ系、ムーロム=リャザニ系)である。このうち過去にヴラディーミル大公を輩出したことがあるのは、シュイスキイ公家(の先祖)と、年少のトヴェーリ系と年長のロストーフ系のみだが、ロストーフ系からは初代を除いてひとりもヴラディーミル大公が出ておらず、大公位を継ぎ得る家系ではなくなっていた。またトヴェーリ系のテリャーテフスキイ公家は分家の分家で、スーズダリ系の直系であるシュイスキイ公家とは格が違った。血筋の上でも、家格の上でも、モスクワ大公家を継ぎ得るのはシュイスキイ公家だけだったとは言えるだろう。
 とはいえ、モスクワ大公はすでに15世紀には他のルーシ諸公に隔絶する地位を築き上げていた。ましてツァーリとなってからは、言わば次元の異なる存在になっていたと言ってもいい。«天にまします神の地上における代理» というツァーリの «神格化» がいつ頃からかはよくわからないが、少なくともその萌芽はすでにイヴァン雷帝の時代に芽生えていたことは間違いあるまい。そういう意味では、家格などツァーリ位を継ぐ資格としては無意味であったと言っていい。しかもモスクワ大公家とシュイスキイ家とは、350年も前に分かれた家系であり、血筋の上でもほとんど無縁となっていた。その点で、迂遠な形ではあれイヴァン雷帝の血縁であったミハイール・ロマーノフとは、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは立場が大きく異なっていた。
 ちなみにミハイール・ロマーノフとの相違点としては、スムータ(動乱)の前と後という時期も挙げられよう。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの治世、およびその後の混乱を経て、ロシア人が統一と安定を希求する時代的空気が、ミハイール・ロマーノフの治世の安定化に大きな意味を持ったであろうと想像される。その意味では、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはツァーリになる時期を誤ったと言ってもいいかもしれない。

 1591年、ウーグリチでツァレーヴィチ・ドミートリイが死んだ時には、ボリース・ゴドゥノーフから調査委員会の指揮を任される。ボリース・ゴドゥノーフから信頼されていたからか(だろうとは思うが)、あるいは逆にボリース・ゴドゥノーフに敵対的であったからこそ選ばれたのか。
 いずれにせよ、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ公はツァレーヴィチ・ドミートリイの死の原因を事故と断定。もっともこれを信じた人間はいなかったらしい。

 1598年、フョードル1世が死去。モスクワ系リューリコヴィチが断絶した。誰もが認める候補者がいなかったため、後継のツァーリを決めるのには手間取った。その際、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ公は、上述のような理由から、有力な候補者と見なされたらしい。
 結局はボリース・ゴドゥノーフがツァーリとなるが、このためもあって、ボリース・ゴドゥノーフの治下においてヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ公の立場は安定しなかった(何度か宮廷からも追放されている)。もともとの野心家でなくとも、これではボリース・ゴドゥノーフに反発もしようというものだ。

 1604年に偽ドミートリイ1世がポーランド=リトアニアに出現した際には、改めてツァレーヴィチ・ドミートリイの死を確認。ボリース・ゴドゥノーフにより派遣され、偽ドミートリイ軍を破ってもいる。

なお、ポーランド王国とリトアニア大公国は1569年にルブリンにて合同し、連合国家を形成。ポーランドがリトアニアを併合したようなもので、ここでは面倒なので以下ポーランドと呼ぶことにする。その君主も正式にはポーランド王・リトアニア大公と呼ぶべきだが、これまた面倒なのでポーランド王と呼ぶ。

