リューリク家人名録

ミハイール・ヴァシーリエヴィチ・スコピーン=シュイスキイ

Михаил Васильевич Скопин-Шуйский

князь

生:1586.11.08/11.18
没:1610.04.23/05.03 (享年23)−モスクワ

父:ヴァシーリイ・フョードロヴィチ・スコピーン=シュイスキイ公フョードル・イヴァーノヴィチ・シュイスキイ公
母:エレーナ・ペトローヴナ・ターレヴァ公女

結婚:
  & アレクサンドラ (ヴァシーリイ・ペトローヴィチ・ゴロヴィーン)

子:?

第22世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。ロシア貴族。

 1604年、ボリース・ゴドゥノーフのストーリニク(もとは食卓係、それが転じてボヤーリンに次ぐ宮中の位階)。偽ドミートリー1世にも重用された。
 1606年、親族のヴァシーリイ・シュイスキイがツァーリに即位。

 1606年、ボロートニコフの叛乱が勃発。カルーガを拠点に勢力を拡大し、モスクワ近郊のコローメンスコエを占領してモスクワを攻囲する。
 この叛乱の鎮圧をヴァシーリイ4世・シュイスキイから一任されたミハイール・ヴァシーリエヴィチは、若干20歳にしてこれを撃破。1607年にはボロートニコフが拠点を移したトゥーラを攻略し、叛乱を鎮圧した。

 1607年、偽ドミートリイ2世が出現。ポーランド軍を率いた偽ドミートリイ2世はコサックの支持も得てモスクワに侵攻。近郊のトゥーシノ村に本営を置いた(«トゥーシノ政権»)。これには反ヴァシーリイ・シュイスキイ派の貴族たちも合流していった。
 これに対抗するため、ヴァシーリイ4世・シュイスキイは、スウェーデンに接近。ミハイール・ヴァシーリエヴィチは親スウェーデン派の急先鋒だった。

 1609年、ノーヴゴロドで兵を集め、スウェーデン軍の支援も受けて、偽ドミートリイ2世のトゥーシノに進撃。偽ドミートリイはカルーガに逃亡する。各地で民衆の反ポーランド蜂起も勃発し、偽ドミートリイ政権は自然消滅していった。

 ミハイール・ヴァシーリエヴィチはモスクワに凱旋。ボロートニコフの乱の鎮圧、偽ドミートリイ政権の撃破と、軍事的成功を重ねたミハイール・ヴァシーリエヴィチの一般的人気は高く、そのためヴァシーリイ4世・シュイスキイとかれを支える大貴族たちの反感を買っていたらしい。もともとヴァシーリイ4世・シュイスキイは大貴族に擁立され、大貴族を権力基盤とするツァーリであって、一般的人気に乏しかった。このためプロコーピイ・リャプノーフを中心とするリャザニ士族たちが、ヴァシーリイ4世に替えてミハイール・ヴァシーリエヴィチをツァーリにしようと画策を始める(実際リャプノーフはミハイール・ヴァシーリエヴィチに接触したとも言われる)。
 しかしモスクワに帰還した直後、ミハイール・ヴァシーリエヴィチは急死した。当然毒殺の噂も立ったが、真相は不明である。
 クレムリンのアルヘンゲリスキイ大聖堂に葬られた。

 かれの死とともに、スコピーン=シュイスキイ家は断絶。

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