リューリク家人名録

イヴァン・イヴァーノヴィチ・シュイスキイ «プーゴフカ»

Иван Иванович Шуйский, "Пуговка"

князь
ボヤーリン боярин (1597-1602)

生:1566?
没:1638

父:イヴァン・アンドレーエヴィチ・シュイスキイ公アンドレイ・ミハイロヴィチ・シュイスキイ公
母:?

結婚:?

子:?

第21世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。ロシア貴族。

 1587年、ボリース・ゴドゥノーフによってシュイスキイ一族が失脚した際には、シューヤに追放された。1591年に赦され、モスクワへ。

 1597年にはボヤーリンとされた。フョードル1世の死が翌年なので、あるいはその後をにらんだボリース・ゴドゥノーフがイヴァン・イヴァーノヴィチ公を取り込もうとしたのか。それかあらぬか、1602年にはボヤーリンの地位を剥奪されている。

 1606年、兄ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ公がツァーリに即位。早速兄にボロートニコフの乱の鎮圧に派遣されるが、ウグラ河畔で敗北した。その後もボロートニコフの乱の対処にあたっている。

 1610年、兄が廃位される。«セミボヤールシチナ»(兄の廃位後に実権を握った7人のボヤーリン)がポーランド軍を招くと、シュイスキイ一族は捕らえられてポーランドに抑留される。イヴァン・イヴァーノヴィチ公も1619年まで虜囚生活を送った。
 1619年、デウリノ条約の締結で、フィラレートとともに釈放されて帰国。すでにツァーリにはフィラレートの息子ミハイール・フョードロヴィチ・ロマーノフが即位していた。
 実権を握ったフィラレートの下でスードヌィイ・プリカーズ(貴族用の裁判所)の長官を務めた。

 かれの死とともに(ロシア系の)シュイスキイ家は断絶した(ポーランドに別系統が残っている)。

 添え名の «プーゴフカ» とは「ボタン」のこと。花の名前ではなく、服についているアレである。転じて「押しボタン」などという意味にもなっている。

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