 しかし翌1605年にボリース・ゴドゥノーフが死ぬと、軍は雪崩をうって偽ドミートリイ側へ。モスクワへも偽ドミートリイの使節がやって来ると、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ公は「1591年に死んだのはツァレーヴィチ・ドミートリイではなく司祭の息子である」と表明。これにより、去就を決めかねていた民衆も偽ドミートリイ側へ。ボリース・ゴドゥノーフの遺児フョードル・ゴドゥノーフは殺され、偽ドミートリイ1世が即位した。
 ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ公は、ボリース・ゴドゥノーフに対してと同様偽ドミートリイにも忠実ではなかった。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ公にとっては、偽ドミートリイボリース・ゴドゥノーフを追い落とすための手段でしかなく、ゴドゥノーフ王朝が崩壊したいまとなってはその利用価値はなくなっていたということだろう。偽ドミートリイのモスクワ入城直後から友人には、偽ドミートリイは偽であると断言。これが偽ドミートリイの耳に入り、貴族会議により死刑を言い渡される。処刑の直前に偽ドミートリイによりヴャートカへの流刑に減刑。さらに偽ドミートリイの即位にともなう恩赦により、ヴャートカに赴くまでもなく罪を赦されてモスクワに戻った。その後も偽ドミートリイの不人気につけこんで、ヴァシーリイ・ゴリーツィン公、カザニ府主教ゲルモゲーン、コロームナ主教イオーナなどを語らい、クーデタを準備した。
 1606年、モスクワ市民の蜂起を煽動。偽ドミートリイが殺されるとツァーリに即位した。ボリース・ゴドゥノーフのように全国会議で選ばれたわけでも、偽ドミートリイ1世のように民衆から歓呼の声で迎えられたわけでもなく、共謀者たちによって赤の広場でツァーリと宣言されただけである。ちなみに戴冠式は行っているが、偽ドミートリイに擁立されたイグナーティイを総主教から追い出した後の後任選出に手間取り、総主教空位のまま府主教イシードルによって戴冠式は行われた。

 即位直後、ウーグリチからツァレーヴィチ・ドミートリイの遺骸をモスクワに移し、盛大な葬儀でクレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に改葬し、改めて偽ドミートリイが «偽» であることをデモンストレーションした。その一方で、偽ドミートリイがモスクワの小さな修道院に埋葬していたボリース・ゴドゥノーフフョードル・ゴドゥノーフマリーヤ・スクラートヴァの遺骸は、本来葬られるべきアルハンゲリスキイ大聖堂ではなく、セールギエフ・ポサードの聖三位一体セールギイ修道院に埋葬した。ちなみに、偽ドミートリイの遺骸は共同墓地に葬られた(ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが命じたわけではない)。

 かれの支持基盤であり、かつかれ自身の出身母体でもある大貴族に対しては、帝権の一部制限に同意。貴族会議の同意なしには何も行わないことを認めて、この結果、反偽ドミートリイ蜂起に行動をともにした大貴族たちが権力を掌握した。そのため、«貴族のツァーリ боярский царь» とみなされて一般には人気がない。ロシアでは、強大な権力を持つツァーリは下級貴族や一般大衆を大貴族の専横から守る存在だと考えられていた。オプリーチニナを始めとするイヴァン雷帝の峻烈な政策が大衆から容認され、あるいは支持されていたのも、それらが大貴族に向けられたものと認識されていたからである。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチのツァーリとしての在り方は、そのような大衆のツァーリ観とは正反対であった。
 特に、かつて偽ドミートリイ1世の支持基盤であった南ロシアでは、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチをツァーリと認めない勢力が支配的だった。
 1606年、カザニ府主教ゲルモゲーンを総主教に任命。しかしこれにより、ロストーフ府主教フィラレートがヴァシーリイから離反。またヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、自身の正統性に自信が持てなかったためか、多くの貴族を遠ざける。そのため、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの側に立っていた貴族からも離反者が現れた。これがボロートニコフの乱を引き起こし、偽ドミートリイ2世勢力を活発化させる一因ともなった。

 1606年、小貴族ミハイール・モルチャーノフがポーランドに現れ、ツァレーヴィチ・ドミートリイを自称する(もっとも本人を自称したのではなく、その «代理» を自称したのだとも言われる)。言わば «偽ドミートリイ2世» である。ただし史上偽ドミートリイ2世と呼ばれるのは別人。と言うのも、モルチャーノフは、偽ドミートリイ1世と異なり、ポーランドの支援を得られず、しかも本人も僭称に固執しなかったのかのちにモスクワに戻り、偽ドミートリイ2世陣営に加わり、セミボヤールシチナに仕えて消えた。要するに歴史的には無に等しい存在である(ただしプーシュキンによればフョードル2世殺害犯のひとり)。
 ちなみに、1606年にポーランドでは «ゼブジドフスキの叛乱» が勃発している。これは王権強化を目指すポーランド王ジグムント3世に反発した貴族たちの起こしたもので、1607年には王軍との全面的内戦に発展した。ポーランドがモルチャーノフを援助せず、モルチャーノフがポーランドに見切りをつけてモスクワに戻った背景のひとつに、このようなゴタゴタもあっただろう。
 モルチャーノフはまだポーランドにいた1606年、たまたま当地で出会った逃亡奴隷のイヴァン・ボロートニコフを «使節» として、プティーヴリ総督グリゴーリイ・シャホフスコーイ公のもとに派遣した。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ自身によりプティーヴリ総督に任命されたにもかかわらず、シャホフスコーイ公は反ヴァシーリイ派に属し、ボロートニコフの到来を機に叛乱を開始。南部は、かつて偽ドミートリイ1世の基盤となったように、もともと反政府的傾向が強かったが、「偽ドミートリイ1世は実は生き延びている」という噂が根強く、シャホフスコーイ公がそれを利用した形となった。

