フョードル・イヴァーノヴィチ・スコピーン=シュイスキイ
Федор Иванович Скопин-Шуйский
公 князь
ボヤーリン боярин (1543-)
生:?
没:1557
父:イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・シュイスキイ公 (ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・シュイスキイ公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ヴァシーリイ | -1595 | エレーナ | 1570-1613 | ピョートル・タターエフ公 |
第20世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。ロシア貴族。
ヴャージマ総督(1534)。
1533年のツァーリ・ヴァシーリイ3世、1538年のエレーナ・グリンスカヤの死で、幼帝イヴァン4世そっちのけの権力闘争が激化。その主役となったのが、ベリスキイ公、ミハイール・グリンスキイ(エレーナ・グリンスカヤの弟)、そしてシュイスキイ一族である。
1542年、アンドレイ・シュイスキイが権力を掌握し、ミハイール・グリンスキイが激しく巻き返す。1543年にはイヴァン4世の命で(当然それを操っていたのはミハイール・グリンスキイ)、アンドレイ・シュイスキイが処刑され、シュイスキイ一族は失権。ボヤーリンとなったばかりのフョードル・イヴァーノヴィチも追放された。
とはいえミハイール・グリンスキイの権力掌握も完全ではなく、フョードル・イヴァーノヴィチは早くも1544年にはモスクワへの帰還を赦されている。それどころか、再び各地に総督・軍司令官として派遣された。
1547年、イヴァン4世がツァーリとして戴冠式を挙行したのにあわせて、モスクワではミハイール・グリンスキイに反発した暴動が勃発。フョードル・イヴァーノヴィチもこれに参加し、ミハイール・グリンスキイを追い落した。