リューリク家人名録

アンドレイ・コンスタンティーノヴィチ

Андрей Константинович

スーズダリ公 князь Суздальский (1355-59)
ニージュニイ・ノーヴゴロド公 князь Нижегородский (1359-65)

生:?
没:1365.06.02

父:スーズダリ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチスーズダリ公ヴァシーリイ・アンドレーエヴィチ
母:アンナ・ヴァシーリエヴナ (ギリシャ人)

結婚:
  & アナスタシーヤ or ヴァシリーサ (トヴェーリ人イヴァン・キヤソフスキイ)

子:なし

第14世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチの長男。

 生年は1320年頃だろうと想像される(次弟ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチが1322年生)。もっとも、弟たちとは腹違いとする文献もあり、だとするとアンドレイ・コンスタンティーノヴィチの生年はもっと早かったのかもしれない。

 1355年に父が死ぬと、サライに赴いてジャーニー・ベクの許可を得て公位を継承。
 1359年頃(おそらく以前)に、分領の主都をスーズダリからニージュニイ・ノーヴゴロドに移転。スーズダリは、弟ドミートリイに与える。
 もっとも、もともとアンドレイ・コンスタンティーノヴィチはニージュニイ・ノーヴゴロドに住んでいたとも言われる。伯父アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチによってニージュニイ・ノーヴゴロドがスーズダリ領となって以来、ニージュニイ・ノーヴゴロドは政治的重要性を高め、スーズダリに代わって中心都市となっていた。父コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチも、スーズダリよりもニージュニイ・ノーヴゴロドに多く居住したとされる。
 むしろこの時、スーズダリ公領を弟たちと分割した、と考えた方が適切だろう。ドミートリイにスーズダリを、ボリースにゴロデーツを与えたが、末弟ドミートリイ・ノーゴティには何も与えなかった(弟たちへの分領分与は1355年のことだとも言われる)。また、当初アンドレイがスーズダリを、ドミートリイがニージュニイ・ノーヴゴロドを相続したものの、1359年に交換したのだとする文献もある。
 この辺り文献によって言っていることが違ったりもするが、いずれにせよ1355年の時点でスーズダリを継承したアンドレイ・コンスタンティーノヴィチが、1359年頃にニージュニイ・ノーヴゴロドに移転した点では多くの文献が一致している。

 1359年、ヴラディーミル大公モスクワ公イヴァン2世赤公が死去。
 ヴラディーミル大公位は過去30年間、イヴァン・カリターセミョーン傲慢公、そしてイヴァン赤公と、歴代モスクワ公が世襲してきていた。しかしイヴァン赤公の遺児ドミートリイ・ドンスコーイは当時まだ9歳。
 加えて、父コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチイヴァン・カリターが死んだ時にも、セミョーン傲慢公が死んだ時にも大公位獲得に名乗りを上げており、伯父アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチも大公となっており(異説もあるが)、アンドレイ・コンスタンティーノヴィチも大公位を要求してもおかしくはなかった。実際、時のハーンの方から提供されたとも言われる。
 以下、父の時にならって、当時のヴラディーミル系諸公のリスト。

分領生年
ウスレティンスキイアンドレイ・フョードロヴィチ1330?
ボリソグレーブスキイコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ1312叔父
ベロオーゼロフョードル・ロマーノヴィチ1310?
スゴルスクヴァシーリイ・ロマーノヴィチ1310?
ヤロスラーヴリヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ1339
グレーブ・ヴァシーリエヴィチ1340?
ロマーノフロマーン・ヴァシーリエヴィチ1340s?
モローガミハイール・ダヴィドヴィチ1300?叔父
モスクワドミートリイ・ドンスコーイ1350
ズヴェニーゴロドイヴァン小公1354
セールプホフヴラディーミル勇敢公1353従兄弟
ニージュニイ・ノーヴゴロドアンドレイ・コンスタンティーノヴィチ1320?
スーズダリドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ1322
ゴロデーツボリース・コンスタンティーノヴィチ1320s?
なしドミートリイ・ノーゴティ1320s?
ガーリチドミートリイ・イヴァーノヴィチ
ホルムフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチ1328
ミクーリンミハイール・アレクサンドロヴィチ1333
ドロゴブージュセミョーン・コンスタンティーノヴィチ1320?従兄弟
エレメイ・コンスタンティーノヴィチ1320s?
トヴェーリヴァシーリイ・ミハイロヴィチ1304叔父
スタロドゥーブイヴァン・フョードロヴィチ1310?

 これで見ると、アンドレイ・コンスタンティーノヴィチが決して年長ではなかったことがわかる。
 年代記によればアンドレイ・コンスタンティーノヴィチは、ドミートリイ・ドンスコーイが成年した時の争いを避けるため、またドミートリイ・ドンスコーイの権利を尊重して、認可状をもらおうとしなかったとされる。
 兄に代わって、次弟ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチがサライに赴き、ナウルーズ・ハーンからヴラディーミル大公の認可状をもらった。
 ただし当時のキプチャク・ハーン位はハーン一族の内紛で混乱しており、実際ナウルーズ・ハーンの失脚後、ムラド・ハーンはドミートリイ・ドンスコーイに認可状を与えている。アンドレイ・コンスタンティーノヴィチに大公位が提供されたというのも(本当だとして)、キプチャク・ハーン国内の権力闘争と無縁ではなかったかもしれない。

 ちなみに、スーズダリはヴラディーミルの近郊だが、ニージュニイ・ノーヴゴロドは遠く東方に離れている。アンドレイとドミートリイが分領を交換した背景には、あるいはそんなこともあったかもしれない。

 1364年から北東ルーシで再び流行し始めた疫病(黒死病)に倒れ、ニージュニイ・ノーヴゴロドに葬られる。

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