イヴァン・イサーエヴィチ・ボロートニコフ(-1608)の出自については必ずしもはっきりしないが、一般的にアンドレイ・テリャーテフスキイ公の «ホロープ(奴隷)» だったとされる。逃亡し、クリム・ハーン国の捕虜となり、オスマン帝国の奴隷となり、ヴェネツィアで解放され、モルチャーノフの噂を聞いてポーランドに赴いた、などと言われる。シャホフスコーイ公のもとに赴いて以降は、事実上叛乱軍の総司令官として活躍した。

 この叛乱には、ボロートニコフの元持ち主でありチェルニーゴフ総督でもあったアンドレイ・テリャーテフスキイ公、リャザニ貴族のプロコーピイ・リャプノーフ、トゥーラ貴族のイストーマ・パシュコーフなども加わる。しかし主力となったのは、ボロートニコフが結集した農民やホロープ(奴隷)であった。このためソ連史学では、«ボロートニコフの乱» は、ラージンの乱やプガチョーフの乱と並ぶ «農民戦争» と位置づけられていた。実際農民は、ボリース・ゴドゥノーフの下で «ユーリイの日» が禁止されるなど締め付けが強められ(これに反発して逃亡した農民がコサックとなった)、また1601から03に大飢饉が発生してフロプコー率いる農民叛乱も起きているように、中央権力に対する反発を強めていた。

プロコーピイ・ペトローヴィチ・リャプノーフ(-1611)はリャザニの小貴族出身だが、リャザニ地方の貴族層には大きな影響力を持っていたらしい。ボリース・ゴドゥノーフに反発しており、その死後ピョートル・バスマーノフとともに偽ドミートリイ1世側へ。その死後はヴァシーリイ・イヴァーノヴィチをツァーリと認めず。ボロートニコフの乱に参加したのもこのためだが、叛乱から離脱する時にはリャザニ勢を引き連れており、最終的な叛乱の鎮圧にも大きな役割を果たした。偽ドミートリイ2世には敵対し、リャザニ地方のみならずモスクワ防衛にも活躍している。これらの戦闘でスコピーン=シュイスキイ公に接近し、これをツァーリとすることを夢想するようになったらしく、かれが死ぬとヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを暗殺犯として敵対。ヴァシーリイ・ゴリーツィン公とともにクーデタを準備し、当時モスクワにいた弟ザハーリイを通じてクーデタを成功させた。当初はセミボヤールシチナとともにヴワディスワフの即位を支持していたが、かれが正教への改宗を拒否し続けたこと、総主教ゲルモゲーンが反ポーランド闘争を呼びかけたこともあって、1611年には第一次国民軍を結成した。かれにドミートリイ・トルベツコーイ公、コサックを率いるイヴァン・ザルーツキイを加えた3人が事実上の抵抗政権を構成した。しかしモスクワ攻囲中にコサックと対立し、殺される。
 フィリップ・イヴァーノヴィチ・パシュコーフ(1583-1607)は一般に «イストーマ» と呼ばれる。トゥーラの小地主。偽ドミートリイ1世にも仕えていたが、トゥーラの貴族層を引き連れてボロートニコフの乱に参加する。しかしヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ側に寝返ってからは、その鎮圧に活躍。戦死した。

