セミョーン・ドミートリエヴィチ
Семен Дмитрьевич Шуйский
スーズダリ公 князь Суздальский (1383-93)
ニージュニイ・ノーヴゴロド大公 великий князь Нижегородский (1387-93)
生:?
没:1402.12.02−ヴャートカ
父:ニジェゴロド=スーズダリ大公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ (スーズダリ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ)
母:ヴァシリーサ (ロストーフ=ボリソグレーブスキイ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ)
結婚:
& アレクサンドラ
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | ||||||
1 | ヴァシーリイ |
第15世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。
セミョーン・ドミートリエヴィチにはヴァシーリイとイヴァンという兄弟がいた。経歴からするとヴァシーリイが長男だろうと推測されるが、セミョーンとイヴァンの長幼の順はよくわからない。
生年も不明だが、姉妹のエヴドキーヤ・ドミートリエヴナが1353年の生まれとされているので、セミョーン・ドミートリエヴィチの生年もその前後だろう。
1375年、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイに従いトヴェーリ遠征。
1377年、叔父ボリース・コンスタンティーノヴィチとともにモスクワ軍を率い、モルドヴァー人遠征。
1382年にトクタミシュがモスクワに対する報復遠征に来た時には、兄ヴァシーリイ・キルデャーパとともにこれに従軍している。
1383年、父が死去。
当時、兄ヴァシーリイ・キルデャーパも叔父ボリース・コンスタンティーノヴィチもともに、たまたまサライにいた。しかし兄は事実上人質であり、このためトクタミシュは叔父にニージュニイ・ノーヴゴロド公位の認可状を与える。セミョーン・ドミートリエヴィチは父の遺領のうちスーズダリだけを継ぐ。
1387年、ヴァシーリイ・キルデャーパが帰国。トクタミシュは兄を釈放すると同時に、ゴロデーツ公位の認可状を与えていた。
セミョーン・ドミートリエヴィチは兄とともにドミートリイ・ドンスコーイの支援を要請。ゴロデーツではなくニージュニイ・ノーヴゴロドに侵攻し、叔父を追ってこれを獲得した。ゴロデーツには手をつけず、叔父に与えた(もともとボリース・コンスタンティーノヴィチの分領だった)。ただしゴロデーツも兄が領有したとする文献もある。
こうしてドミートリエヴィチ兄弟は共同でニージュニイ・ノーヴゴロドとスーズダリを領有することになったが、どうやって分担していたのかは不明。ニージュニイ・ノーヴゴロドとスーズダリはかなり離れており、しかも間にはモスクワ大公領が南から突き刺さっている。文献の中には兄をスーズダリ公、セミョーン・ドミートリエヴィチをニージュニイ・ノーヴゴロド公と呼んでいるものがあるが、あるいはそのように分割していたのかもしれない。もっとも、もし兄がゴロデーツを領有していたとするならば、ニージュニイ・ノーヴゴロドの北隣にあるゴロデーツはあまりにスーズダリから離れすぎており、とうていスーズダリとゴロデーツの双方をひとりが統治できたとは思えない。
1390年、トクタミシュから認可状を得たボリース・コンスタンティーノヴィチにより、ドミートリエヴィチ兄弟はニージュニイ・ノーヴゴロドを奪われる(この時代償としてゴロデーツを与えられたとする文献もある)。
しかし1393年、モスクワ大公ヴァシーリイ1世がトクタミシュからニージュニイ・ノーヴゴロドを含む認可状を獲得。ボリース・コンスタンティーノヴィチを追ってニージュニイ・ノーヴゴロドを併合した。ゴロデーツが誰の領有となっていたかよくわからないが、どうやらこの時同時にモスクワ大公領に併合されたらしい。
ドミートリエヴィチ兄弟にはスーズダリだけが残された。しかし1394年にはヴァシーリイ1世がスーズダリにも侵攻。ドミートリエヴィチ兄弟には、スーズダリ公領のはずれにあるシューヤだけが分領として与えられた(ただしニジェゴロド=スーズダリ大公の名乗りは許されたようだ)。
ドミートリエヴィチ兄弟は1394年のうちにサライに赴き、トクタミシュに父祖伝来の地の奪還を訴えるが取り上げられず。
兄はその後記録から姿を消すが、セミョーン・ドミートリエヴィチは活発に奪還のための活動を続けたようだ。1399年、タタール軍(カザン?)を率いてニージュニイ・ノーヴゴロドに侵攻。ニージュニイ・ノーヴゴロド市民は降伏するが、タタール軍の略奪をセミョーン・ドミートリエヴィチはやめさせることができなかった。しかもモスクワ軍がやってくると、即座にステップに撤退する。
以後、セミョーン・ドミートリエヴィチはキプチャク・ハーン国に居住。
1401年、セミョーン・ドミートリエヴィチの行方を追っていたモスクワ軍が、モルドヴァー人の地で妻を捕らえる。妻がモスクワに連行されると、セミョーン・ドミートリエヴィチは自らモスクワに出頭し、ヴァシーリイ1世に屈服した。妻とともにヴャートカに流され、直後に死去。