 ボロートニコフ率いる叛乱軍は1606年夏に北上を開始。クロームィ(かつて偽ドミートリイ1世軍と対峙するボリース・ゴドゥノーフ軍の拠点)近郊でトルベツコーイ公を、エレーツ近郊でミハイール・ヴォロトィンスキイ公を破り、さらにカルーガも陥として、モスクワ南方のコロームナを通過し、ついに初秋にはモスクワを攻囲するまでになった。モスクワの中からは、ボロートニコフと交渉する者まで現れた。
 しかしかれらが何よりもまず求めたのは、«生き延びたツァレーヴィチ・ドミートリイ(要するに偽ドミートリイ1世)» が姿を見せることであった。しかしそう自称していたモルチャーノフはポーランドにおり、そもそもポーランドも信憑性を認めておらず、ボロートニコフはこれを提供することができなかった。このため、叛乱軍の中からも離脱する者が現れ始める。特にこの叛乱軍は、リャプノーフやパシュコーフなどの貴族と、ボロートニコフなどの農民・奴隷との混成軍であり、やがて階級対立が顕在化。リャプノーフやパシュコーフはヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ側に寝返った。
 ここにおいてシャホフスコーイ公は、次善の策として «ツァレーヴィチ・ピョートル» と手を組む。

 1606年春の時点でドンを遡ってモスクワに迫っていた «ツァレーヴィチ・ピョートル»、すなわちイレイコ・ムーロメツを擁するコサックたちは、偽ドミートリイ1世が殺されるとドン下流に撤退していた。
 1606年暮れ、イレイコ・ムーロメツはプティーヴリでシャホフスコーイ公と合流。これにはさらにザポロージエ・コサックも加わる。しかしここでも貴族とコサックの階級対立が激化し、イレイコ・ムーロメツによって多くの貴族が虐殺された。
 ちょうどこの頃、モスクワではヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが反撃に出て、ミハイール・スコピーン=シュイスキイ公率いる政府軍がボロートニコフの叛乱軍を撃退。叛乱軍はカルーガに撤退していった。一方イレイコ・ムーロメツも1607年には北上し、トゥーラに拠点を置いた。
 時あたかも、待望の «ツァレーヴィチ・ドミートリイ»(偽ドミートリイ2世)がポーランドに出現した。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチにとっては、事態は非常に緊迫したものとなっていた。

 1607年、偽ドミートリイが再登場するには機が熟してした。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが即位した直後というモルチャーノフの時と異なり、すでに即位後1年以上が経過してヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが «貴族のツァーリ» であることが明らかになって、人気は下落していた。しかもボロートニコフの乱もあってすでに「偽ドミートリイ1世は死んでいない」という噂は広まっており、偽ドミートリイ2世の出現を受け入れる土台は築かれていた。加えてボロートニコフの叛乱軍はトゥーラで政府軍の攻囲下にあり、叛乱勢力は新たな旗印を求めていた。
 偽ドミートリイ2世はスタロドゥーブを拠点に、反ヴァシーリイ派貴族やコサック、すなわちボロートニコフの乱の参加者・支持者を糾合して、カルーガ・トゥーラを目指して北上した(この時のコサックの中心人物のひとりがイヴァン・ザルーツキイ)。偽ドミートリイ2世とボロートニコフの勢力が合流すれば、これは巨大な勢力となっただろう。おそらくこの危険性を認識して、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはカルーガのボロートニコフ軍に対する攻勢を強め、これをトゥーラに追った。
 そのトゥーラにあっては、イレイコ・ムーロメツが相変わらず貴族や聖職者に対するテロを行い、その勢力としてはコサックや農民・奴隷を残すだけとなっていた。こうして自ら弱体化した叛乱軍に、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは自ら政府軍を率いて攻撃。4ヶ月に及ぶ攻囲戦の末にこれを降伏させ、叛乱を鎮圧した。ボロートニコフとイレイコ・ムーロメツは処刑、シャホフスコーイ公は北部に追放した(テリャーテフスキイ公については不明)。
 政府軍はさらに北上する偽ドミートリイ2世軍をもブリャンスクで撃退した。こうして危機的な状況を迎えた1607年も、終わってみればヴァシーリイ・イヴァーノヴィチにとって事態はむしろ好転していた。

イヴァン・マルトィノヴィチ・ザルーツキイ(-1614)はおそらく現ウクライナ出身。のち、ドン・コサックのアタマーンのひとりとなる。偽ドミートリイ1世にも協力したが、特段の褒美にありつけず、ドンに帰還。イレイコ・ムーロメツに従いトゥーラへ。政府軍に攻囲される前にセーヴェルスカヤ・ゼムリャーに派遣されており、ここで偽ドミートリイ2世と出合った。以後、偽ドミートリイ2世を最後まで支え、その死後は第一次国民軍の中核となり、その崩壊後もモスクワ攻囲を継続。第二次国民軍と折り合いが悪くマリーナ・ムニーシェクとともに南方に逃れたが、最後には政府軍に敗北し、モスクワで処刑された。

 ポーランドにおいては、ゼブジドフスキの乱も政府軍が優勢な中、1608年には徐々に下火になっていった。この中で、叛乱軍の中核を担っていたアレクサンデル・ユゼフ・リソフスキとその私兵は叛乱を離脱し、新たな天地を求めて偽ドミートリイ2世軍に合流。早くも1608年春にはモスクワに程近いザライスクにまで攻め上がり、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの派遣した軍を破っている。
 同じ頃、ポーランド王軍に加わっていたロマン・ロジニスキも王軍を離れて偽ドミートリイ2世軍に合流。ミコワイ・ミェホヴィツキに代わってその «総司令官» となった。さらにヤン・ピョトル・サピェハなども(かれはトゥーシノ陣営成立後だが)加わっている。
 こうして偽ドミートリイ2世軍は、ロシア貴族(反ヴァシーリイ派)、ポーランド貴族(反ジグムント派もジグムントに忠実な貴族も)、コサックとの混成軍となったが、これにより大いに増強されたのは事実である。

アレクサンデル・ユゼフ・リソフスキ(-1616)は、政府軍の軍人としてスウェーデンと戦っていたが、給料の未払いを契機に部下を率いて略奪行為を開始。ゼブジドフスキの乱の中核となったが、早くに見切りをつけ、偽ドミートリイ2世軍へ。以後本軍とは別に北東ロシアを荒らしまわった。偽ドミートリイ2世軍が崩壊するとジグムントの «傭兵» となり、北西ロシアにてスウェーデンと戦う。1615年、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーからカラ海まで、ロシアを縦断して各地を蹂躙。政府軍もポジャールスキイ公もかれを止められなかった。かれの死後も部下たちは «リソフチツィ» と呼ばれ、ポーランド王の «傭兵» としてロシアを荒らしまわった。
 ロマン・ロジニスキ(-1610)はゲディミノヴィチ(?)。王軍に仕えていたが、私兵を連れて偽ドミートリイ2世軍へ。偽ドミートリイ2世の本軍の事実上の司令官となった。偽ドミートリイ2世軍の瓦解とともにジグムントのもとへ。
 ヤン・ピョトル・サピェハ(1569-1611)はリヴォニアにてスウェーデンと戦っていたが、ポーランド政府の承認のもとに偽ドミートリイ2世軍へ。偽ドミートリイ2世軍崩壊後もカルーガに同行し、1610年、最後のモスクワ侵攻を指揮。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが廃位された際には偽ドミートリイ2世をツァーリとするようセミボヤールシチナと交渉している。偽ドミートリイ2世が死ぬと、モスクワに駐屯するポーランド軍に合流し、第一次国民軍と戦って奪われたモスクワの一角を奪回している。クレムリンで死去。

 リソフスキ軍と偽ドミートリイ2世軍とが別行動を取ったことがヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ側を混乱させたか、偽ドミートリイ2世軍は順調に北上。リソフスキ軍と合流して、モスクワ近郊のトゥーシノに本営を構えた。
 ここには、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチに反発する大貴族たちが多数合流。すなわち、アレクセイ・シーツキイ公、ドミートリイ・チェルカースキイ公、ドミートリイ・トルベツコーイ公、ミハイール・サルトィコーフ、ヴァシーリイ・モサーリスキイ公などである。かれらによって、貴族会議が形成された。さらに宮廷が整備され、プリカーズ(省庁)も設けられた。また、上述のように、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチに反発していたフィラレートがおそらく意図的に偽ドミートリイ2世軍の捕虜となり、その総主教に任命された。
 こうして、トゥーシノには事実上ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチに対抗する政権が組織され、ロシアはヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの支配する領域と偽ドミートリイ2世の支配する領域とに二分された。大雑把に言えば、前者は東部と北部、後者は南部である。

トゥーシノはモスクワ北西部の集落。こんにちではモスクワ市の一部に編入されている。クレムリンから車で1時間といったところか(飛ばせば)。

アレクセイ・ユーリエヴィチ・シーツキイ公(-1644)はヤロスラーヴリ系リューリコヴィチ(第23世代)。1608年までは有象無象のひとり。父の又従兄弟がミハイール・ロマーノフの叔母と結婚していた関係もあってか、ミハイール治下では重用され、各地の総督や各プリカーズの長官を歴任した。
 ドミートリイ・マムストリューコヴィチ・チェルカースキイ公(-1651)は北カフカーズのチェルカース人の首長イダルの曾孫で、イヴァン雷帝の妃マリーヤ・テムリューコヴナの甥。おそらくボリース・ゴドゥノーフの時代にモスクワに来たものと思われる。大貴族の中で1610年の時点でも偽ドミートリイ2世陣営にとどまっていたのは、ドミートリイ・トルベツコーイ公のほかにはかれだけ。いつの間にか第二次国民軍にも参加。ミハイール・ロマーノフの治世にも、軍司令官やプリカーズ長官として活躍した。ちなみに、1613年の時点ではまだロシア語が書けなかった。
 ミハイール・グレーボヴィチ・サルトィコーフ(?-?)は古い大貴族。ボリース・ゴドゥノーフ時代にはポーランドとの外交交渉で活躍。偽ドミートリイ1世廃位に積極的にかかわったが、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチの治世では地方に飛ばされた。偽ドミートリイ2世陣営きっての親ポーランド派で、のちにヴワディスワフ擁立に積極的に動き、1611年にはモスクワに援軍を送るよう要請に赴いたまま、ポーランドに亡命した。
 ヴァシーリイ・ミハイロヴィチ・モサーリスキイ=ルベーツ公(-1611)はカラーチェフ系リューリコヴィチ。1604年に偽ドミートリイ1世にプティーヴリを明け渡し、以後その側近。フョードル2世とその母を殺したのも、マリーヤ・ナガーヤ偽ドミートリイ1世を息子と認めるよう説得したのもかれ。当然ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチには疎外された。1609年には偽ドミートリイ2世を棄ててスモレンスクのジグムント3世のもとへ。ポーランド駐屯軍に対するモスクワ蜂起の際に殺された。

 この状況を打破せんと、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはジグムント3世と交渉。偽ドミートリイ2世に仕えるポーランド兵の撤退を約束させた。しかしリソフスキのような元叛乱軍はおろかロジニスキやサピェハのようなジグムントに忠実なはずの貴族たちも、そのまま偽ドミートリイ陣営に居残っている。ジグムントが約束を反故にしたのか、あるいはかれらがジグムントに従わなかったのか(偽ドミートリイ勢力が優勢な当時、かれらの目の前にはロシアの新政権における大貴族の地位と広大な所領がぶらさがっていた)。
 こうして、ポーランドとの交渉がうまくいかないとなると、ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチはスウェーデン王カール9世に接近。親スウェーデン派の急先鋒ミハイール・スコピーン=シュイスキイ公が中心になり、1609年、スウェーデンと同盟。カレリア地方(現レニングラード州)を代償にその軍事支援を得た。
 しかし当時スウェーデンとポーランドは、二重の意味で宿敵の関係にあった。すなわち個人レベルでは、スウェーデン王でもあったジグムント3世が議会により廃位されており、代わりに議会が選んだスウェーデン王がその叔父であるカール9世であった。つまりジグムント3世とカール9世とは、実の甥と叔父でありながら、スウェーデン王位を巡り敵対関係にあったのである。他方国家レベルでは、1600年以来リヴォニアの領有を巡って戦争が続いていた。このためヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、スウェーデンと結ぶことで、必然的にポーランドとの戦争にも突入することになった。
 ポーランドとスウェーデンのリヴォニアを巡る戦争は、ヤン・ホドキェヴィチの活躍でポーランド優勢のうちに推移していた。特に1609年にはホドキェヴィチがスウェーデン軍の攻勢を跳ね返し、リガを再び確保していた。このようにリヴォニアを巡る情勢が好転したためか、通常は戦費負担を嫌って王の戦争には反対しているセイム(ポーランド議会)は、ジグムント3世のスモレンスク侵攻を承認した。スモレンスクこそは、1514年にロシアに奪われて以来ポーランドがその奪還を常に狙っていた地域であり、偽ドミートリイ1世が軍事支援の代償としてポーランドへの割譲を約束していた地でもある。
 なお、ジグムントのスモレンスク侵攻には別の側面もある。すなわち、ゼプジドフスキの乱こそ1609年に最終的に鎮圧するものの、ジグムントとしては貴族の中に鬱積している不満のはけ口を領土拡張に求めたいという思惑もあったものと考えられる。すでにリヴォニアをほぼ確保していた以上、領土拡張のためには新たな対外戦争が必要であった。
 すでにヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは1608年から、偽ドミートリイ2世との戦いのために西部国境の軍を召還しており、手薄になったスモレンスク地方にはポーランド貴族たちが私兵を使って攻め込んでいた。
 1609年、ジグムント3世はスモレンスクに侵攻。ミハイール・シェイン率いる防衛軍が、英雄的な防衛戦を展開した。

ミハイール・ボリーソヴィチ・シェイン(-1634)は、モローゾフ家の分家出身。軍人として活躍し、ヴァシーリイ・シュイスキイによりボヤーリン。スモレンスク総督(1607-)。スモレンスク防衛戦(1609-11)とスモレンスク戦争(1632-34)の中心人物。総主教フィラレートの片腕として、1619年以来政権の中枢で活躍した。しかしフィラレートの死で失脚し、処刑される。
 ちなみにスモレンスクは、1512-14、1632-34の二度の «スモレンスク戦争»、1609-11、1812、1941の3度の攻囲戦(防衛戦)で著名。モスクワへの経路にあたるため、ナポレオンもナチス・ドイツもモスクワ侵攻の前段階としてここを陥とそうとし、帝国軍も赤軍もモスクワ防衛のためここを死守しようとした。

 他方でヤコブ・デ・ラ・ガルディ率いるスウェーデン軍は、ミハイール・スコピーン=シュイスキイ公率いるロシア軍と合流して、ノーヴゴロドからトゥーシノ目指して進軍を開始。偽ドミートリイ陣営につく、あるいはポーランド軍の占領する諸都市を陥としつつ、トルジョーク近郊、トヴェーリ近郊でポーランド軍を撃破して、ヤン・サピェハが攻囲していた聖三位一体セールギイ修道院を解放した。
 ジグムント3世はスモレンスク侵攻に際して、偽ドミートリイ陣営にも合流を促す。すでに «自分たちのもの» となっているロシアの領土を横取りしようとするジグムントの行動に当初は反発していたポーランド貴族たちだったが、ロシア・スウェーデン連合軍の進撃を前に危機感を覚えたか、偽ドミートリイ勢の退潮を感じたか、やがて徐々にその麾下に合流していった。特に偽ドミートリイ軍を率いていたロマン・ロジニスキがジグムント側についたことが大きい。のみならず、正教と慣習の維持を認められたロシア貴族たちの中にも、偽ドミートリイを見限ってジグムント軍に加わる者が少なくなかった。その筆頭がミハイール・サルトィコーフであり、ルベーツ=モサーリスキイ公であった。かれらは偽ドミートリイ2世に替えて、ジグムントの王太子ヴワディスワフをツァーリにしようと、ジグムントとの交渉を始めた。
 こうしてトゥーシノ政権は事実上瓦解。偽ドミートリイ2世はトゥーシノを棄ててカルーガに逃亡した。ドン・コサックと、わずかな貴族勢だけがこれに従った。
 ただしトゥーシノ政権の瓦解を、ポーランド人やロシア貴族の離脱にだけ帰することはできまい。そもそもポーランド人兵士やコサックを戦力基盤としていたトゥーシノ政権は勢力を拡大しようと軍を各地に派遣して、逆にポーランド兵やコサックによる略奪や正教の教会の破壊などによって、もともと戦乱の及んでいなかった北ロシアの住民の反発を招いていた。その結果、北ロシアでは、特にヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを支持するわけではないが、ポーランド人やコサックには断固敵対するという勢力が圧倒的になった(これがこの後の歴史の推移にも大きく影響することになる)。

ヤコブ・デ・ラ・ガルディ(1583-1652)はスウェーデン大元帥(1620-52)、リヴォニア総督(1622-28)。ロシアやポーランドへの介入に関しては積極派だったが、王グスタフ・アドルフ自身がさほどでもなかった(«北方の獅子» は東よりも西に目を向けていた)。とはいえイングリアとリヴォニアを征服し、バルト海を «スウェーデンの湖» とする上で大きな役割を果たしている。三十年戦争には従軍していない。

 トゥーシノ政権が瓦解して明けた1610年、ロシア・スウェーデン連合軍はモスクワに凱旋。偽ドミートリイ2世が依然カルーガを拠点に勢力挽回をはかっており、ポーランドがスモレンスク攻囲を続けているとはいえ、情勢はヴァシーリイ・イヴァーノヴィチにとって好転しつつあったと言っていい。
 この時、モスクワ解放の英雄ミハイール・スコピーン=シュイスキイ公が急死。その人気に嫉妬し、かつ権力の危機を覚えたヴァシーリイ・イヴァーノヴィチと大貴族たちが暗殺させたものと考えられた。
 ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは実弟ドミートリイ・イヴァーノヴィチ公を新たにロシア軍の司令官に任じ、デ・ラ・ガルディのスウェーデン軍とともにスモレンスク救援に向かわせた。これに対してジグムントもスタニスワフ・ジュウキェフスキを迎撃に派遣。両者はヴャージマ近郊のクルーシノにて激突し、ロシア・スウェーデン連合軍は大敗を喫した。ドミートリイ・イヴァーノヴィチ公はモスクワへ、デ・ラ・ガルディはトルジョークへと撤退した。こうしてジュウキェフスキには、モスクワへの道が開かれた。

スタニスワフ・ジュウキェフスキ(-1620)はロシア語ではジョルケフスキイと呼ばれる。ポーランド野戦ヘトマン(1588-1613)、ポーランド大ヘトマン(1613-20)、ポーランド大宰相(1618-20)。ロシアへの介入には反対していた。ロシア軍を破り、セミボヤールシチナと合意に達してモスクワに入城したが、セミボヤールシチナとジグムントとの交渉が難航するのを見て、モスクワを去って帰国(この際ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチをポーランドに連れていく)。

ちなみに北西部に撤退したデ・ラ・ガルディは、1611年にはノーヴゴロド総督ブトゥルリーンと、スウェーデン王子カール・フィリップをツァーリとする代わりにスウェーデン軍がロシア軍に協力してポーランド軍を追い出す協定を結び、事実上ノーヴゴロドを占領。さらに周辺地域に占領地を拡大し、1615年にはプスコーフを攻囲した。デ・ラ・ガルディの対ロシア戦は1617年のストルボヴォ条約で終結した(この時ノーヴゴロドがロシアに返却された)。

 ジュウキェフスキはモスクワに進撃を開始。カルーガに逃亡していた偽ドミートリイ2世も再びモスクワを目指す。
 この状況下で、モスクワでは暴動が勃発。もともとヴァシーリイ・イヴァーノヴィチが大衆に人気がなかったことに加え、スコピーン=シュイスキイ公を «暗殺した» ことでさらに反ヴァシーリイ感情が高まっていた。クルーシノでの敗戦が、言わば反ヴァシーリイ感情激発の契機になった。貴族の中にもすでにヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを見限る者が少なくなく、スコピーン=シュイスキイ公をツァーリにしようとする動きも一部にはあったらしい。こうして7月、ヴァシーリイ・ゴリーツィン公とザハーリイ・リャプノーフ(その背後にはプロコーピイ・リャプノーフ)率いる貴族たちによりヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは廃位され、修道士とされた。

ザハーリイ・ペトローヴィチ・リャプノーフ(?-?)はリャザニの小貴族。プロコーピイ・リャプノーフの弟。1610年当時たまたまモスクワにいたザハーリイは、ヴァシーリイ・ゴリーツィン公やリャザニにいた兄と共謀し、暴動を指揮。ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチを廃位した。ヴァシーリイ・ゴリーツィン公フィラレートとともにジグムントとの交渉に赴く。以後不明。

 権力を握った7人のボヤーリンたち «セミボヤールシチナ Семибоярщина» は、偽ドミートリイ2世軍が迫る中、ヴワディスワフをツァーリとするようスモレンスク攻囲を続けるジグムント3世と交渉を開始すると同時に、北上する偽ドミートリイ軍(その主力のコサックを貴族たちは嫌っていた)に対抗するため、ジュウキェフスキ率いるポーランド軍をモスクワに迎え入れた。

セミボヤールシチナとは「7人のボヤーリンの統治」といった程度の意味。7人のボヤーリンとは次のとおり。フョードル・ムスティスラーフスキイ公イヴァン・ヴォロトィンスキイ公アンドレイ・トルベツコーイ公アンドレイ・ゴリーツィン公ボリース・ルィコフ=オボレーンスキイ公イヴァン・ロマーノフ、フョードル・シェレメーテフ。

 その後ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチは、弟ドミートリイ & イヴァンとともにジュウキェフスキに引き渡され、ポーランドに送られた。生きてロシアに戻ることができたのは、末弟イヴァン・イヴァーノヴィチ公だけだった。
 1635年、遺骸はミハイール・ロマーノフによりロシアに運ばれ、クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に埋葬された。

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最終更新日 30 11 2012

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